其ノ陸 ── 揺蕩ウ花弁意味スルハ
時を僅かに遡り、魏国の砦から淮河方面にある林だった場所。
其処は特に孫尚香の火矢による被害が大きかったようで、大半の草木は焔に包まれ、今も尚轟々と燃え盛っている。
そんな火の粉が舞う場所で、呉国の鬼──陸伯言が刀を薙ぐも、空を切る。
対するは、跳んで躱した魏国の鬼──賈公閭。
彼が着地すると同時に、間髪開けずに飛んでくる複数の焔の玉。
公閭はそれらを素早く刀で切り捨てるが、半分に割れた焔玉は僅かに彼の髪や和服をかすり、じゅ、と静かに焦がす。
それを横目に見遣る彼は、眉根ひとつ寄せず落ち着きのある表情をしていた。
本来であればすぐ様反撃の態勢に移るべきだが──公閭はそうしなかった。
否、敢えてそうしなかったと言うべきか。
伯言も公閭の行動に違和感を覚えたのか、間合いを詰めようとしていた動きを止める。
「……何を狙ってんの?」
「狙っているというか……恐れている、でしょうか」
「へぇ、自分から恐いとか言っちゃうんだ?」
ははっ、と薄ら笑いを浮かべる伯言に対し、公閭は表情一つ変えずに、暗い藤色の瞳に伯言の姿を映している。
反射が恐ろしい──それは紛れもない事実。
彼が淮河を渡って来れたのも、春華の氷矢を上手く利用し、河の一部を凍らせることで足場を作るという、反射の妖術を駆使したが故。
分かっていることといえば、反射は喰らう妖術に比例して反ってくる。
遠距離であればともかく、至近距離で自分の攻撃を反されたら、妖術が強大であればあるほど避けるのは至難の業だろう。
そして何より厄介なのが、物理ですら反ってくるということ。
弓矢ならまだしも、刀や槍を扱う者にとっては、反射の妖術は天敵と言っても過言ではないかもしれない。
だから、恐い。
いつどのように反ってくるのか、予測し難いから恐ろしい。
しかし、恐いのは今じゃない。
今はそもそも、こちらから攻撃を仕掛けない──否、攻撃可能な妖術を仕掛けられないから。
「で、結局何を狙ってるの?」
「だから狙っているのではなく恐いのだと」
「だとしても。何か考えがなきゃ、全く反撃しない利点が何もないじゃん」
「……ええ、そうですね」
公閭の表情が僅かに綻ぶ。
しかし、静かに伯言を捉えて離さない紫水晶の瞳からは、温度感も感情も何も感じられず、考えを読ませまいと拒んでいるようだった。
そんな公閭の視線は、沈黙の挑発にも感じられて。
それが気に触ったらしい伯言は、口角を上げながらも眉根を寄せた。
「ほんっとう、むかつくなぁ?」
「何がです?」
「お前のその態度がだよ、まあ何にせよ攻めてこないなら──こっちから行くだけだッ!」
(──速いっ──!)
間合いを詰めるその速度。
それが今までの速さより上がっていると感じるのは気のせいではなく、躱せていた攻撃を防がざるを得なかった。
手にしていた刀で受ければ、かなりの風圧と、びり、と腕が痺れるような重さ。
鬼の身体的能力が一時的に上昇することに、心当たりはある。
──自身がこれからやろうとしている事も、それに該当するからだ。
立て続けに攻めてくる伯言は手を緩める気は毛頭ないようで、速くて重い攻撃の連続に、初めて公閭の顔が歪む。
その表情を映した琥珀色の瞳が愉しそうに煌ついた。
「──っはは! いつまで守りに徹する気だよ!!」
「五月蝿いですねぇ考えがあるんですよ考えが!!」
「あるんだろ!? なら早く考えとやらをやって見せろよ!!」
挑発だというのは分かっていた。
とは言え、何時までも防戦一方でいるのも此方が不利になりかねない。
──ならば、攻めに転じるのみ。
振り下ろされる伯言の刀を、公閭は己の刀と全身で受けた後、目一杯の力を込めて弾き返した。
反射的に距離を取った伯言に対し、公閭は間髪開けずに間合いを詰めようと駆け出す。
初めて反撃らしい動作を見せた公閭に、伯言は僅かに目を見張るも、より愉しそうに嗤った。
「〈焔鏡〉!」
伯言の刀が銅鏡のような形状に変化する。
公閭の前に鏡が現れたものの、彼は足を止めることなく鏡に向かう──かと思いきや。
直後、その場から黒い靄と共にゆらりと姿を消した。
予想外の動きに、伯言は一瞬だけ思考が停止するも、それは既に経験していた妖術で。
過去の記憶と現在の感覚を頼りに、反射的に振り返った琥珀色の瞳に写ったのは。
片足を付き、刀を地に刺している公閭の姿。
二人の視線が交錯すると、公閭は小さく微笑い──
「〈影朧〉」
唯その一言だけで、妖術は成った。
彼が狙っていたのは、伯言本人ではなく、陽の光による彼の影。
公閭が刀の名を口にしたことで妖術が発動し、影から黒い領域が広がり、二人を完全に包み込んだ。
──否、包み込んだのではなく。
「お待たせしました。此処は影の中──感覚としては、先程までいた地の下にいる、とでも言いましょうか」
「……狙ってたのはこれ? 影に覆われたような感覚だったけど、実際は僕たちが吸い込まれたってわけ?」
「その通りです」
公閭は目を細めて微笑った。
と同時に、伯言が感じ取った彼の変化。
いや、感じ取れるようになったと言うべきか。
これまで息を潜めていたかのように、周囲に広がる闇のあらゆる所から、露わになった公閭の妖気の気配。
四方八方を囲まれているような状況に、伯言は眉根を寄せながらも強気に笑む。
「……はっ、本領発揮って感じだね」
「本領発揮というか、こうしないと妖術が扱えないんですよね、昼間は」
「ああ、夜なら関係ないんだ」
「陰の気は少し特殊なので、陽の当たらない場所──即ち影や夜に影響するものが多いと聞いています」
「……へぇ、陽光や焔が加護になり得る僕とは真逆じゃん」
「そうです。だから今は」
すう、と腕を前に上げ。
「今なら、あなたの反射にも対応する自信がある」
手のひらを閉じると同時に、周囲の闇から短剣のような黒い刃が複数、伯言に向かって飛翔する。
彼は鏡型にしていた刀を咄嗟に戻し、影の刃を斬って防ぐ。
すぱりと斬れた影は気体のように、ゆらりと溶けるように消えていく──が、当然それで終わりではなく、周囲の闇より次から次へと刃が襲い来る。
「なるほどなぁ……!!」
伯言は顔を歪めながら刀を振るう。
斬って、薙いで、時には避けて。
一度斬った個体は脆く消え去るものの、無数にあること、そして実態が無い影とは言え、斬った感覚がしっかり残る以上は防がなければ無傷では済まされないこと。
──それが厄介なことこの上ない。
斬って、薙いで、時には避けて。
人間の目では追えない速さで影を捌いている伯言を、公閭は距離を取って静かに見つめていた。
──反射は恐い。
己の妖術を扱いやすい環境にした今こそ、反される恐れも十分にある。
だからこそ、彼は反射の欠点を狙った。
反射をする鏡は刀の形を変えて作り出されるものであり、捉えられるのは表面に当たる範囲のみ。
即ち、複数の方向から防がざるを得ない場合は、伯言は刀を手放せない。
(……とはいえ、反射の可能性を完全に潰せたわけではないでしょうね)
陰の気は影や夜などの環境要因の影響が大きいものの、火の気は〝陽光もしくは焔があれば尚良い〟というもので、陽光がなくとも妖術の扱いに制限があるわけではない。
だからこそ、何れは何かしらの手立てを──
刹那、公閭の瞳に映ったのは、刀で防ぐことができたであろう刃を、わざと己の左腕で受け止めた伯言の姿。
ざくりと刃が刺さった腕からは血が流れ出るものの、伯言はそれに構わず刀を持つ右腕で刃を捌き続ける。
「この程度なら──ッ!」
口角を上げた伯言が、刃を素早く捌いたあとの一瞬の隙にしゃがみ込み、勢い良く左手を地につくと。
伯言の周りを囲うように、ごう、と炎が上がった。
それが彼の盾となり、影の刃は貫通せず、炎に触れて燃えるように消滅する。
「なるほど、妖気の濃さを利用した防御……ですか」
「受けた感じ、複数に分散してる分、ひとつひとつの濃度は小さかったからね」
「意外と頭を使うのですね」
「馬鹿にするのも大概にしろよ??」
公閭は刀の先端で軽く地を叩き、刃の飛翔術を解除する。
妖術の優劣は気の相性の他、妖気の濃さ、強さにより打ち消し、上書きできる場合がある。
先の伯言の行動がいい例だ。
妖気を分散したものに対し、集中させた術を展開すれば対象を防ぐことが可能になる。
とは言え、集中させたとしても、対象の妖気の濃度より劣っていれば防ぐことはできず、貫通する。
故に彼は刃を受けることで、刃自体の妖気を計った、ということだろう。
「……あの時は最高に気分が悪かったからね」
伯言はぼそりと呟いた。
彼の脳裏に浮かぶのは、焔を氷で覆われた──屈辱的な光景。
「此処もお前に利がある以上は、きっと僕が抵抗するだけ無駄なんでしょ」
「確かに、影を操れる以上は妖気の調整も容易いですが」
「だよね。てことはやっぱり、ここに居る以上は僕にとって不利だ」
炎柱に囲まれながら、伯言はゆっくりと立ち上がる。
その顔には小さな笑みが浮かんでいて。
先の言葉とは正反対な表情に、公閭は僅かに怪訝な顔をしながら刀を構える。
「この空間から抜け出す……と言ったところでしょうか」
「そうだね」
「出る方法は簡単です、私を──」
「お前を殺せば妖術が解けるんでしょ?」
「理解ってるじゃないですか」
「お前から口にするって事は、此処で僕を殺す自信があるってか?」
「肯定はしませんが、否定もしません」
表情ひとつ変えずに淡々と答える公閭と、琥珀色の瞳を煌つかせる伯言。
影の中の世界には二人以外の何物も存在せず、彼らが口を閉じれば、流れるは異様に静かな静寂の時間のみ。
「……はっ、ただじゃ死なないから」
「如何する気です?」
「それはやってみなきゃ分かんないよ」
右手に提げていた刀を横に持ち上げ。
「〈焔鏡〉──」
その名を呼べば、姿を変える。
「ひとつだけ教えてあげるよ」
伯言は、左手に作り出す渦巻く焔玉を見せつけるように、腕を己の前方へ伸ばす。
焔玉の陽光が琥珀色の瞳に映り込み、煌ついた視線が公閭を射抜く。
「僕の反射の威力はね、大きさに比例するんだ」
「鏡に当たる攻撃をそのまま反射する……技の威力が大きければ大きいほど、反射を活かせるというのは存じてますが」
それは違う──とでも言いたげに、伯言は薄ら笑いを浮かべた。
「確かにそれもそうなんだけど、今僕が言いたいのは受ける威力の話じゃない」
「…………まさか」
勘付いた公閭を嘲笑うようにパチンと指を鳴らせば、伯言の隣にあった鏡が姿を消した──かと思いきや。
公閭と伯言、二人の足元に、空間を映し出す水面が現れた。
──否、水面ではなく。
水面だと錯覚するほどの、大きな鏡が現れた。
「っ───!」
伯言が何をする気なのか悟った時には、もう遅く。
足元の反射鏡に映る自分を睨みながら、公閭は如何避けるべきかをひたすらに考える他なかった。
「妖力の消費が激しいから、いつもはやらないし、正直これで解決するかは微妙なんだけど。
お前を巻き込めば少なくとも妖術は解除される可能性が高まるでしょ? 死ねば確実」
伯言を囲っていた炎柱が、焔玉に向かって徐々に吸い込まれていく。
恐らく彼は、あれを鏡に放つのだろう。
──鏡の範囲は、あまりにも広い。
──この空間を解除したとて、鏡は消えない。
だから、つまり。
鏡の範囲から出ないことには、喰らうは必至──
ならば、どうして少しでも威力を軽減すべきか。
「考えてることは分かりましたが、あなたも無事では済まないのでは?」
「死ぬわけないじゃん、無傷では済まないだろうけど。
大体こんなことで時間稼ぎしたって無駄な足掻きだよ、潔く負けを認めて領域を解除すれば、僕も鏡はもとに戻すけど?」
馬鹿にしたようにクツクツと笑う伯言に対し、公閭は眉根を寄せながら小さく舌打ちをする。
一方で、領域を解除すれば鏡を戻す、という伯言の提案は、彼にとって悪いものではなかった。
しかし。
「例え私があなたの提案に乗って領域を解除したところで、あなたはそのまま反射を実行するんでしょう?」
「……へぇ?」
「昼間且つ延焼状態の外の世界であれば、あなたの反射の威力も増すわけですし。
よって鏡をもとに戻すなど、ただの嘘に過ぎないんでしょうね」
「お前のそういうとこ、本当大嫌いだよ僕」
伯言が笑みを消すのを合図に、公閭は地を強く蹴り、上へ飛んだ。
鏡から距離を取ることで、少しでも威力を軽減するために。
「こんな訳わかんない場所──」
炎柱を吸収し終え、人の頭よりも大きくなった焔玉を、伯言は頭上に突き上げて。
「領域ごと壊してやるよッ!!」
足元の鏡に向かって思い切り振り下ろす。
焔玉が鏡の面に触れた直後、足元から放たれた白い光が全てを覆い尽くした。
光焔万丈、危急存亡の如く──輝く焔が空高くのぼる時、朱と紫の花が揺れる。
*
*
*
焔の海の中、〈泡沫〉による水膜を纏いながら、一際強い妖気を感じる方向へ子元は駆ける。
周囲にある焔からも微かな妖気を感じる以上、四方八方を敵に囲まれている状況に等しい。
が、それは伯言も無事であるならば……だ。
以前相対した際にも似たような状況になったが、規模がまるで違う。
いくら火の気があると言えども、あの爆発を喰らっていたら無事では済まないはず。
──それならば。
この先に一際強く感じる、妖気の正体。
それが若し、公閭ではなかったとしたら。
(……考えるのはやめだ、見れば分かる)
余計なことは考えまいと、子元は燃え盛る炎の中を躊躇いなく駆けて行く。
水を纏っているとは言えども、完全に焔を遮れるわけではなく、散らばっている妖気の濃度によっては和服を、時には髪を僅かに焦がす。
あと少し、と感じた刹那。
焔に覆われていた視界が突然開けた。
爆発により、大きく抉られたような地面の中心には──
「……また会ったね」
子元の姿を見上げるなり、ニタリと嗤うは朱色の鬼。
着衣は至るところが破れ、腕や脚からは流血し、和服を赤黒く染めている様から負傷はしているものの。
何食わぬ顔で、彼はいた。
「貴様……」
「ははっ、僕がここにいて最高に気分が悪いって顔してる」
「当たり前だ、俺は再会など望んでいない」
「残念だったね、もうお前と同じ陰の気を持つあいつはいないよ」
「勝手に言ってろ。貴様の言葉など信じる気はな──……」
その時、目の前にふわりと舞い落ちて来た黒いもの。
それが何かを認識するよりも早く、本能的に感じ取れた妖気に、子元は息を呑まざるを得なかった。
舞い落ちて来た、花弁のような和服の切れ端から感じ取れたのは、良く知る彼の──公閭の妖気。
「そう、それだよ。だから言ったじゃん。
今お前が見てる塵芥こそが、僕の炎で燃えて散り散りになった、あいつの姿だよ」
──鬼の終は、花が舞う。
はらり一片、亦一片と。
宙に揺蕩う命の花弁は、静かに姿を消してゆく──……
黒紫色の花弁の如く、ふわりふわりと舞い落ちて来る数枚の切れ端。
それが燃えるようにじりじりと小さくなり、静かに消えていく様を、子元はただ呆然と瞳に移していた。




