其ノ伍 ── 亡キ者ノ想ヒヲ継グ
突如として消えた、二人分の妖気。
それは恐らく──公閭の妖術によるもの。
陰の気を持つ彼は、影を用いた少し特殊な妖術を展開すると云う。
聞いた話では、〝影の中の領域〟へと相手を引き込むが故に、忽然と妖気が、存在が消えたように感じるのだとか。
公閭の話を思い浮かべながら、現状を把握するべく、子元は角楼から周囲を眺める。
あちこちで焔矢による延焼が続き、煙に混ざって火の粉が舞う。
母・春華は淮河の岸で未だ孫向香と対峙しているようで、少し離れた河の両岸で、一方では燃え盛る焔が爆ぜ、片一方では冷気漂う氷が弾けている。
対して、砦からそう離れていない位置で対峙していたはずの、公閭と伯言の姿は何処にも見当たらなかった。
(公閭の方は任せても問題なさそうだな)
とは言え、話を聞いていても、何の跡形もなく、忽然と存在が消えることには正直驚きを隠せない。
逆に言えば、知らなければある種の恐ろしさを感じる妖術だった。
──と、状況を整理していた刹那。
前方──淮河の対岸から、真っ直ぐと飛翔してくる何か。
子元は咄嗟に片手に刀を出現させ、切っ先を向けて水の盾を展開する。
直後、水の盾に触れた〝それ〟が爆ぜ、耳を劈く音と吹き荒れる風。
「っ……!?」
子元は思わず片手で身を庇った。
彼と同じ角楼にいた数人の兵士からは小さな悲鳴が上がったが、子元の盾の守る所となり、幸いにも砦が爆発を被ることはなかった。
暴風が収まったところで、子元は盾を解きながら〝それ〟──即ち〝矢〟が飛翔してきた方向を睨みつける。
母・春華が淮河の岸で対峙している孫向香には、こちらに目を向ける余裕など無いはず。
──となれば、狙って来たのは。
「孫向香の〝分身〟か」
建業にいた分身の妖術を解き、この地で再び分身術を発動させたのだろう。
しかし、砦から対岸までは意外と距離がある。
初撃の時点でこの拠点に矢を届かせる力があるのは把握していたが、驚くべきはその正確さ。
最初は拠点を狙って乱雑に放たれたものに対し、今の矢は──自分自身だけを、寸分の狂いも無く真っ直ぐと狙ってきた。
つまり、孫向香には対岸から此方の様子が正確に見えている。
対して子元には、対岸の何処に孫向香の分身がいるのか把握しておらず、把握していたとしてもその姿をはっきりと捉える自信はなかった。
いや、仮に視認できたとしても、今の位置から孫向香を狙う術がない。
「……くそ、分が悪すぎる……」
とは言え、ずっとこの場で足を止めている訳にも行かず。
せめて、岸にまで辿り着ければ。
そこから先は妖術で河を渡るも相手を狙うも可能となる。
動くとすれば、飛翔してきた矢を受け、次の矢が放たれるまでの時間──そう、まさに今。
「……このくらいの時間があれば十分だ」
見えているであろう孫向香に向けて、子元は挑発的な笑みを浮かべた。
その直後、再び対岸から飛翔する矢。
殺れるものなら殺りに来い──そう言わんばかりの焔矢だった。
子元はその矢が砦に到達するよりも早く、角楼から矢に向かって宙へと飛び出す。
そして再び、盾を展開してその矢を受けた。
空中での爆発。
盾を伝い、刀を伝い、爆発の振動がビリ、と腕を痺らせる。
が、この程度、如何ということはない。
「言われずとも──」
爆発の衝撃を半ば押し返すような形で、子元は刀を握る手に力を込め。
「──此方から殺りに行くッ!」
前方に向けた切っ先を、勢い良く横へと振り払った。
空中に漂う灰色の煙が裂け、その中から姿を現した子元は鬼の姿になっていた。
着地するなり、所々で延焼が続く木々の合間を颯爽と駆け抜ける。
併せて靡くは、蒼黒の髪と和服。
岸に到達するより少し前、対岸で弓を構える孫向香の姿が視界に入った──刹那、飛び交ってくる炎の矢。
しかし、子元はそれを避けようとはせず、敢えて焔矢に向かっていく。
そして、矢は子元の身体を貫く──が。
それは透き通るかのように通り抜けただけだった。
身体をすり抜けた矢に、孫向香は目を丸くして僅かに怯む。
すぐさま弓を構えようとするも、怯んだ一瞬の隙は、子元が間合いを詰めるには十分な時間だった。
前方を見据える子元の双眸が、静かに煌、と光ると同時に、右手の刀が蒼白く灯る。
木々の合間を抜け、視界が開けたとき。
駆ける勢いを殺さず、彼は岸から河へ躊躇なく、真っ直ぐに跳躍した。
そして感じる、時間の流れの僅かな遅れ。
高さはなく、水面ぎりぎりの高度。
川幅があり、跳躍しただけでは半分にも満たず、対岸へ渡ることは不可能。
そして足元は濁流──着地も不可能。
その不可能を、可能にするために。
蒼白い刀を握る右手に力を込め、その切っ先が僅かに水面に触れたとき。
ぱき、と水が凍る音。
そこからの時間は瞬くように流れた。
「届けッ!!」
水面に触れた刀を勢い良く切り上げれば。
河の流水音に静かに混ざる、ひゅん、と空を切り裂く音。
刹那、切っ先が触れた水面から、数多の氷柱が河の上、そして対岸の地上を裂くように隆起していき──それはあっという間に孫尚香の眼前にまで迫っていた。
しかし間一髪、彼女は横に跳んで避ける。
その様子を瞳に映しながら、子元は隆起した氷の造形を足掛かりに、瞬時に間合いを詰めて刀を薙ぐ──が、孫向香が後方へ回避する方が僅かに速く、子元の刀は空を切った。
橙の短い髪を揺らしながら距離を取った孫向香は、炎を閉じ込めたような黄玉の瞳で、子元をきつく睨んでいる。
対する子元の蒼白い瞳も、静かに孫向香の姿を捉えて離さない。
「二種類の気って本当厄介ね」
「なんだ、怖気づいたのか?」
「はぁ? 間合いを詰めたからって調子に乗んじゃないわよ」
ぱちん、と孫向香が指を鳴らす。
刹那、子元の左足付近に落ちていた──否、置かれていた一本の矢が光を放ち。
「っ! しまっ──」
爆発する、と悟るなり横に跳んで回避しようとするも、完全には避けきれず。
爆破と同時に勢い良く吹き飛ばされ、周辺の木の幹に背中から打ち付けられる。
「ぐっ……」
背中と被爆した足の痛みが襲い来る中で、間髪開けずに飛来する孫向香の矢。
痛みを堪えて動き回るよりは良いだろうと、子元は木の幹に寄りかかりながら〈泡沫〉の水の盾で凌ごうと切っ先を前に出す。
しかし、それよりも早く孫尚香の矢が飛翔し、子元の身体を貫いた。
──が、彼の身体はすぐに黒い靄となり、跡形もなく宙に溶けて消えた。
予測していなかった出来事に、孫向香は辺りを見回すも、何処にも子元の姿はなく。
「はぁ……!? どこ行ったのよ……っ!」
苛立ちを含んだ声だけが、その場に残された。
そんな彼女の声を、子元はすぐ近くの林の奥、孫向香から隠れるように木の幹に背を預けながら聞いていた。
(……気付かれるまでは時間の問題だな、この生い茂る森林があって幸いした)
陰の気の妖術は僅かな間、身体を黒い靄──謂わば闇と化すことができるが、使いどころによってはその場に分身の如く、残像を残すことが可能となり、残像が残る極僅かな間は本体の姿を消すことができる。
打ち付けられた直後、子元は水の盾を構える振りをして残像を残し──幹の裏側に回り込んだ。
そこからは木の影を巧みに活かして影に紛れるように闇と化し、そして離れた場所に移動した、ということだった。
子元は呼吸を整えるように、ふう、と小さく息を吐く。
──先程の、足元で爆ぜた一本の矢。
妖術により作られたものであることは間違いないが、妖気を感じられない普通の矢だった。
だからこそ、爆破する直前までその存在に気付けず、以降も存在を探るのは至難の業。
加えて、彼女は恐らく、その矢をあらゆる場所に仕掛けることができる。
なんとかして、回避する方法を──
そこで思い返されるのは、矢が爆ぜる直前の時間。
指を鳴らした、孫向香の動作。
恐らく矢は、発動させなければ爆発しない。
──回避の方法ではなく。
──発動の隙を与えなければいい。
推測の域を出ない答えではあるものの、行動に移すきっかけとしては十分だった。
ならばこのあと、連射されるであろう矢を如何にして潜り抜けるか。
この間、時間にして極わずか。
少しの糸口が見つかったとき、思考は徐々に現実に引き戻され、頬を撫でる風、風に揺れる梢の音、そして襲い来る、背中と左足の痛み。
「っ……痛……」
特に足は爆発を被った直後に走っただけにズキズキと激しい痛みがあり、子元は反射的に視線を落とす。
しかし目に入ったのは、破れた袴でもなく、流血している足でもなく。
仄かに蒼白い光を纏っている、黒紫色の妖刀だった。
そして感じる、これまでに感じたことのない、その刀特有の陰の気の力。
〈開華〉してからというもの、自身が持つ気の特性や刀の名、そしてその扱い方はある程度、本能的に理解していた。
手や足、刀などに意識を集中させることで、体中の妖気が流れるように集まり、妖術を成す。
それ故に水の気の妖刀〈泡沫〉が成す水の盾の妖術も、刀へと己の妖気を流し込んでいる──そういう感覚があるのだ。
しかし、陰の気の妖刀では、これまでにその感覚を経験したことがなかった。
〈泡沫〉の影で、静かに息を潜めていた妖刀。
それが今、己の妖力を糧として、初めて蒼白の輝きを放っている。
気になったのは、何故今になって刀が呼応したのかということ。
しかし、それは考えればすぐに答えが出た。
この場に在る、陰の気が呼応し得る条件。
それ即ち。
(……影、か)
──つまり、日の当たらない場所でこそ。
刀を握る手に力を込めれば、黒い刀身を纏う蒼白い光が呼応するように、僅かに強く光る。
それを見た子元は相手の様子を確認するように後ろを振り返る。
孫向香はこちらに背を向けて、弓を提げながら、その場を動こうとはしていなかった。
恐らく、妖気を探ることに集中しているのだろう。
この距離ならば僅かに感知される範囲外だろうが、少しでも近付けば恐らく気付かれる。
──ならば狙うは、この距離から。
子元は木の影から出た瞬間、蒼白く光る妖刀を大きく振りかぶり。
「──〈宵月〉」
勢い良く振り下ろして、三日月状の黒い刃の斬撃を放った。
同時に孫向香が気付き、子元の方を振り返る。
蒼白い光の粒を纏う黒紫色の斬撃は、木々を斬り倒しながら孫向香めがけて飛んでいき、彼女は当然、それを避ける──子元が狙ったのは、避けた瞬間だった。
方向こそ捉えているものの、砂埃も相まって恐らくこちらの姿は捉えきれていないはず。
斬撃より僅かに遅く、しかしほぼ同時に地を蹴ったことで、避けた瞬間の隙を逃すことなく。
斬撃を躱した孫向香めがけて、右の一刀を突いた。
人体を突き刺す感覚、顔に飛び散る返り血。
僅かな時の流れの遅れを感じたとき、子元の蒼刀は彼女の腹部を貫通し、そのままの勢いで後方の木の幹へと打ち付けた。
そしてもう一刀の漆黒の刃を、孫向香の首元でピタリと止める。
至近距離で交錯する二人の双眸。
痛みで顔を歪めてはいるものの、彼女の黄玉の瞳の奥に覗く焔は勢いが留まることを知らず、その煌ついた視線を、子元は表情ひとつ変えずに静かに見据えていた。
時間にして一瞬、しかし異様に長く感じた沈黙の中、孫向香が徐に右手を挙げ──指を鳴らそうとする構え。
子元はその場から離れようと身構えたが、至近距離に居たからこそ気付いた、彼女の変化。
──否、気付いてしまったと言うべきか。
瞳の奥で燃え盛っていた焔が、すう、と静かに消えたことに。
「……っ〈緋儚矢〉……」
指が鳴らされることはなく、代わりに紡がれた力ない言葉。
同時に、片角しかなかった孫向香の鬼の角が、すうと二本に変化する。
それまで気づきもしなかったが、どうやら彼女は〝分身〟すると角の数に変化が現れるようだった。
「負けを、認めるわ」
「……いやに素直だな」
「うっさいわね……あんたたちとじゃ、相性が悪いって言ってんのよ」
眉根を寄せながらも、左手の弓を消滅させる孫向香。
武器を収める行為と、瞳の変化。
威勢こそあるものの、先の言葉の裏には、何処か戦うことの意味を見失っているかのような、そんな形の戦意喪失が見て取れた。
刀が貫いている腹部はみるみる鮮血が染まりゆき、間が短い呼吸が繰り返えされている。
戦う意志が無い以上は痛みから解放してやろうと、子元も刀を消滅させた。
顔の返り血を拭いながら、その場にずるりとしゃがみこむ孫向香を静かに見下ろす。
「ああ……痛い」
「……そう言えば俺も足が痛いな」
「忘れる程度の傷だったわけ……? 癪に障るわね……」
「気にしてたら戦など出来ないだろう」
ふわりと流れる風に合わせて子元は変化を解き、足と背中に痛みを感じつつも、ふと辺りを見回す。
氷柱が隆起している陸地、そして〈宵月〉の斬撃により倒壊した木々。
どちらも水と影という自然を活用したからこそ成し得た妖術。
──自然の力を借りつつ、自然を壊さない。
以前に子桓が紡いでいた言葉の意味を、子元は将に今、身を以て実感していた。
……後者については当てはまらないだろうが。
「ねぇ……あんたたちは何で、〈六華將〉の……味方を、してんの?」
ふと紡がれた問いかけに、子元は再び孫向香を見遣る。
「今の魏国にとって最善の選択だと、そう考えたことを行動に移しているだけだ」
「最善の、選択……? 時間を消すことが……?」
「違う。柊を味方にすることが、だ」
はっきりと答える子元の言葉に、孫向香は怪訝な顔をする。
「今更……〈六華將〉を引き入れて、何になるのよ。
……どうせ意味もなく、消える世界なのに」
「……そうだな。何の意味があるんだろうな」
「はぁ……? 言ってることが滅茶苦茶……」
刹那、その方角は対岸──子元たちの砦がある方向から、空気と大地が揺れるほどの爆発。
驚きと同時に視線を向ければ、対岸では大量の黒紅の煙と焔が空に上り、周囲の木々は広範囲で炎に包まれている。
その中心、即ち爆発の起点となる場所が──もしかしなくても。
「……っ公閭……!」
彼が伯言と共に、姿を消した辺りに等しかった。
「子元!」
そんな時、別の場所で孫向香と相対していた母・春華が木々の合間を駆けてくる。
孫向香の分身が消えたことにより、子元と合流しようとしていたらしい。
母を見るなり、子元は半ば早口で簡潔に伝える。
「母上、合流いただいた直後に申し訳ないですが、この場を」
「もちろんよ、早く向かいなさい」
「ありがとうございます」
子元が言い終わるより早く承諾した春華に素早く拱手すると、子元はすぐに地を蹴って駆ける。
氷柱を伝って渡った淮河の上を、再び舞う。
──彼が無事であることを願いながら。
一方で、子元に変わってその場を受け持った春華はと言うと。
「また会ったわね?」
「……何で嬉しそうなのよ……」
「仕留める機会ができたからに決まってるでしょう?」
「……そう、なら殺せば」
相対していた時の孫向香との違いに気付いたのか、笑みを浮かべていた春華が不思議そうな顔をする。
「この短時間に何があったの? 子元に何か言われた?」
「……んな訳……ないじゃない」
「へぇ、なら何故そんなに変わったの?」
──何故、戦意を失くしたのか。
その問いに答えることはできるものの、心の内を明かすことになるのが癪で、孫向香はただ黙り込む。
そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか。
「質問の仕方を変えるわ」
春華は孫向香の前にしゃがみながら。
「あなたは今まで、何のために戦ってきたの?」
再び問いを投げかけた。
子元よりも青く、透き通るような双眸。
まるで水の中に呑み込まれるような、そんな感覚を覚える瞳から、孫向香は逃れるように視線を逸らす。
──何のために戦ってきたのか。
恐らくそれは、単なる純粋な問いかけ。
言葉の裏に深い意味はないのだろう。
しかし、今の孫向香には、それが「あなたの抗いは意味がない」と、そう言われているようにしか聞こえなかった。
──そんなことは分かっていた。
──ずっと前から、分かっていた。
自分たちの行動が、桜の鬼の思うがままになってしまうということを。
でも、それが、兄の頼みだったから。
──兄の最期の言葉だったから、それを信じたかった。
出血のせいか、朦朧としつつある意識の中で、孫向香は兄の言葉を思い出す。
──なぁ、頼みがあるんだ。
──桜の鬼……を名乗る奴がいたら、そいつには手を貸すな。
──そいつは……俺たちが生きる現在を……この世界を壊そうとしている……
──でも……悪いやつじゃない……って、そんな、気がした……
──だから、もし……桜の鬼に、会うことがあったら……
(ああ……そうだ。私にはまだ、やるべきことが)
「ねぇ……ひとつ、頼みが」
問いかけに答えない孫向香に、春華は僅かに眉根を寄せたものの、力ない声音で紡がれた言葉は、今にでも消えてしまいそうで。
「……何かしら?」
「桜の鬼に……伝えてほしい。兄からの……言伝を」
そこまで言い終え、僅かな間を開けてから再び言葉を紡ごうとする孫向香の口を、春華は手のひらで軽く抑えた。
「……!? 何をす……」
「それはあなた自身で伝えなさい」
「は……」
「あなたの事情なんか知ったことじゃないけど、兄っていうのは孫策殿のことよね?
亡くなった人の言葉を伝えられるのは、生きているあなただけよ」
思いもよらぬことを言われ、孫向香は目を丸くする。
一方で春華は口から手を離しながら小さく微笑う。
「あ……孫権殿も居たわね、別にあなたじゃなくてもいいかしら?」
「……それは」
「でも少なくとも今、あなたは此方に対する敵意を持ち併せていないようだし、亡き人の言葉を伝えたいという意志がある。
対して孫権殿はその確認ができていない。
それなら私は自分の目で見て、自分で感じたことを信じる。
だから今からあなたに、時間をあげるわ」
「……時間?」
「これから動くから、その傷、少しでも軽くしてほしいの」
微笑む春華に対し、真意を探るような視線で静かに見つめたあと、孫尚香は片手で抑えている腹部に視線を落とした。
そして、すぅ、とひと呼吸して、腹部の傷口に意識を集中させる。
血液が巡るように妖気を巡らせ、傷が深い腹部へと集めていく。
全身に張り巡らされた〈華〉の根。
それを辿って、己の妖気を、巡り、巡らせ。
意識が誘うその先で、新たな華を咲かせるが如く──
そうすることで少しでも、傷の治りを早くできるのも鬼ならでは。
それが功を成したのか、止血はもちろん、僅かながら痛みも引いていて。
多少の移動程度であれば難なく動けそうなまでには、腹部の傷は回復しており、孫尚香は安堵したように小さく息を吐く。
そんな孫尚香の様子を、春華は静かに見つめていた。
橙の前髪から覗く、伏目がちの黄玉の瞳に、炎は宿らず。
それとよく似た瞳を、春華は知っていた。
自分が在ることの意味を見失い、彷徨い、それでも一縷の望みを胸に、時には前を向く──然し、灯火は彼の瞳から次第に消えゆき、いつしか灯ることはなくなった。
消えたことに気付いても、何も出来ないまま。
それ故だろうか。
──ひとつ、頼みが。
似た瞳をしていた彼女を、放っておけなかったのは。
そんな考えに至った春華は、自分の甘さに小さくため息を吐きながらも、それを誤魔化すようにその場に立ち上がる。
「動けそうかしら?」
「……多少の移動なら」
春華は「分かったわ」と頷くと、彼女に手を差し出した。
孫尚香は僅かに躊躇ったものの、すぐに手を取り、引かれるようにして立ち上がる。
「先ずは対岸に向かってくれるかしら?
そこから先は、状況を見て都度判断するわ」
「……あんたが先に行って、案内してくれた方が分かりやすいんだけど」
「あなたに背を向けるほど、まだあなたの事を信用してないもの」
「……はは、確かに……私も同じことを考えるわ」
孫尚香は小さく微笑うと、腹部を庇いながら、地を蹴って子元が作り出した氷柱の上へ舞う。
孫尚香の背中を追って、春華もその場を後にする。
静寂が訪れ、淮河の流れる音だけが在る、呉国側の河の岸。
先程まで二人がいた場所から、そう遠くない木陰で。
さく、と。
土草を踏む足音が、流水の音に溶け消える。
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呉国、在 数多 火之鬼。
亦 火之妖気、戻時間 不可 欠。
其 所以 桜之鬼 狙 呉国 也。
【呉国は、火の気を持つ鬼が多かった。
故に、妖気を集めるべき対象として、欠かせない存在だったのだ。】




