其ノ拾壱 ── 互イノ想ヒヲ秘メシ物 (11/15)
金烏の陽射しが心地よい気候の中、ふわりと香る優しげな桃樹の香り。
子元と薙瑠の二人は、彼女の刀を用いた妖術で涿郡に訪れていた。
否、立ち寄った──と言うべきか。
それはあっという間のことだった。
一瞬だけ周囲の空間が歪んだかのように見えたものの、瞬きをしたあとには、そこはもう全く別の場所。
蕾を付けた数多の桃の樹に囲まれた其処は、間違いなく桃園だった。
のびのびと枝を伸ばすものが多い中、時折枝垂れも混ざっており、様々な桃樹が心地よさそうに佇んでいる。
「本当に……桃園に来た……のか」
辺りを見回しながら、子元はまだ幻覚でも見ているような心地がしていた。
そんな彼の様子に、薙瑠は小さく微笑う。
「この場所が現実かどうかは、桃の樹に触れると分かるかと思います。
幻術であれば、樹の質感までは感じられないので……」
彼女の言葉を聞き、子元は一番近くにあった桃の樹へと近寄り、そっと手を触れた。
ざらざらとした手触りの、自然の樹の証。
「なんだか不思議な気分だな……」
「そうですよね。私も此処に来るのは初めてなので、来れること自体が不思議な感じです」
「移動できるのは、過去に訪れたことがある場所か、鴉が居る場所に限る……だったか」
「はい。〈記憶辿咲〉こそが、記憶を辿ってその場所へと導いてくれる妖術なんです。
ですから今回も鄴と同様に、過去の桜の鬼が桃園を訪れていたみたいです」
薙瑠は片手に携えていた刀を、体の前に掲げて優しく撫でるように触れる。
そんな彼女を、子元は桃の樹に軽くよりかかり、腕を組みながら眺めていた。
金烏の陽光を受け、艶のある輝きを持つ黒き鞘。
それに納められている刀は恐らく、これ迄の桜の鬼が手にしていたものと同じもののはず。
そして桜の鬼は以前、どこの国にも所属していなかったと云う。
だからこそ、各地に来訪の記憶が残っており、自分たちは今その記憶を辿ってここに来ている。
そう考えれば〈記憶辿咲〉という妖術は、記憶を司る桜の鬼に相応しい妖術だと言えるだろう。
未だ不思議な心地がする中、子元はふと、頭上に枝を伸ばす桃の樹を見上げる。
のびのびとした黒茶色の枝の先には、幾ばくかの桃が花を咲かせているが、その多くがまだ蕾の姿のまま。
「やはり……まだ時期尚早だったか」
「そうですね。でも、私はここに来られて良かったです。
緑豊かな自然とはまた違った、素敵な空気を味わえるので」
「そうか」
僅かに両手を広げながら、すうと深呼吸をする薙瑠。
柔らかな風が、静かに目を閉じている彼女の青い髪と華服をふわりと揺らす。
そんな彼女の様子を瞳に映しながら、子元は小さく微笑う。
彼が桃園に来ることを提案したのは、何か具体的な目的を持っていた訳ではなく、ただ彼女に笑ってほしかっただけ。
本音を言えば、桃色の花咲く世界の中で、柔らかく咲う彼女の姿を見たかった──
そんなことを考えていれば、ふと彼女と目が合う。
彼女は静かに子元を見つめたあと、楽しそうに微笑んだ。
「子元様は、どこにいても素敵ですね」
「ん……何だ急に」
「きっと……桃の花が沢山咲いている時期だったなら、もっと素敵だったと思います」
自分が彼女に対して思っていたことを口にされ、子元は目を丸くした。
そして徐々に羞恥が込み上げ、片手で口元を覆いながら彼女から目を逸らす。
彼女は時たま、恐ろしいほどに無自覚な発言をする。
自身の言葉ひとつひとつが、どれだけ感情を揺さぶるものなのか、その影響力を全く分かっていない。
そんなだからこそ──側にいない時が、どうしようもなく不安になる。
同時に、彼女の言葉ひとつひとつに、いちいち感情が揺れ動く自分に対して、若干の苛立ちを感じていた。
「お前……俺を如何する気だ」
子元は眉根を寄せて無愛想に言う。
しかしその視線は斜め下に向けられており、彼女の姿を捉えることはなかった。
彼の態度からして、怒っているわけではないことを理解している薙瑠は、くすりと笑う。
「如何もしません。
ただ、今日は……今日だけは、自分の気持ちに素直になろうって、決めていただけです」
「素直になる……だと?」
「はい。ですから、私が見たこと聞いたこと、そして感じたこと……それら全てを、子元様に差し上げます。
子元様に預けた私の時間は、全部子元様のものですから」
「……本当に……いい加減にしろ……」
ものすごい小声ではあるものの、思わず心の声が口から漏れるほど、子元は冷静ではなかった。
彼女の時間を預けてほしいと言ったのは、全部彼女の為を思ってのこと。
残酷な話しか聞こえてこない現実から少しでも離れて、一時の心の休息になればと、そう思っての提案だった。
──筈なのに。
彼女は自身の体験全てをくれると言う。
「素直になる」と言っている以上、その言葉は彼女の本心から紡がれたものであることは疑う余地もない。
が、無自覚の言葉の力はやはり恐ろしいものだった。
そして同時に、彼女を困惑させるだけだと気持ちを抑えていたことが、とてつもなく馬鹿馬鹿しくなった。
彼女が素直になる、と言うのなら。
何故抑える必要があるのだろうか。
子元は頭の中でぐるぐると思考を巡らせた後、半ば怒ったような表情で彼女を見た。
「今から、そこを一歩も動くな」
「え……? 何故ですか?」
「いいから、少し黙ってろ」
少しの苛立ちが含まれた声音に、薙瑠は反射的にピクリと肩をゆらした。
子元が何に対して苛立ちを感じているのかが分かっていない彼女は、目を丸くしながらも素直にその場で彼を待つ。
そんな彼女を、子元は半ば鋭さを持った瞳で静かに見つめながら、ゆっくりと近づいて行く。
さく、さく、さく──土を踏む音が異様によく響いた、短い時間。
二人の距離が縮まり、彼女の目の前で足を止めた子元。
彼の青白い双眸は、何を言うでもなく、ただ静かに、彼女の姿を見下ろしていた。
「子元……様?」
時折まばたきをする薙瑠の蒼い右目は、どこか不安そうに揺れている。
ふわ、と二人の肌を撫でるような風が吹き、互いの髪を揺らした。
そのとき、子元の左耳で光るものがあった。
その正体は、青水晶の輝きを放つ飾り紐がついた耳飾り。
風に揺られ、きらきらと陽光を反射する様は、とても優美で、薙瑠の視線は自然とその耳飾りに向けられていた。
そんなときだった。
彼女の耳元を、子元が優しく触れたのは。
「な……なん、ですか……?」
薙瑠が恐る恐る尋ねるものの、彼から応えは返ってこない。
代わりに、彼は手が触れている右耳を、優しく撫で、時には耳の裏へと指を這わせた。
それがとても擽ったくて、何だか恥ずかしくて、薙瑠は子元の視線から逃れるように目を瞑る。
すると今度は、大きな手で優しく頬を包まれた。
刹那。
とても近くで、ふ、と小さく笑う声。
不思議に感じた彼女が、ゆっくりと瞼を上げれば──
「なかなか見応えのある反応をするんだな」
そう言いながら微笑う子元の顔が、すぐ目の前にあった。
お互いの鼻が触れそうで触れない、落ち着かない距離感。
桜よりも少し紅く染まる彼女の顔を見ながら、子元は再びくつくつと笑う。
そこでようやく、薙瑠も言葉を発せるようになったようで。
「なっ……なにを……」
「別に何もしていない。
お前の顔を近くで見たかった……ただそれだけだ」
そう言いながら、子元は彼女から顔を離す。
──が、左手だけは、再び彼女の耳元へと伸ばした。
さらり、と触れるのは飾り紐のついた耳飾り。
子元の左耳についているものと、全く同じ色形の、対なるもの。
「やはり似合うな、お前は」
微笑む子元の言葉を聞いて初めて、右耳に感じる僅かな重み。
薙瑠はそっと耳元へと手を伸ばし、そこでようやく、先程の愛撫の如き行動が耳飾りを付けていたものだと知れば、自分の反応が恥ずかしいことこの上なく。
目を逸らしながら辛うじて発することができた声音は、とてもか細いものだった。
「や……ややこしいことをしないでください……」
「ややこしい? 何がだ?」
「その……先程の……」
「ふ、分かっている。……可愛かった」
柔らかな笑みを浮かべて、本音を隠そうとしない子元の態度に、薙瑠の頬や耳は紅葉の如く染まるばかりだった。
そんな彼女の反応がとても愛らしくて。
子元にとっては直面している現実など、今は如何でも良かった。
──そう、現在だけは。
「今日だけは……許してくれる、だろう?」
子元の言葉に、薙瑠ははっとしたように顔を上げる。
笑みを浮かべているものの、まるで自分に言い聞かせるかのような彼の言葉は、とても切なげだった。
梢を揺らしながら、二人の間を通り抜けていくそよ風。
その風は少し冷たくて、薙瑠も、そして子元も、すうと身体が冷えていくのを静かに感じ取っていた。
薙瑠は火照り気味の気持ちを落ち着かせるようにひと呼吸。
そして一瞬だけ頭を過ぎった現実に目を背けるように、精一杯の笑みを浮かべ。
「勿論です」
子元の問いかけに応えた。
彼らは、理解している。
今在る現実が、こんなにも穏やかで、優しい世界ではないことを、決して忘れていなかった。
だからこそ、切に願うのだ。
今だけは、穏やかで優しいこの時間に、身を委ねることを赦してほしい──と。
薙瑠は右耳につけられた耳飾りに、そっと手を触れる。
垂れ下がる飾り紐の、さらりとした手触りがとても心地いい。
「これ、ありがとうございます」
「どんな耳飾りなのか、聞かないんだな」
「子元様は、私の興味を良く知っておいでです。
ですからきっと、この耳飾りは、私が既に目にしているものなのではないでしょうか」
そう言いながら薙瑠は、彼の左耳で輝く、青水晶の飾り紐がついた耳飾りを瞳に映しながら、嬉しそうに笑った。
──その笑顔を、護りたい。
子元は彼女に贈った耳飾りに、そんな意味を込めていた。
しかし、それを直接口にすることは憚られ、子元はその想いに大切に蓋をして、静かに微笑んだ。
二人を包み込むように囲う、数多の桃樹。
その殆どが未だ蕾ではあるものの、花開けば紅色に染まる木々。
そんな桃の花にも、芍薬や酸漿のように意味がある。
その意味は──
「私は、あなたの虜です」
耳飾りに手を添えて、近くにあった枝垂れる桃の樹を見上げながら、薙瑠は呟いた。
その呟きはものすごく小さいもので。
きっと彼には届いていない。
否、敢えて聞こえないように呟いた。
その想いは、心の内で、大切に蓋をするべきものだったから。
決して伝えはしないと、彼女は刀を携える手に、静かに力を込めた。
「そろそろ戻ろう」
「そうですね」
耳飾りと、桃の花。
互いに異なる想いの形。
それらを心にしまい、薙瑠は刀を体の前に掲げて、子元はそれに手を触れた。
「〈紅桜・記憶辿咲〉」
彼女の言葉とともに、二人の姿はゆらりと消えていく。
その様子を、蕾をつけた数多の桃だけが、静かに見守っていた。
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元来、鬼之妖気 不 美。
真 姿、紅妖 灯火 而似 酸漿。
其 被 呼〈鬼灯〉所以 也。
【本来、鬼の妖気はそれほど美しいものではない。
紅く妖しい鬼の灯火。
酸漿に似た姿を持つことこから、〈鬼灯〉と呼んでいた。】




