其ノ拾肆 ── 溢レ出ヅル想ヒノ欠片 (14/15)
〈華〉咲 因 蒼燕。
然 原因 唯 彼女 不 在。
蒼燕 会 或 女、其 即 此 時間之始 也。
【此の時間で〈華〉咲くきっかけとなった鬼──蒼燕。
しかし、起因となったのは彼女一人の存在だけではない。
その全ての始まりは、一人の女性と出会ったことだった。】
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金烏が大地の下に隠れ、玉兎が顔を出そうとしている頃。
子元が薙瑠を連れて来たのは、洛陽から少し離れた丘の上。
そこは空と大地、二つの景色がよく見える、見晴らしの良い場所だった。
青春が近づきつつあるとは雖も、未だ玄冬の季節。
陽の暖かさが失われる夜は空気が冷える。
「寒くないか?」
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
薙瑠は小さく微笑いながら応えを返すと、再び空を見上げる。
少しの陽の明るさを残していた空は、あっという間に月光のみの世界に姿を変えた。
まだ低い玉兎と共に、綺羅、と小さく光る星。
そんな空の移り変わりを静かに見つめながら、彼女はふと瞼を閉じて、時間毎に変わりゆく景色を思い返す。
宵の冷たさが残る暁の空気。
金烏の陽光と暖かさ。
夕焼け色に染まった空と、茜さす草木。
そして──宵闇に浮かぶ玉兎と星屑。
金烏玉兎、春夏秋冬。
巡り廻る時間は、生きとし生けるものに世界の記憶を刻んでいく。
それが例え、偽りの、偽物の時間だったとしても。
現在の時間が偽りとされる所以である、鬼の存在。
悪は何かと問われれば、それは鬼だと云うだろう。
でも、それはあくまでも表向きの考えだ。
何故ならば、真実は──誰も。
──誰も、悪くないのだから。
この時間に鬼が生まれてしまったのも、きっかけは単なる事故だった。
それでも、鬼は悪でなければならない。
予測できない事態が起こり得てしまったとしても、決して交わってはならない人間と鬼の交わりは、全て鬼側の責任となる。
だからこそ、私は。
誰も悪くないと知りながらも、自分の護りたいものを、護るために。
此の世界を〝偽物〟として、そして蒼燕を〝悪〟と決めつけて──犠牲にする。
すう……とゆっくり目を開く。
彼女の視線の先には、変わらず煌めく星々と静かに大地を見下ろす玉兎の姿があった。
子元も同じ情景を眺めながら、彼女の言葉を静かに待っている。
「夜空は……綺麗ですね。
星屑が散らばっている様は、まるで宝石箱のようで」
「ふ……そうだな」
「子元様は、夜はお好きですか?」
「好きか否か……考えたことはなかったが、嫌いではないだろうな」
「そうなんですね」
そんな他愛のないやり取りのあと、少しの間を空けて、彼女の口から紡がれた言葉は。
「私は……夜が嫌いです」
彼女らしからぬ、否定的なものだった。
子元が驚いたように彼女を見ると、二人の視線が交錯する。
彼女は微笑んでいたものの、何処か辛そうな顔をしていた。
薙瑠は前方に広がる大地へと視線を移しながら、胸の内に燻る感情を素直に吐き出していく。
「夜は……死ぬのが怖くなるんです。
寝る前に、ふと死というものについて考えてしまうことがあって。
死んだら自分はどこに行くのか、どうなってしまうのか……言葉にできないような、とてつもない不安に襲われるんです」
ぽつり、ぽつりと、紡がれる彼女の想い。
月明かりを反射しながら、ふわりと靡く青い髪はとても儚げで、切ない美しさを纏う彼女の横顔を見つめながら、子元は静かに耳を傾ける。
「死の先に何があるかなんて、誰にも分からない。
分からないからこそ、怖くて。
昼間、金烏が空にいる時に、同じように死について考えても、全然怖くないんです。
でも、夜は……怖い。
孤独で、寂しくて、不安で、どうしようもない感情の波に呑まれてしまう」
胸の内で燻る感情が、ひとつ、またひとつ、言の葉となって紡がれていく。
溢れて零れそうになる自分の感情を、何とかせき止めようと、薙瑠は刀を強く握りしめた。
「それが毎晩……毎晩続くんです。
夜になって、寝ようと横になって、目を閉じたとき。
毎晩のように苦しくて。怖くて。
私は……死ぬのが怖いんです」
彼女の顔に浮かんでいた微笑みは、既に消えていた。
堰き止められなかった感情が、涙となって頬を伝う。
それでも尚、薙瑠は言葉を止めなかった。
「昼間なら、死ぬ覚悟もできていて、死に対する恐怖もないのに……夜になると突然、そんな覚悟なんかできていないかのように、不安と恐怖に襲われる。
心が……ぎゅって、縛り付けられるような、そんな感覚に襲われるんです。
だから私は……夜が嫌い……っ」
涙を流しながらそう言い切った彼女を、子元は自然と抱きしめた。
半ば驚いたような反応があったものの、彼女もそっと、子元の背に腕を回した。
小さく震える、彼女の手。
それが背中越しに伝わってきて、子元は抱きしめる腕に僅かに力を入れる。
「俺が、側にいる。必ず。
お前を一人で死なせはしない」
その言葉が正解だったのかは分からない。
分からないが、彼女は死ぬ覚悟ができていないわけでも、死ぬことに恐怖を覚えているわけでもなく。
夜になると、覚悟によって心の奥底に沈めた、己の素直な感情が溢れ出てくる──それが怖いのだと、そう言っているように聞こえた。
もちろん、死に対する恐怖は少なからずあるのかも知れないが。
冷たい風が肌を撫でる、静かな夜。
腕の中で小さく震える身体を見下ろしながら、子元はそっと頭を撫でる。
言葉が紡がれる度に笑顔が消えていく彼女を、一度は止めようと思った。
しかし、わざわざ時間がほしいと言って来たことを考えれば、普段は言えない内に秘めていた気持ちを、誰かに聞いてほしいのだと、もう我慢できないのだと、遠回しに助けを求めているようにも見えて。
子元は止めることなく、最後まで彼女の言葉を聞き届けた。
──自分は……どうなんだろうか。
死の覚悟ができているのか。
死に対して、恐怖を覚えているのか。
戦乱の世に在る今、明日は我が身となる可能性もある死。
人を殺すことに躊躇いなどなければ、死ぬ時に怖いと思うこともないのだろう。
そんな曖昧な考えしか持てないのは、彼女のように〝死〟というものと正面から向き合っていないから。
「お前はすごいな、薙瑠」
心の底から感じた、彼女への称賛。
子元はその気持ちを、素直に言葉にした。
「世界の現状のみならず、自分自身の気持ちとも向き合える強さを持てることは、称賛に値することだ。
そんな強さを持つお前を、俺は心から尊敬している」
「……私は、自分の役割を熟しているだけです。
与えられた役目を全うすることは当たり前でしょう。
強さなんて……持っていない」
顔を埋めたまま、小声ながらも子元の言葉にしっかりと応える薙瑠。
これほど弱々しい姿を見るのは初めてで、まるで小動物のような可愛らしさに、子元はついつい口元を綻ばせてしまう。
「ふ……俺も母上に対して同じことを言ったな。
やるべきことをやるのは当たり前のことだと。
だが母上は、当たり前だと思えることが格好いいことなんだと、そう言っていた」
「格好いい……ですか?」
「ああ。与えられた役目を全うすることが一般的であっても、その内容が一般的な事柄とかけ離れた内容であるほど、当たり前のように熟すことは難しくなる。
お前や俺の役目はそういう類のものだろう?
だからこそ、己の気持ちと向き合って、その上で役割を全うしようとしているお前は……とても強かで、格好いい」
子元が紡いだ言葉は、しっかりと彼女に届いていたらしい。
背中越しに伝わっていた手の震えは、いつの間にか止まっていた。
そしてふと、埋められたままだった彼女の顔が僅かに上がる。
その視線は月明かりの下に照らされる大地へと注がれており、二人の双眸が交わることはなかった。
「……死に対する、不安と恐怖に襲われたとき……いつも、子元様の事を考えるようにしてるんです」
ぽつりと呟かれた彼女の言葉に、一瞬どきりと胸が騒ぐ。
密着している状態での心拍音までは誤魔化せないものの、声音だけは平静を装いながら、子元は優しく応えを返す。
「俺のことを考えて如何するんだ」
「子元様のことを考えると……落ち着くんです。
不安も恐怖も、嘘みたいに消えて……眠りにつける。
だから何時も、子元様の為ならって、ある種のおまじないのように唱えてから寝てるんです」
「……それで本当に眠れてるのか?」
「本当です。子元様は……子元様の存在は、いつも私を護ってくださっています。
本来は私が護る立場なのに、護られてばかりで……子元様がいてくださって、良かったです」
そう言いながら、薙瑠はようやく顔を上げた。
目元が僅かに赤くなっているものの、小さく咲うその表情は普段通りの彼女だった。
小さくて、温かくて、それでいて強か。
その一方で、酷く儚く──そして脆い。
そんな一面を隠し持つ彼女の存在は、今手放してしまったら、もう二度とこの手には戻らないのではないかと、そんな気がして。
上手く笑えていない自覚はあったものの、子元は誤魔化すように小さく微笑う。
「俺自身が、お前を護れる存在になっているのなら……何よりだ」
「ふふ、本当にありがとうございます。
だから今度は、私が子元様を護ります」
「側近として、か?」
「それもありますが、桜の鬼として、子元様の未来を護りたいんです」
「……未来?」
意外な単語が出てきて目を丸くする子元に、薙瑠は小さく苦笑した。
「時を戻すとか、消えてなくなるとか……そんなことばかり言ってるのに、今更〝未来〟だなんて可笑しいですよね」
「いや……お前のことだ、きっと俺とは違う世界を見ているんだろう」
「そうでもないです、時を戻した先の世界は正しい時間を刻んでいくことになります。
ですから当然、その先には未来が存在する。
私はそこでの、戻った先での子元様の未来を護りたいんです」
「……やはりお前はすごいな。
俺は一生、お前には敵いそうにない」
「それは大袈裟ですよ」
再び苦笑する彼女を見下ろしながら、子元も笑みを浮かべた。
夕陽が映り込んでいた彼女の瞳は今、玉兎の光を取り込んで、また違った美しさを持ちながら綺羅、綺羅と揺らいでいる。
ずっとこのまま、静かな時間を過ごしたいとは思うものの、そういう訳にもいかず。
「そろそろ戻らないとな」
「そうですね」
「だが俺はまだ、お前を解放する気にはなれない」
「えっ……何故ですか?」
「お前が、俺を解放してくれないからだ」
その言葉に、薙瑠は一瞬思考を停止したような顔をすると、顔を逸らしながら慌てて腕を広げた。
意地悪な言い方だと思いつつも、自分から放す気になれなかった今、これが一番効率が良かった。
子元は小さく笑ってから、耳を赤くしている彼女をそっと解放してやる。
彼女の体温で暖かくなっていた身体を、玄冬の風は容赦なく冷やしていく。
その事に若干の不満を感じながらも、樹に繋いでいた馬へと足を進めようとした、刹那。
華服の背中側を軽く引っ張られる。
子元が不思議そうに振り返れば、彼女は俯き気味に、不安そうな表情を浮かべていた。
「……今日も」
雫が落ちるが如く、紡がれる呟き。
それは静かな音を響かせながら、水面に大きな波紋を創り出す。
「今日も……私を、護ってください」
留めなく落ちる雫は、次々と異なる大きさの波紋を描き出していく。
言葉の意味を把握した子元は、柔らかく微笑えんで。
「もちろんだ」
応えを返したあと、子元は己の華服を掴んでいた彼女の手を、優しく包み込むように握った。
ふと、留めなく落ちていた雫が止まれば、水面の波紋も徐々に姿を消してゆく。
いつも通りの、静かで平らな、綺麗な水面。
薙瑠は顔を上げ、安心したように息を吐きながら「ありがとうございます」と咲った。
その咲みを見届けてから、子元は彼女の手を引いて、馬へと足を進めていく。
清風明月、玉兎明かり照らす静かな夜。
二人で過ごす、最初で最後の、自由な時間が終わりを告ぐ。




