其ノ拾伍 ── 狙イ定ムル飢エシ虎 (15/15)
会 蒼燕 女、能 視 鬼之彼女。
其 故 起 事故。
然 若 警告、其 能 防 也。
【蒼燕が出会った女性は、鬼である彼女が視えていた。
視えていたが故に、起きた事故。
しかしそれは、予め警告しておけば、防げたはずの事故だった。】
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呉国・建業。
回復が早かった子明は、今尚療養中の伯言の自室を訪れていた。
「もう殆ど万全なのではないですか」
「まあ……多少痛みは残るけど、今まで通り生活したり戦えるくらいにはなってるよ」
「……あの時、見逃してもらえていなかったら、今ここにはいなかったでしょうね、あなたも、そして私も」
子明の言うあの時とは、村民ともども〈逍遙樹〉を焼いた日のこと。
茱絶が桜の鬼──薙瑠を刺した直後、倒れかかる彼女を支えるように、突如現れた蒼髪の人物。
それを認識した瞬間、首筋に僅かな痛みを感じたかと思えば、子明は気を失っていたのだった。
次に目が冷めたときには、黒紅の焔に囲まれていたはずのその場所は、青白い氷の世界になっていた。
ずきずきと痛む頭を懸命に働かせながら把握できたことと言えば。
今の自分は手足を凍らされた状態で座らされており、身動きが取れない状態なこと。
それは己の隣で横たわる茱絶も同じであること。
茱絶とは反対側の、隣に居る陸遜は──立った状態で胸から下、ほぼ全身を凍らされており、荒い呼吸を繰り返しているものの、意識は朦朧としているようであること。
そして前方には、横たわる柱に腰掛けて、こちらの様子を伺っている、蒼髪の人物がいること。
「やっと目を覚ましたか」
その人物が、笑み一つ浮かべることなく呟いた。
癖のある前髪から覗く鋭い双眸は、髪と同じく、薙瑠と同様の色を持っていた。
「あちこちで倒れていた貴様らを運んでやったんだ、感謝くらいするんだな」
「……誰です、あなたは……」
「ほう、口を聞ける程度は意識がしっかりしてるのか」
どこか感心するような口ぶりで、蒼髪の鬼は言う。
「隣の奴、死なないようにと呼吸をできるようにしてやったにも関わらず、話すのもままならない。──弱いな」
その言葉は、項垂れている陸遜本人にも聞こえていたようで、苦虫を噛み潰したような顔をした。
……が、その瞳には光がない。
恐らく、自分の意識を保つだけで精一杯なのだろう。
屈辱的なことを言われたら間違いなく言い返す性格の彼が、一切反論しない様子を見れば、かなり危機的状況にあることくらい容易に理解できた。
そんな陸遜の様子を見上げていた子明は、蒼髪の鬼に視線を戻す。
「……話が、あるのでしょう? ……私たちに」
「ああそうだ。だが俺が言いたいことはたった一言だ」
そう言うと、蒼髪の鬼は初めて笑みを浮かべる。
今の状況を愉しんでいるような彼の口から紡がれたのは、本当にたった一言の言葉だった。
「抗え」
「……は……」
「それが貴様らの役目だろう」
「……そんなこと、言われなくとも……」
何を当たり前のことを、とも言わんばかりの子明の言葉を聞くと、蒼髪の鬼はくつくつと笑いだした。
馬鹿にするような彼の態度に、子明が怪訝な顔をしたのは言うまでもない。
「何がおかしいんです?」
「ふ……馬鹿が。
その抗うことこそ、利用されているのだと気付いてないのか?」
周囲に花咲く氷の冷気をまとった風が、子明の肌を刺すように撫でる。
子明の姿を捉えて離さない蒼髪の鬼は、口角を上げて嗤っていた。
髪と瞳の色が同じだからだろうか。
似ても似つかないものだが、彼の姿が先程相対した薙瑠の姿と重なった。
その時、微笑む彼女に言われたある言葉が、脳裏に過ぎる。
──覚えておきましょう。
──〈六華將〉に貢献した者として。
「……そういうことでしたか」
あの言葉にはそんな意味が込められていたのだと、今になって気づく。
だが、〈六華將〉に刃向かうことが、たとえ利用されているものであったとしても。
彼──孫権様は、抗うことをやめはしない。
何故ならば。
彼には、桜の鬼に対して刃向かうための、最もな動機が存在するから。
「なんだ、利用されている心当たりがあったのか?」
「まさか。ただ……彼女が、少しだけ手がかりを教えてくれたので、それに気付いただけです」
「ほう」
蒼髪の鬼が興味深そうに頷いたとき、頭上から咽る声が耳に入ったかと思えば、ぱたぱたと地を染める血液が目に入る。
はっとして伯言を見上げた子明は、先程よりも更にぐったりとしている様子に、これ以上無駄話をすることはできないと、未だに痛む頭を必死に働かせる。
「ところで……私たちを如何する気ですか。
殺す気が無いのなら、いい加減解放していただけますか」
「はっ……そんな状況でよく強気な口を聞けるものだな。
まあいい。殺す気が無いのは事実だ。解放してやるとしよう。──ただし」
「ただし……?」
「そいつは貰っていく」
蒼髪の鬼は、子明の隣に横たわる茱絶を指差した。
未だに気を失ったままの彼はピクリとも動かないが、死んではいないのだろう。
しかし、本来の目的である〈逍遙樹〉の消滅は成せている。
このまま魏国の手に渡ったとて、不利益になるようなことは何も伝えていない。
「……分かりました」
「なんだ、随分とあっさり手放すんだな。所詮は利用するための道具に過ぎないってか」
「なんとでも言えばいいでしょう。解放の条件はそれだけですか」
「……そうだな」
蒼髪の鬼は、漸く重い腰を上げた。
ゆったりとした足取りで子明の隣、横たわる茱絶の元へ向かい、彼の目の前で足を止めるなり、軽々と茱絶を肩に担いだ。
「桜の鬼に喰われたあいつは、桜の鬼の標的として選ばれし者だ。
それはただの気まぐれかもしれないし、何か意図があったのかも分からん。
だがそれが如何であれ、お前たちは忠実に、眼前に広がる路を進んでいる訳だ。
精々、その道を突き進め。絶対に迷うことなく──な」
子明を横目で見ながらそう告げた後、蒼髪の鬼は、その場に白銀の粒子を残してゆらりと消えた。
同時に、辺りに咲き誇っていた氷華も白銀の粒子となって昇華していく。
手足を拘束していた氷も昇華し、身動きが取れるようになった子明は、その場に倒れかかる伯言を、ギリギリのところで受け止めた。
かなり冷え切っているその様子に、子明は小さく舌打ちをして、節々が痛む身体にむち打ち、伯言を抱えてその場を後にしたのだった。
そんな状態からようやく、万全に近い状態まで回復した伯言だったが、「見逃された」という子明の言葉に、痛む左脇腹をさすりながらも、琥珀色の瞳をぎらつかせながら顔を顰めた。
「舐めやがって……精々敷かれた道を進めだと?
利用なんか……されてたまるかよ……っ!!」
朦朧とした意識の中、聞こえてはいたらしい蒼髪の鬼の言葉に、納得がいっていないようだった。
反論ができるということは、それほど体調が回復してきているという証だ。
そんな伯言の様子に、子明は心の内でほっとしていた。
「落ち着いたらどうです?
そんなに喚いてもどうにもならないのも確かでしょう」
「あんたは悔しくないのかよ!?」
「利用価値があるから見逃した、なんて言われ方をされておいて、悔しくない者がいると思います?」
「だったら何でそんなに落ち着いてんだよ!?
桜を殺す機会をみすみす逃しておいて──」
「まだ方法があるから、に決まってるじゃないですか」
珍しく鋭い声音で発せられた子明の言葉に、伯言は目を丸くして怯む。
いつも穏やかで、常に微笑んでいるような呑気な印象が強い子明だったが、今の彼には笑み一つ浮かんでいなかった。
確かに、あの村を襲撃した目的は〈逍遙樹〉の消滅。
だが伯言の言うとおり、あのとき桜を殺してさえいれば、勝ったも同然だっただろう。
予期せぬ妨害が入ったとはいえ、その機会を逃したことは自分たちの失策に他ならない。
一方で子明には、桜を殺すべきは自分たちではないという気持ちが強くあった。
今の呉国を率いるは、江東の小覇王とも呼ばれた孫策の弟、孫権。
彼にはまだ、敵国に明かしていない能力がある。
それを用いて、最終的には桜を消す──
今度の戦は、あくまでもそれを仕掛けるための準備にすぎない。
「魏国に宣戦布告した今、一戦交えることになるのは必至。
ですが今回の戦。あの方にも協力していただきます」
「……え? どうやって説得したのさ?」
「少々手を焼きましたが……少しだけお手伝いしていただけたら、あとは自由に戦っていいという条件で協力していただけることに」
「ああ……なるほど」
子明の説明に、伯言も納得がいったように頷いた。
「あの人を呼んだってことは……いよいよ仕掛けるんだね」
「そうです。こちらもそう易易とやられる気はありませんが……如何ような展開になっても仕掛けられるようにする、最初で最後の機会になるでしょう」
「〝刻印〟の標的は〈六華將〉と──」
「ええ、司馬一族。ですが、最有力候補となるのは……」
「──鴉」
伯約は、琥珀色の瞳を煌々とさせながら、その名を紡いだ。
次こそは逃さないという、決意の現れ。
そしてそれはまた、子明も同じだった。
*
*
*
同刻、建業の城門前。
「……まさか、またここに戻ってくるなんてねぇ」
橙色の毛並みを靡かせながら、もう一匹の飢えた雌虎が姿を現していた。




