其ノ拾参 ── 偽リノ時間ノ在リシ意味 (13/15)
玄冬の金烏が沈み始める夕焼けの時刻。
昼食後、三人で都城内を散策したあと、「用があるから」という子上と別れた二人は、厩舎から借りた馬を率いて、都城の外へと繋がる城門に足を運んでいた。
と言うのは。
「少し遠出でもするか」
「え……明日洛陽を発つ訳ですし、あまり体力を使わないほうがよろしいのでは……?」
「安心しろ、遠出とは言っても半刻ほどもあれば着く場所に行くだけだ。
それに……時間が欲しいと言うのは、俺に何か話したいことがあるんだろう? あまり人がいない場所の方が、落ち着いて話せるんじゃないか?」
そんな子元の気遣いとも言える提案によって、少しの時間だけ遠出をしようとしていた。
城門を潜って都城の外へと足を踏み出せば、風を遮るものが無くなり、ひやりとした、而して気持ちのいい微風が、二人の肌を撫で、髪や華服を優しく揺らす。
「あの……ひとつだけ、お願いというか、聞きたいことが……あるのですが」
「ん? どうした」
風に乗る梢の音が静かに流れる中、遠慮気味に紡がれた彼女の言葉に、子元は小さく首を傾げる。
薙瑠は半ば目を逸らしながら、小さな声で。
「その……お馬さんに二人で乗ることって、可能なんですか……?」
彼女からの思いもよらぬ言葉に、子元は僅かに目を丸くする。
しかし然程驚いた様子もなく、それどころか少し愉しそうに目を細めた。
「なんだ、乗りたいのか?」
「えと……か、可能であるならば、乗ってみたい気持ちは……」
「乗れるならば、お前は乗りたいのか? ──俺と、共に」
ゆっくりと紡がれた最後の一言。
夕焼け色に染まっていた彼女の肌に、僅かな朱がさしたのは言うまでもない。
子元は手綱を手にしつつ、余裕のある笑みを浮かべながら彼女の応えを待っていた。
そのことに当然彼女も気付いており、意地悪な言い方だと思いつつも、薙瑠が反論することはなく。
「……はい」
目を逸らしながら、小さな声で頷いた。
そんな彼女の様子が可愛らしくて、そして肯定されたことが何だか嬉しくて、子元は終始顔をほころばせていた。
「そうか。まあ……お前からその提案がなくとも、元より乗せていく気だったがな」
「えっ……でしたら、言わせないでください……」
「言わせてみたくなった」
「い、意地悪ですね……」
「ふ……褒め言葉として受け取っておこう」
むすっとした表情を浮かべる薙瑠に対し、子元は余裕綽々といった態度で、手綱を握る馬の胴体を優しく撫でてやる。
ふわりと流れる微風は、焦げ茶の馬のたてがみと、灰色の子元の髪を揺らす。
夕焼け空の下、そんな一人と一頭の様子は、薙瑠にはとても魅力的に映っていたようで。
少しの時間、彼女は微笑みながら静かに見惚れていた。
そんな彼女の視線に気付いた子元は、馬が落ち着いていることを確認すると、彼女に向き直り、手綱を握っていない方の手をそっと差し出す。
「乗ってみるか」
「は……はい」
薙瑠は差し出された手にそっと己の手を添えながら、ゆっくりと馬へ近づく。
艷やかな美しさがある、焦げ茶の身体。
間近で見れば、隅々まで丁寧な手入れが行き届いていることがよく分かる。
その美しい胴体を、彼女はまるで宝石でも見るかのように感心しながら眺めたあと、馬の身体に装着されている鞍、そして鐙に視線を落とす。
「ここに脚をかけて跨るんですよね」
「ああ。ゆっくりでいいぞ。
だがその前に……その刀、乗馬する時は邪魔だろう? 俺で良ければ一時的に預かるが」
「でしたら、お言葉に甘えて」
薙瑠は片手に携えていた自身の刀を子元へと手渡すと、鞍に手を、鐙に脚をかけてひょいと軽快に騎乗する。
鞍に腰を降ろしたとき、彼女の瞳に映し出されるは、普段とは違う高さから眺める自然の景色。
「わっ……」
広い大地、心地良い風、ただ馬に乗っただけで世界が変わったかのような、新鮮な景色。
何時もと変わらぬ情景であるにも関わらず、初めての馬の上からの眺めは彼女にとって特別感があるもので、薙瑠は自然と見入っていた。
そんな彼女を、子元は地上から微笑ましく見上げている。
「景色はどうだ?」
「とても素敵です……! 子元様はいつもこんな景色を見ていらっしゃったんですね」
「ああ。馬に乗るのも、案外悪くないだろう?」
「はい……!」
嬉しそうな彼女の微笑み。
夕焼けを背後に咲う彼女は、蒼い水に紅葉が映り込んだかのように綺麗で、茜さす世界がとてもよく似合っていた。
「刀、ありがとうございました」
「……ああ」
少しの間、薙瑠の姿に見惚れていた子元は、彼女へ刀を返すなり、手綱を握りながら後ろに器用に跨った。
子元にとって、馬の上からの景色は見慣れたもので、何の特別感もない──はずだったのだが。
目の前に彼女がいるというだけで、ふわふわとした不思議な感覚を覚えていた。
己の目の前に彼女がいて。
手綱を握る腕が、彼女を包み込んでいるようで。
分かってはいたことだが、この密着感が騎乗中ずっと続くのかと思うと、自分を抑えきれる自信がなかった。
一方で薙瑠も、自分のすぐ後ろに彼がいて。
手綱を握る腕に、優しく包み込まれているようで。
分かってはいたけれども、この密着感が騎乗中ずっと続くのかと思うと、心臓がどうにかなりそうだった。
それぞれが、それぞれの気持ちを落ち着かせるように、小さくひと呼吸。
肌を撫でるような冷たい風は、二人の熱を冷ますには程よいものだった。
「馬を歩かせても大丈夫か?」
「は、はい。問題ない……と思います」
「安心しろ。いきなり走らせるようなことはしない」
不安そうな顔を浮かべる薙瑠に小さく笑いかけると、子元は手綱を手繰り、馬をゆっくりと歩かせ始める。
こつこつと鳴る蹄の音に合わせて、二人の身体も小さく揺れ動く。
「わっ……歩くだけでも結構揺れますね」
「怖いか?」
「いえ、お馬さんに乗るという感覚に慣れていないだけかと……」
目の前で小さく靡く蒼髪を瞳に映す子元は、ふと彼女が紡ぐある単語が耳に残り。
「先程も思ったが……お前、馬のこと『お馬さん』と言うようになったのか」
率直に思ったことを口にした。
そんなことを聞かれるとは思っていなかったようで、これまで周囲の景色に視線を向けていた彼女が、目を丸くしながら振り向いた。
「言うようになった……ですか?」
「以前馬に乗れないと聞いたときは、普通に馬って言ってなかったか?
そんな可愛らしい言い方をしてたならば、印象に残っているはずだからな」
「あ……あれは……人の目があったので……」
可愛らしいなどと直球に言われ、薙瑠は子元の視線から逃げるように前を向く。
人の目があったから、という彼女の言葉は、裏を返せば、自分が気を許せる対象になっているということの証となり得るもので。
そんな彼女を愛しく感じながら、子元は「そうか」と小さく笑った。
そんなとき、思い出させるかのように肌を撫でる風を感じて、子元は再び景色へと視線を移す。
戦国の世と雖も、此の世界にはこんなにも、穏やかで心落ち着く場所がある。
此の世界で生まれ、懸命に生きている人がいる。
それは決して夢幻ではなく、確かに存在し、時間を刻んでいる現の世界。
にも関わらず。
〈六華將〉は──此の世界を消そうとしている。
これ迄に築いてきた信頼、成果、そして人々の生死に至るまで、全てを無かったことにしようとしている。
時を戻す、とは恐らくそういうことだろう。
そしてまた、自分も其れを成そうとしている存在のひとり。
何を成し遂げようと、どんなに懸命に生きようと、鬼がいる現在の世界では無意味と化す──
「無駄なんかじゃ、ない」
そんな言葉が耳に入り、子元の意識は現実へと引き戻される。
先の言葉を紡いだのは、紛れもなく目の前にいる彼女だった。
口にしていない筈の己の考えを否定するかのような言葉だったが、その声はとてもか細く、小さなもので。
表情こそ分からないものの、子元は彼女から、どこか思い詰めたような空気を感じ取っていた。
「大丈夫か……?」
声をかけられたことに驚いたようで、彼女は肩をピクリと揺らす。
薙瑠は振り返りながら、何処か気恥ずかしそうに微笑った。
「すみません、聞こえてましたか……?」
「この距離に居て聞こえないはずがないだろう」
心配そうな面持ちをしている子元に、「そうですよね」と小さく応えを返してから、薙瑠は再び前を向く。
それからしばらくは、再び沈黙の時間が訪れた。
──無駄なんかじゃ、ない。
彼女の次の言葉を待ちながら、子元は先程の言葉を心の内で反復させる。
時が戻されるこの世界での出来事が、無駄ではないのだと、意味があるものなのだと、そう言っているようにも聞こえた言の葉。
「なくなる此の時間でも……いえ、此の時間が時を刻んでしまったからこそ、護りたいものが在るんです」
「護りたいもの?」
「はい。こんな偽りの時間ですが……子元様には、護りたいものは在りますか?」
軽く振り向きながら小さく咲う彼女の横顔は、夕焼け色も相まって、何処か儚げだった。
月長石のような青瞳には茜色の夕陽が映り込み、綺羅、綺羅と小さく乱反射している。
触れるだけで壊れてしまいそうな硝子の如きその瞳を、子元は静かに見つめ返していた。
薙瑠の問いかけに対する彼の答えは、唯ひとつ。
「ある」
真剣な眼差しを向けながら、子元はたった一言、而してはっきりと言葉を紡いだ。
そんな彼の様子に薙瑠は驚くこともなく、僅かに笑みを深めながら「そうですか」とだけ応えを返した。
再び前を向いた彼女は、二人を乗せる馬の鬣を優しく撫でる。
「でしたら、きっとこの時間での出来事は無駄じゃないはずです。その言葉を聞けて安心しました」
「そうか。俺はお前が咲ってくれさえいれば……それでいい」
子元の言葉は、彼の〝護りたいもの〟に向けての言の葉。
しかし彼女は、小さく笑うだけだった。
気付かないふりをしているのか、本当に気付いていないのか。
背中越しに言葉を聞きながら微笑んでいるであろう彼女に、子元は内心で云う。
──その笑顔を、護りたい。
遠い昔の、幼き自分が抱いた無責任な感情。
今なら、言葉にすることも、行動することも、己の言動ひとつひとつに責任が伴う事を理解している。
だからこそ。
彼女に向かって、直接伝えることはしない。
何故なら──護れないという可能性を、完全に否定することができないから。
それ故せめて、自分と共にいる時くらいは。
自分の前では、笑顔を見せる彼女であって欲しい。
そんな小さな願いを、子元はそっと、心の箱に仕舞い込んだ。
「もう夕陽が見えなくなりそうですね」
「確かに、この時期の陽は沈むのが早い。……少し走らせるか」
「えっ」
「安心しろ、俺がいる限りは落馬などさせない」
不安げな彼女を落ち着かせるように、子元は余裕のある笑みを浮かべる。
彼が手綱を操れば、馬もそれに応えるように勢い良く駆け出した。
ゆったりとしていた蹄の音は力強く疾走感がある音を刻み始め、周囲の景色も流れるように過ぎ去っていく。
その様は烏兎匆匆──時が流れるが如し。
茜色の空が、藍色の宵に飲み込まれ始めた頃。
二人を乗せた一頭の馬は、静かな大地の上を颯爽と駆け抜けて行った。
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〈華〉与〈鬼灯〉。
此 世界、元来 鬼 不 在。
其 所以 二種之妖気 在 也。
【同じ鬼にも関わらず、何故〈華〉と〈鬼灯〉、二種類の妖気が存在するのか。
その理由は少し考えれば分かるはずだ。
何故なら、この世界にはもともと、鬼など存在しなかったのだから。】




