其ノ玖 ── 後悔ナキ陽光ノ路 (9/15)
〈華〉咲 鬼。
能 視 者、知 其 存在。
其 者 映 眼〈華〉、類似 或 花。
【鬼に咲く〈華〉。
その存在が在ると分かったのは、視える者が居たが故。
その者が見た〈華〉の形は、現実に存在する、とある花にとても良く似ているものだった】
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金烏が昇り、辺りが明るくなり始めた頃。
薙瑠は子元の部屋へと向かっていた。
呉国との戦に備え、子元は最前線とも言える砦に向かうため、暁早く砦に向かうと聞いていた。
しかし、その出発日は明日だったはず。
何か予期せぬことがあって、予定を早めたのだろうか。
そんなことを考えながら、刀を片手に、子元の部屋の戸を軽く叩く。
「子元様。桜薙瑠、ただいま参りました」
「ああ、入れ」
「失礼いたします」
彼の応えを聞き、ゆっくりと戸を開ける。
外から差し込む光が僅かに逆光になっており、その眩しさに、薙瑠は一瞬だけ目を細めた。
背を向けて、華服の袖に腕を通している子元。
服の留具を留め終えて、彼は薙瑠の方を振り向く。
華服と髪が、ふわりと舞う。
その優雅さに目を奪われそうになるが、本当に彼女の目を奪ったのは、彼と目が合った瞬間だった。
「……子元様……その前髪……」
「ああ」
左眼を隠すように伸びていた彼の前髪は、綺麗に切られていた。
もともと彼は容姿端麗だったが、両目がはっきりと見えるようになったことで、恐ろしいほどに整ったように見える。
言葉を発さずに驚きの眼差しを向けている薙瑠に、子元は僅かに苦笑した。
「……変か?」
「い、いえ……! とても良く、お似合いです」
「ふ……そうか。
もともと周りの目を視界に入れたくなくて、伸ばしていただけだからな……今の俺には、必要ない」
苦笑から一転、安堵の笑みを浮かべる子元。
その表情ひとつひとつが、とても綺麗で、強かで、彼らしくて。
彼を見ているだけなのに、心臓の音がうるさくて、それに耐え切れず、薙瑠は思わず目を逸らす。
そんな自分の状況に半ば困惑しながら、薙瑠は話題を変えた。
「と、ところで……出発日を一日早めたのには、何か理由があるのですか?
緊急でしたら、もし差し支えなければご教示願えたらと」
「ん? 何を言っている、出発は変わらず明日だ」
「え……? では本日は一体……」
予想外の返答に、薙瑠は再び子元を見た。
二人の視線が絡まり合う。
刹那、子元の口から紡がれた言葉は。
「お前のためだ」
心地の良い穏やかな声音。
目を丸くする薙瑠に小さく顔を綻ばせながら、子元は言葉を続けていく。
「時間がほしいと言っていただろう?
その為の時間を、一日作った」
「え……そんな、一日もいただかなくても……!」
「俺がそうしたかった」
そういう子元の瞳は、揺らぐことのない真っ直ぐな視線で、薙瑠の姿を映し出す。
〈逍遙樹〉の下で、父・仲達と話したあの日、己が紡いだ「後悔していない」という言葉。
それこそが、薙瑠との関わり方に対する答えなのではないかと考えたのだった。
故に時間を創ったのだ。
この先──後悔していないと、そう言える路を歩んでいくために。
「お前が必要とする時間はどのくらいだ?」
「少しだけ、お話を聞いていただければ……と思ったので、そんなに長くいただかなくて大丈夫です。
できれば……陽が沈んだ、星空が見える時間帯だと嬉しいなと……」
「分かった」
子元は瞳を伏せて頷くと、再び真剣な瞳を彼女に向ける。
ある種の決意を含んだ、青白い瞳。
先ほどとは少し違う雰囲気を持つ彼に、薙瑠も自然と背筋を伸ばし、体の前で両手で刀を携えて彼の言葉を待った。
「俺は……現在の時間を大切にしたい。
例え消えてなくなる世界だとしても。
その選択をしたことで、この先、辛い思いをするとしても。
俺は……お前との時間を、大切にしたい」
そこまで言葉にしたところで、子元は一度目を伏せた。
そして、何処か苦しそうな表情を浮かべて、己の胸の辺りを片手で掴む。
「だが、この……俺の想いが、お前を苦しめる糧になることも……分かっている。
だからこれは、俺の我儘だ。
今日一日だけでいい。
今後はもう……お前を苦しめる糧となるようなことは、一切しないと誓う。
だから……今日というお前の時間を。
俺に……預けてくれないか」
最後の言葉を紡ぐときには、子元は揺らぎない瞳で薙瑠を見ていた。
目を丸くしながら僅かに驚きの表情を見せる彼女は、きっと困惑しているだろう。
そんな問いかけをする自分は、彼女に対して酷なことをしているという自覚はあった。
しかし、それでも。
己のために、そしてある意味では彼女のためにも、気持ちをはっきりさせておく必要があると、そう思っていた。
一方で、子元の言葉を聞いた薙瑠は。
驚き、困惑、嬉しさ──様々な感情が混ざり合う中で、一番強く感じていたのは。
──ああ、なんて、格好いいんだろう。
意外にも、彼に対する好感だった。
何故ならば、その想いも、想いの強さも、真っ直ぐな瞳も。
必ずと言っていいほどに。
自分の心を──揺さぶってくるものだったから。
これまで幾度となく、彼の想いの本音を聞くことがあったが。
その度に、彼の抱える、そして自分の背負う役割が頭をよぎり、薙瑠はその想いから目を背けていた。
しかし、今までと違うのは、彼女がこれまで目を背けてきたことを知った上で、想いを伝えているということ。
だからだろうか、彼に対する好感を、より強く感じられているのは。
そして彼女もまた、あることを心に決めていた。
共に過ごす時間を創る。
その約束の時間には、彼を頼り、彼に縋る勇気を持つ──
その第一歩を踏み出す時が、まさに今、この瞬間なのではないだろうか。
「もちろんです」
僅かな静寂の時を超え、薙瑠は答えを待つ彼を、彼の青白い瞳を見つめ返しながら、小さく微笑った。
そんな彼女の表情には、これまでとは違って、動揺や困惑の色は見えなかった。
「もともと、時間がほしいと言ったのは私です。
それに……子元様との時間を大切にしたいのは、私も同じですから」
悲哀のない彼女の微笑みを見るのはいつぶりだろうか。
久しく見ていなかったその表情を直視できず、子元は照れくさそうに目を逸らす他なかった。
「……恩に着る」
小声で呟いたその言葉はしっかりと彼女にも届いていたようで、薙瑠も「こちらこそです」と応えた。
髪を切ったことにより、視界が広がった世界で彼女を見るのは、しばらく慣れそうにない──
そんなことを思いながらも、子元は彼女に視線を戻すと、そっと、自らの手を差し伸べた。
「……行こう」
時たま視線が逸れるものの、子元の双眸には、一寸光陰──僅かな時を、決して無駄にしないという、確かな決意が現れていた。
それを敏感に感じ取っていた薙瑠は、心からの咲を浮かべながら。
「よろしくお願いします」
目の前に差し出された彼の手に、ゆっくりと己の手を添えた。
子元はそんな彼女の手を包み込むように柔らかく握ると、手を引いて、ゆったりとした足取りで部屋の外に出ていく。
彼に連れられて、薙瑠も部屋を後にする。
髪や華服を靡かせながら回廊を歩く二人の後ろ姿は、儚いながらも、強かな雰囲気を纏っていた。




