其ノ肆 ── 隠レル凍華ノ銀世界
桜之鬼 要 火徳之信仰 為 留 於 現世。
献帝 火徳 也、亦 魏国 庇護 献帝。
其 所以 桜之鬼 関与 魏国 也。
【桜の鬼が現世に留まるためには、献帝の力──火徳とする信仰が必要だった。
故に桜の鬼は、献帝を庇護した魏国と関係を築いてゆく。】
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淮河付近の前線拠点、子元は角楼から砦の周辺の様子を眺めていた。
その視線の先には、砦のすぐ側で陸遜──伯言と対峙する公閭の姿が在る。
時を少し遡り、母・春華が対岸からの攻撃に対して迎撃していた中。
ついに呉国、伯言が動き出したのだった。
春華が対岸に放った氷の矢、それは孫尚香に向けてのものだったが。
「〈焔鏡〉──ッ!」
子元が身を以て経験した〝反射〟で矢を跳ね返し、淮河の上に一時的な氷の足場を作り出す。
それを利用して河を渡るなり、彼は真っ直ぐと砦に向かって来て、その姿を確認した子元は公閭に迎撃指示を出し──そして現在に至る。
村で対峙した因縁を考えれば、今度こそ決着をつけるべきだと考えもした。
しかしそれ以前に、子元は予定よりも時間がかかっている薙瑠たちを懸念していた。
(珍しく手を焼いているのか……?)
──若しくは、何か予期せぬ事態が発生したか。
何れにせよ、鴉もついている以上あまり心配はしていない。
が、万が一の事態を鑑みて、子元は砦に留まっていたのだった。
その時、背後──砦の地上に、突如として現れた複数の妖気。
それを察知するなり、子元が身を翻して砦内を見下ろせば、薙瑠と鴉、そして見知らぬ人物が一人。
恐らくその者が呉にいた〈六華將〉──柊なのだろう。
子元は角楼から階段を伝って飛び降り、薙瑠たちの元へと向かう。
そんな彼に気付いた薙瑠も駆け足で近づき、礼儀正しく拱手した。
「遅くなり申し訳ございません、子元様。
桜薙瑠、建業より戻って参りました」
「よく戻ったな、無事で何よりだが……何かあったのか?
お前たちにしては時間がかかっていたようだが」
「あ……はい、少しだけ、動揺してしまいまして」
小さく苦笑しながら、薙瑠は後ろの鴉を振り返った。
その視線の意味に気付いた鴉は、何処かむすっとしたような顔をする。
「おい、余計なことは言うなよ」
「まだ何も言ってませんよ」
「……お前の肩を見れば大体想像はつくが」
「あ? 無様だと俺を笑うか?」
「笑う気はないが、笑って欲しいのなら笑ってやる」
そう言いながら、何処か馬鹿にしたように薄ら笑いを浮かべる子元に対し、鴉は「ふざけんな」と眉根を寄せた。
如何でも良さそうなことで見えない火花を散らす二人を、薙瑠が続きを報告する形で止めに入る。
「えと、それで……すぐに此方に戻れば良かったのですが、動揺のあまり洛陽に……戻ってしまいまして」
「それで時間がかかったのか。
……ふ、結果何事もなかったようで安心した」
「ご心配をおかけいたしました」
安心したように微笑んだ子元に、薙瑠もふわりと柔らかく咲う。
胸がきゅ、と苦しくなるような感覚に気付かぬ振りをしながら、子元は彼女の背後、鴉の隣にいる少女に目を向けた。
「そしてお前が……?」
「……〈六華將〉が一人……柊氷牙。……お初にお目にかかります」
しんしんと雪が降るかのように、静かで透き通るような声。
青白い髪や蒼玉のような瞳、全体的に玄冬を印象づける彼女の容姿に対して、身に着けている華服は少しくすんだ朱、茜色──その色は、彼女には何処か不釣り合いだった。
そんなことを感じながらも、挨拶しながら拱手する氷牙に、子元は「よく来たな」と小さく頷く。
「話は聞いている。俺は司馬子元だ、宜しく頼む」
「……はい」
口数が少ない彼女は薙瑠よりも僅かに小柄で、何処か目立たない印象を感じさせる、物静かな雰囲気があった。
──いや、敢えて目立たないようにしているのか。
潜柊、〝隠〟之白蛇
──柊に潜む〝隠〟の白蛇は
雪に忍びて姿消す──
奇譚の内容を考えれば、まさに言葉通りの存在。
成る程、と一人納得して子元は小さく笑った。
「ところで子元、今の状況は?」
「対岸からの孫向香には母上が、河を渡った陸遜には公閭がこの砦のすぐ近くで応戦している」
「……となると、動きが見れないのは孫権と呂蒙か」
「ああ、お前たちが戻った以上、魏国としては奴らをこの拠点で足止めできれば良いだけなんだが」
「だな。じゃあ早速、氷牙、お前の出番だ」
口角を上げながら、鴉は氷牙の肩をぽんと叩く。
氷牙も意図を汲み取ったようで、表情を変えることなく小さく頷いた。
「孫権と呂蒙の……居場所を探る……?」
「そうだ、今まで近くにいたお前なら、あいつらの妖気をよく知ってるだろ」
「……余裕」
「ははっ、頼もしいぜ」
愉しそうに笑いながら背中をばしばしと叩く鴉に、氷牙は少し嫌そうな顔をする。
弟の子上をよく見ているからか、感情が表に出にくい氷牙の小さな表情の変化は、子元にも不思議とよく分かった。
そんな二人を見ながら、子元は側にいる薙瑠に小声で問う。
「あいつは察知能力が秀でている……だったか」
「はい、かなり広範囲の気配を感じ取れるんです」
「広範囲、というのはどれくらいだ?」
「此処からであれば、対岸の呉国の拠点くらいまでは可能かと」
「……かなり距離があるが……?」
「信じ難いですよね」
薙瑠が小さく微笑ったとき、氷牙が右手に短刀を出現させた。
真っ白な柄に、陽光を受けて輝く白銀の刀身。
彼女は片足をついて軽く地に振れると、短刀を己の前で横に構える。
そして瞳を閉じたのち。
「〈凍華・銀世界〉」
しん、と響く声で唱えた言葉こそが、氷牙の妖術のひとつ。
声に応えるように、刀身に刻まれた蛇の彫刻──その瞳が、僅かに蒼く輝いたように見えた。
それ以外は、傍から見れば何の変化も見受けられない。
然し、氷牙には辺り一面、雪景色に姿を変えた真っ白な世界が見えている。
雪は舞っておらず、ただ積もっているだけの静かな世界。
それは遥か彼方まで続いており、探るべき存在の気配が雪景色の範囲内に在ったとき──
「まるで自分の肌が凍るような感覚がして、距離と場所を正確に感じ取れるそうです」
「ほう……それが今、あいつが見ている世界か」
「〈銀世界〉という名に相応しい、素敵な妖術ですよね」
「言い換えれば、〈銀世界〉の対象範囲にいたら隠れる術はないってことだ。
ただでさえ一般的な鬼よりも広い範囲の気配を〝自然に〟感じ取れるってのに、更に広範囲を探る術がある……絶対に敵に回したくねー奴だな」
薙瑠と子元の会話に続いて、鴉がゾッとするように両腕をさすりながら氷牙を待った。
僅かな沈黙のあと、伏せられていた青白い睫毛がゆっくりと持ち上がる。
そして、彼女から紡がれた第一声は。
「…………いない」
「……は?」
「……え?」
予想外の言葉に、鴉も、そして薙瑠も驚く他なかった。
「感じ取れたのは、陸遜、孫向香と、それに応戦している鬼の気配だけ……孫権と呂蒙は、少なくとも……対岸の拠点と、この拠点の周辺にはいない」
「陸遜と孫向香が囮である可能性は考えていた。
既にいないとなると……現状最も手薄な許昌が不安の種か」
「ああ、俺は今すぐ許昌に向かう。
無論、上空から奴らの姿がないか探りながら、だ」
「呂蒙は姿を消している可能性があるだろう、上空から探したとしても──」
「安心しろ、俺には視える」
口角を上げて自慢げな顔をした鴉は、その場で地を蹴って上空へ。
途中、その姿が光に包まれたかと思えば、彼は〝烏〟の姿になって空へと羽ばたいて行った。
視えると言われたこと、そして初めて烏の姿になる瞬間を見たこと、二重の驚きで呆気にとられながらも子元は頭を切り替える。
「お前が奴らの姿を見た、と報告を受けてから半刻はとうに過ぎたが、一刻は経っていないはず。
だが動き出したのが何時か分からない以上、移動した距離や場所を推測するのも難解だな」
「子元様、遅ればせながらお伝えしたいことが」
「何だ?」
「呉国の狙い──の件です」
改まって話す薙瑠から紡がれた、思いもよらない言葉に子元は僅かに目を見張った。
しかし、話の詳細を訊いて彼は怪訝な顔をする。
「狙いが鴉だと……? 尚更目的が不明瞭だな……」
「これまでの動向を考えれば、〈六華將〉──いえ、私を狙うが故の行動であることは間違いないかと」
「柊はあくまでも鴉を誘き寄せるだけの人質だったということか。
だが鴉を仕留め損ねている以上、あいつらの作戦は失敗している……?」
「──してない、かもしれない」
ぴり、と糸が張り詰めるような、静かで、而してはっきりと紡がれた言葉。
伏せ目がちな長めのまつ毛の下から覗く蒼玉の瞳は、真っ直ぐと子元を捉えて離さない。
「呉国は……皆火の気を持ってる。それは間違いない。
でも……孫権だけ、分からない」
「──奴の特殊な妖術が、か」
彼の鋭い推察に、氷牙はこくりと頷いた。
己の推測が肯定されたことを確認すると、子元は再び伏目がちに思考を巡らせる。
「最終的な狙いは桜の鬼を仕留めること。
そのために敢えて鴉を狙うのは……そこに答えがあるということか」
「その可能性が高いかもしれないです。
ですが、全員が建業に留まらずこちらに赴いている以上、狙いは鴉様……いえ、〈六華將〉だけではない可能性も考慮すべきかと」
──若しくは、鴉が二人いることに、気づいているのか。
薙瑠がちらりと氷牙を見遣ると、彼女も同じことを考えていたらしく、再び小さく頷いた。
一方で子元は、先の薙瑠の言葉の裏にある推測など知る由もなく、彼女の意見に賛同する。
「そうだな。ならばお前たちは孫権と呂蒙、二人を探し出すことに注力してくれ。
〝視える〟桜と〝感じる〟柊。将に完全無欠の組み合わせだろう」
「褒め過ぎですよ、子元様」
「でも、あながち間違ってない」
苦笑する薙瑠に対し、表情一つ変えずにはっきりと応える氷牙。
正反対な二人の受け答えが少し可笑しくて、子元はふっと笑みを溢す。
「此処は俺たちに任せておけ。
気がかりな呂蒙が居ないのであれば、俺たちだけで何とかなる」
「かしこまりました。では……私たちは地上から許昌、そして洛陽方面に向かって探って参ります」
丁寧に拱手して述べられた彼女の言葉に、子元が「頼んだ」と応えを返すと、二人の姿はその場からふっと消え去った。
否、消えたように見えるくらい、一瞬で場を移動したようだった。
桜と柊、二つの妖気が遠ざかっていくのを微かに感じながら、子元はゆっくりと踵を返す。
──やるべきは、二人の鬼を逃さないこと。
前を向く青白い双眸に、静かに宿るは強かな決意。
子元が再び周囲に意識を集中させた、矢先のことだった。
砦付近の戦場に在った二つの妖気が、一瞬にして消え去ったのは。




