其ノ拾 ── 芍薬ノ華ト酸漿ノ灯 (10/15)
鬼 生此世界、咲 花如 芍薬 心。
其 即 妖気之形 也。
其 花 美 於 本来之鬼之妖気。
【この世界に生まれた鬼は、芍薬にも似た花を心に咲かせていた。
それは妖気がカタチとして視えているもの。
本来の鬼が持つ妖気とは、似ても似つかないほど、美しいものだった。】
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まだまだ肌寒さを感じるものの、青春が近付きつつある季節。
子元が薙瑠を連れてやって来たのは、人気のない裏庭だった。
大広間がある建物の裏側、土塀との間に疎らに木々が植えられた少しの空間。
都城の中でも比較的緑豊かなその場所は、子元にとって思い入れのある場所。
「此処は昔……まだ幼い頃、母上が俺と子上を連れて、よく来ていた場所だ」
「そうなんですね。でも何のために……?」
「ああ、その目的となるものを、お前に見せようと思って……な」
子元はゆったりとした足取りで、裏庭を囲む土塀の方へと歩み寄る。
薙瑠も後を追うようについていくと、彼は土塀の少し手前で片膝をついた。
そんな彼の穏やかな視線の先には、生えてきたばかりの青々とした植物が、暖かな日光を浴びながら気持ち良さそうに葉を揺らしている。
「……花……ですか?」
「ああ、まだ蕾すらつけていないが……芍薬だ。
母上はこの花が好きらしい」
後ろから覗き込んでいた彼女も、左手に携えていた刀を足元に置きながら、子元の隣に並んでしゃがんだ。
「どうしてこの花を私に……?」
「この芍薬は、淡い桃色をした八重の花を咲かせるのだが……桜に似ていると思ってな。
それに……以前都城内を散策した際、お前は植物や花などの自然が好きだと言っていただろう」
「覚えてくださっていたんですね」
何処か照れくさそうにしている子元の横顔を見ながら、薙瑠はふわりと微笑う。
そして再び芍薬へと視線を戻し、彼女は揺れる葉を優しく、撫でるように触れた。
「芍薬……こんなところにも、咲いていたんですね」
「こんなところに、ということは、何処か他の場所でも見たことがあるのか」
「はい、正確には芍薬に似た花を、ですが」
そう言いながら、薙瑠は子元の胸元に視線を移す。
彼女の瞳に移るのは、彼の中で強かに咲き誇る、特定の者にしか視えない特殊な花──
「芍薬はとても似てるんですよ、鬼の心に在る〈華〉に」
「ほう……お前に視える〈華〉というのは、こんな感じなのか」
彼女の言葉で、子元は記憶の中にある花をつけた芍薬を思い返しながら、茎を伸ばす芍薬へと視線を落とす。
そんな彼の様子に、薙瑠は小さく微笑んだ。
「そういえば、私には〈華〉が視える、というのは幾度となくお伝えしたことがありますが……その〈華〉がどう視えてるか、ということはお話したことがなかったですね」
「ああ、今初めて聞いたな。
あまり気にしたこともなかったが」
「そうですよね。折角なので……少しお話してもよろしいでしょうか?」
遠慮がちに尋ねる薙瑠に、子元は「勿論だ」と微笑って応える。
すると彼女は、「ありがとうございます」と嬉しそうな笑みを浮かべた。
心なしか、彼女の青い瞳は宝石のようにきらきらとした、楽しそうな輝きを含んでいるように見える。
「すごく、綺麗なんです。
芍薬に似た〈華〉が、仄かに光を放ちながら、周囲には光の粒が舞っている、その様子が。
その人の〝気〟によって色も様々で、〈華〉は妖しく強かな美しさを持っています。
この時間で生きる鬼だからこそ、咲かせられる〈華〉なんだと」
時折その場にある芍薬の茎へと視線を移しながら語る薙瑠を、子元は微笑ましく見ていた。
彼女だけが視ている〈華〉の世界は、きっと晶瑩玲瓏、花鳥風月、そんな言葉が相応しい世界なのだろう。
「ですが、〈六華將〉は、〈華〉を持っていません。
いえ、〈華〉とは言わない……と言った方が正しいでしょうか」
「どういうことだ?」
「酸漿って、ご存知ですか?」
「いや……あまり聞いたことはないな」
半ば首を傾げる子元の様子を見て、薙瑠は徐ろに足元にあった小石を拾った。
それを右手のひらにのせると、左手で刀に触れた上で、小声で「紅桜」と呟く。
刹那、彼女の手のひらにあった小石は、仄かに紅く光る、不思議な形の植物に変化していた。
否、本来は小石のままであり、あくまでも植物に見えているだけ──
「それが酸漿……か?」
「もうこの程度では驚かれないんですね?」
「いや……驚きはしたが、その原理は一応理解しているからな」
「流石です、子元様」
ふと柔らかい笑みを浮かべる彼女に、子元の胸元は僅かに大きく波打った。
しかし彼は平静を装いながら、手の上にある酸漿を見つめている彼女の話に耳を傾ける。
「〈六華將〉が持つのはこの酸漿、という植物に似ているんです。
鬼の灯と書いて〈鬼灯〉……そう書くのは、私のように視える者が当て字したのでは……なんて、考えたりもします」
彼女の手の上で、和らげな光を灯している酸漿。
その様はまさに灯火の如く、自然と目が惹き付けられるような妖艶さがあった。
「成る程な。だが鬼の灯……という意味では、俺たちが持つ〈華〉も同じだろう。
一般的な鬼と〈六華將〉で違いがあるのは何故だ?」
「それについては恐らく『幻華譚』にも記されているかと思いますが……私個人としては、植物の花が持つ意味に答えがあると思っています」
「花が持つ意味……?」
「はい。〈鬼灯〉のような字での表現も面白いですが、花の意味もとても面白いんです」
薙瑠は酸漿に落としていた視線を、目の前にある芍薬の茎へと移した。
今そこに可憐なる花の姿はないものの、子元の言う、淡い桃色をした八重の花を頭に思い浮かべて言葉を紡ぐ。
「芍薬には〝恥じらい〟や〝はにかみ〟といった素敵な意味があるんですよ。
桃色の芍薬にはとてもお似合いです」
「ほう、なら酸漿は?」
「酸漿は〝偽り〟や〝ごまかし〟──〈六華將〉にとても相応しい意味だと思いませんか?」
〝偽り〟──その言葉を、まさかここで聞くことになるとは思わなかったのだろう。
穏やかな微笑みを浮かべている彼女に対し、子元は僅かに目を丸くする他なかった。
幾度となく耳にした、〝偽り〟という言葉。
その言葉にあまりいい印象は持っていない。
だからだろうか。
恥じらい、はにかむ、美しき〈華〉と、
ごまかし、偽る、妖艶な〈鬼灯〉──
その対比は陽光と陰影の如く、〈六華將〉の存在がとても異質なものであるように感じられた。
しかし。
「お前に〈鬼灯〉は相応しくない」
それが子元の率直な感想だった。
彼の言葉に、今度は薙瑠が目を丸くする。
「相応しくない……ですか?」
「桜という花がどんな花なのか、お前がどんな性格で、どんな人なのか……それを知っている俺からすれば、お前は〈鬼灯〉よりも〈華〉の方がよっぽど似合う。
……まあ、あくまでも相応しいか否かの話であって、お前が実際に持っているのは〈鬼灯〉なんだろうが」
「〈華〉の方が、似合う……」
半ば放心気味に言葉を反復させた彼女を見て、子元は言葉を詰まらせる。
「……不快にさせたか?」
「いえ、嬉しいなと思いまして」
驚きの表情を浮かべていた薙瑠は、彼の問いかけにふわりと笑って応えた。
そして子元は、思わず目を逸らす羽目になる。
「……そういうところだぞ」
「え?」
「だから……お前に〈華〉が似合うのは、そういうところだと……言わせるな」
片手で口元を覆いながら話す彼の耳は仄かに紅潮しており、そこでようやく、彼女は似合うという言葉に込められていた想いに気付いたようだった。
酸漿の幻影が紅き光の粒となって舞い、彼女の手のひらにあったそれは、もとの小石の姿へと戻る。
僅かな時を越え、顔を背けながら彼女が搾り出した言葉は。
「あ……ありがとう、ごさいます」
ものすごく小声の、彼女らしい応えだった。
恥ずかしそうにする彼女が新鮮で、子元は彼女を横目で見やりながら小さく微笑う。
そしてふと、ある想いを口にした。
「本当は……お前と、桃園に行ってみたい気持ちはあったんだが」
そんな彼のつぶやきとも言える言葉に、薙瑠はゆっくりと顔を上げる。
彼は穏やかな顔で、芍薬を見つめていた。
「桃園とは……蜀国の劉備様たちが誓いを結んだという、涿郡にある桃園ですか?」
「ああ……まだ少し時期が早いかもしれないが、そろそろ桃花が咲く頃だろうと思ってな」
「桃園……」
薙瑠は手にしていた小石を置き、視線を地に落として僅かに逡巡する。
そしてふと、何かを思い当たったらしい。
すぐさま顔を上げた彼女は、真剣な瞳で彼を見据えた。
「子元様、桃園、行けると思います」
思わぬ言葉に、子元は驚くように彼女を見る。
一般的に考えれば、たった一日で涿郡までの距離を往復するのは不可能である。
しかし、真っ直ぐに自分を見る蒼き瞳は、嘘をついているようには見えなかった。
「何か考えがあるのか」
「はい。それがこれ……です」
そう言いながら彼女は、足元に置いていた刀を手にする。
たったそれだけの行動だったが、子元は彼女の言わんとしていることを理解した。
それは以前、子元が子桓とともに鄴に向かったときのこと。
薙瑠は同行せずに、あとを追うようにして鄴へと向かったのである。
それも、馬ではなく、桜の鬼の妖術を用いて。
「言いたいことは分かったが、その力は桜の鬼だけが対象なのではないのか?」
「子元様なら、一緒に行けると思います。
何故なら……子元様は、この刀を所持し、抜刀する資格をお持ちだからです」
「それはそうかもしれないが……」
話の内容は理解できるものの、幻術とは違い、一体どんな原理なのか全く予想もつかなかった。
腑に落ちていない子元の様子に、薙瑠はすくと立ち上がる。
「やってみましょう、子元様。
実行あるのみ、です」
「良いのか? 無理に行かずとも……」
「いえ、私が行きたいんです。子元様と、二人で」
見上げる彼女は穏やかに微笑っており、先の言葉が気を遣っての言葉ではないことは明らかだった。
それを察するや否や、子元は「そうか」と呟きながら立ち上がる。
「そういうことなら行くとしよう。
俺は如何すれば良い?」
「ありがとうございます。
子元様はこの刀に触れていただくだけで大丈夫です」
そう言いながら、薙瑠は彼の前に己の刀を差し出した。
目の前の漆黒の刀に、子元は静かに片手を添える。
この刀に触れるのは今回で三度目。
心なしか、以前よりも受け入れてもらえているような──そんな感覚があった。
もともと静かだった辺りが、より静寂に包まれた時。
彼女から紡がれるは、刀への呼びかけ。
「〈紅桜・記憶辿咲〉」
記憶を辿り咲き誇る花──そんな意味が込められた妖術は、二人の姿をゆらりと神隠す。
幾ばくかの、桜の花弁を残して。
しかし、その花弁もまた、地に落ちる前にふわりと姿を晦ましたのだった。




