其ノ参 ── 祓ノ白鷺、厄除ノ白蛇
戻 時間、其 不 成 唯 一人。
数多 協力 必要 也。
内 一人 献帝──最初之鬼 庇護 存在 也。
【時間を戻すことは、一人で成せることではない。
多くの協力が必要だった。
その一人が献帝──最初の鬼が庇護した存在だ。】
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洛陽の中庭、〈逍遙樹〉の下。
呉国の建業から〈記憶辿咲〉で戻ってきた薙瑠は、腕に抱きとめていた烏──紗鴉那を、仰向けになるようにそっとその場に降ろした。
そして左手で横に置いた刀に触れながら、痛々しく抉られている傷口に右手をかざして。
「〈紅桜〉、お願いっ……」
動揺気味に紡がれた彼女の言葉に応えて、ぽう、と桃色の光が傷口を覆う。
その様子をちらりと確認したあと、紗鴉那は顔を歪めている彼女を見上げた。
『……薙瑠、氷牙は』
『ここに居る』
薙瑠の懐からするりと顔を出した白蛇。
懐から出ると、地の上から首を伸ばして寝そべる烏を見下ろす。
紅玉の瞳に烏を写しながら、真っ赤な舌をしゅるり、と覗かせる様は、まさに獲物を狙う獣のそのもので。
『お前……楽しんでやってるだろ』
『何のこと』
『惚けんな、さっさと姿を戻せ』
不機嫌そうな烏を少しの間じっと見つめたあと、白蛇は尾をばねのようにして器用に宙返り。
すると、その姿はいつの間にか人間へと変化していた。
片足片手を地につけて跪くような態勢の彼女は、青白い短髪の下から紅玉の双眸を覗かせている。
しかしその瞳は直ぐに、すう、と蒼玉に変化した。
「……珍しい」
『何がだ』
「君が、こんな傷を負うことが」
『うるせーな、それは馬鹿にしてんのか心配してんのかどっちだ』
「後者」
『だよな、じゃなければ殴ってた』
そこでふと、傷口を覆っていた光が消え、薙瑠が右手を退ける。
いつの間にか流血が止まっていることを確認すると、紗鴉那は仄かな光に身を包み、翼を持つ人間の姿へと戻った。
上体を起こしながら、左頬の切り傷から伝う血を拭い、左肩と左翼の付け根辺りを軽く動かす。
「おー、血も止まったしそれなりに痛みも引いたな。
翼の方もこれまで通り動きそうだ、やっぱお前の力はすごい……」
笑顔になっていた紗鴉那だったが、薙瑠の顔を見て言葉を詰まらせる。
妖術による応急処置を終えても、彼女は顔を歪めたままだった。
傷が塞がったとは言え、流血で染まった服や無惨に毟られたような翼の状態はそのままで、それが彼女を未だに不安にさせていたようだった。
そのことに気づいた紗鴉那は、若干の痛みがあるのを隠して小さく笑う。
「俺は大丈夫だ、だからそんな顔すんなって」
「無理です」
「いや……ほんとに、お前のおかげで楽になったから」
「怖いんです」
薙瑠は俯きながら、ぎゅ、と紗鴉那の手を握る。
その手は少し震えていて、零れ落ちる言葉も弱々しく、彼女は紗鴉那が傷を負ったことに相当動揺していたようだった。
「身近な人が……居なくなるんじゃないかと思うと、とても怖いんです。そんなの……耐えられません」
「安心しろ、この程度じゃ死なねーよ」
「……皆居る、ここに」
紗鴉那に続き、優しく添えられた氷牙の言葉に、薙瑠は顔を上げる。
今にも泣き出しそうな、そんな表情を浮かべながら、彼女は何処か祈るようにして。
「……死なないでください、居なく……ならないで……」
再び俯きながら、言葉を零した。
そんな彼女の頭を、紗鴉那は優しく撫でてやる。
「俺はお前の側にいる」
──お前を守ることが、使命だから。
後半の言葉は胸の内に秘めながら、紗鴉那は薙瑠が落ち着くように、握られている手をそっと握り返す。
しかし、そんな紗鴉那の顔に笑みは浮かんでおらず。
むしろ何処か辛そうに、俯く彼女を見つめていた。
──お前は、きっと──……
「私も、側にいる」
氷牙の言葉に、紗鴉那ははっとしてその先の言葉を止めた。
僅かでも過ぎった考えを忘れようと、ため息に近い深呼吸をする。
──いや、〝考え〟などではなく、恐らくこれは〝事実〟。
ざわり、と揺れる〈逍遙樹〉の梢の音を聞きながら、紗鴉那は気持ちを切り替えるように小さく笑った。
「そういうことだ。だから心配すんな」
「紗鴉那は、こう見えて頑丈」
「言われていい気はしないが、まあそういうことだ」
紗鴉那と氷牙、二人の普段通りのやり取りに、薙瑠もようやく気持ちが落ち着いてきたようで、再び顔を上げた彼女には、もう動揺や泣き出しそうな表情はなく。
まだどこか不安が垣間見えるものの、ふわりと小さく咲っていた。
そんな彼女は、威勢の良い第三者の声によってビクリと肩を揺らすことになる。
「ちょ……何があったのよ!?」
純白の髪を揺らしながら中庭へやってきた神流は、本来であれば洛陽に戻るはずがなかった三人に、信じられないとでも言いたそうな顔で駆け寄る。
そして紗鴉那の左肩と左翼の状況を見るなり、呉での出来事を把握したようだった。
「珍しいわね、あんたが避け損ねるなんて」
「うるせーのが来やがったな……」
「何だ、そんなこと言う余裕があるなら大した傷じゃないわね、戻るわ」
「待て待て、何しに来たんだお前は」
「無様にやられたあんたを笑いに」
「やっぱうるせーな」
「冗談よ。あんたたちは許昌や子元のもとにそれぞれ戻る予定になってたから、ここに居ることに驚いただけ。そして氷牙、よく戻ったわね」
不機嫌そうに眉根を寄せる紗鴉那を余所に、神流は久しくその姿を見ていなかった氷牙に微笑んだ。
屈んでいた氷牙も立ち上がって、ほんの僅かに笑みを浮かばせる。
「……久しぶり」
「元気そうでよかったわ。身体は問題ない?」
「ちょっとだけ、怠さはある。
けどそれだけ。問題ない」
「なら安心ね。このあと、協力してくれるかしら」
「元よりそのつもり」
あまり感情が表に出ない氷牙だが、久しぶりに動き回れることが嬉しいのか、何処かやる気に満ちた雰囲気を纏っていた。
そんな二人の様子を微笑ましく眺めていた薙瑠は、ふと気になったことを口にする。
「ところで……神流様は仲達様の元に居なくてよろしいのですか?」
「ああ、それはね、仲達に言われて洛陽に来たのよ、念のため此方にも私の術式を張り巡らせとけってね」
「術式……〈祓〉ですね」
「そう、呉国の目的が分からないし、やるに越したことはない──私もその意見に賛成だったから素直に従ったわ」
納得できない理由だったら従わなかったけど、と付け足しながら、神流は右手で、ふわりと術式──羽ばたく白鷺のような紋様が浮かぶ光を灯らせた。
現在、仲達と神流は洛陽の外にして最も近くにある、淮河方面の別の拠点に留まっている。
淮河前線の砦に居る子元たち、その後方の県城・許昌に子上と伯済、そして此処──洛陽を守る前線としての拠点に仲達と神流。
目的が分からないが故に、いつどこで呉国の鬼と遭遇しても対応できるようにする為の布陣だった。
特に仲達と神流の二人が洛陽ではなく、敢えて洛陽付近の別拠点に身を置いているのは、人が多い都城に被害を出さないため。
呉国も、そして魏国も。
被害を最小限に留めたいという想いは何方も同じだった。
そして神流の術式〈祓〉とは、目には視えない術式の罠を地に施すことで、その術式の上を歩いた者の妖術を無効化──即ち〝祓う〟というもの。
仲達がいる拠点に加えて、洛陽の城門にも仕掛けるというのが、神流が洛陽に戻っていた所以だった。
「……神流、あいつらの目的のことだが」
思い出したように言葉を紡いだ紗鴉那は、負傷した肩をさすりながら、どこか忌々しそうな顔で言葉を紡ぐ。
「奴らの狙いは俺みたいだ」
「俺……って、鴉が狙いだというの?」
「ああ、孫向香のやつが『待ってたわよ、鴉』──って言ってやがったからな。
そしてその言葉通り、あいつは氷牙に見向きもせず俺を狙った。
その結果がこれだ。……ははっ、俺もざまぁねーな」
紗鴉那は肩と同時に負傷した左翼を広げて見せながら、自嘲気味に笑う。
血は止まっているとは言え、肩口が裂けている華服と、付け根付近が毟られたような左翼は痛々しいものだった。
「狙いが鴉……その目的の意味するところは不明」
「そうね、でも狙いが分かっただけでも上々よ」
「だな、今はそういうことにしてそろそろ行くぞ。
俺たちがここに居るのは予定外なんだ、ゆっくりしてる暇なんてない」
「そうですね」
紗鴉那と共に、薙瑠も刀を手にしながら、気持ちを切り替えるようにその場に立ち上がる。
白蛇、鷺、鴉、そして桜。
撫でるような風が、〈逍遙樹〉と共に四人の髪や華服を揺らした。
「私は、子元様のもとに」
「俺も予定通り、子元が居る拠点から許昌に向かう」
「氷牙は薙瑠ちゃんと子元の元へ行って、前線で呉の鬼の動向を探ってくれないかしら。
鋭さ、対象範囲、いずれに於いても、あなたの察知能力の右に出る者はいないから」
「分かった」
氷牙が頷くのを見ながら、神流は何処か申し訳なさそうに小さく微笑う。
「戻って早々、悪いわね」
「問題ない。やられた分はやり返す。
それに私は、彼奴から──……」
ふと、氷牙の言葉が不自然に途切れた。
そして穏やかだった表情は一転、険しいものとなり。
静かな闘志を含んだ蒼玉の瞳が、一瞬だけ煌、と燃えるような紅玉に変わる。
氷牙らしい、静かな殺気。
「神流、万が一を考えると……あなたの〈祓〉が、無効化されるかもしれない」
「無効化なんて、呉国にそんな力があるとは……」
そこまで言いかけて、その手段が思い当たったらしい。
否、思い当たってしまった──と言うべきか。
神流の顔に陰りが含まれると同時に、薙瑠も氷牙が言わんとしていることを理解したようで。
「氷牙様の妖刀〈刹華〉──ですね」
凛とした声で紡がれた言葉に、氷牙が小さく頷いた。
「私の〈刹華〉には、所持者に対して、外部からの妖術を〝無効化〟する効果がある」
「それを呂蒙が持ってたら、私の〈祓〉が無効化されるってことね。
……失念してたわ、あんたの刀が呉国の手に渡ってること……」
「だが安心しろ、こんな時のためのあいつだろ」
「そうですね、彼がいてくれるなら安心です」
溜息をつく神流に対し、紗鴉那と薙瑠は余裕のある笑みを浮かべていた。
二人が言う人物は、もう一人の鴉──鴉斗のこと。
そのことを理解してはいるものの、神流は少し呆れたような顔をする。
「分かってるわよ。あんたたちは〝視える〟から余裕があるんでしょうけど、 〝視えない〟こっちの身にもなってよね」
「〝視える〟って……羨ましい……」
「まあ俺たちの眼で視えるのは限度があるし、薙瑠には劣るけどな」
何処か和みのある空気感に、薙瑠はくすりと笑う。
しかし、今はのんびりしている暇はない。
こうしている間にも、状況は刻一刻と変わる可能性がある戦時中だ。
「ごめん、話を反らした。そろそろ行こう」
「そうだな。薙瑠、任せた」
「はい」
薙瑠が刀を横に持つと、紗鴉那と氷牙は刀の鞘に手を触れる。
行ってらっしゃい、と言う神流に、薙瑠は優しく微笑んでから。
「〈紅桜・記憶辿咲〉」
彼女の呼び掛けに応えるように、ふわ、と三人の姿が消えた。
残った数枚の花弁が消えゆく様子を静かに見届けた神流は、踵を返して中庭を後にしようと歩き出す。
「〈祓〉が意味をなさない……ね、受けて立つ」
歩きにあわせて、ゆらゆらと揺れる白銀の髪。
その下から覗く黒耀石の如き瞳には、ある種の覚悟が含まれていた。
──例え視えなくとも、守るべきものは守り抜く。
「仕留めるのは任せたわよ」
宮門をくぐりながら、小さく紡がれた神流の言葉。
それに呼応するように、門の上に留まる一羽の烏──鴉斗の左眼が、十字型の瞳孔に変化していた。




