其ノ漆 ── 望ミシ路ニ花ハ咲ク (7/15)
時間之結末 不変 而 其 路 可変 也。
多数之意思、影響 路之変化。
【時間の行く末は変わらずとも、
結末までの路は変化する。
数多の意思が折り重なるが故に、路は都度その姿を変えてゆく。】
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数日の刻が過ぎ。
ある程度の準備が完了しつつある中で、子元は桜舞う〈逍遙樹〉の下、幹に背を預けながら腰を降ろしていた。
その手には、父・仲達に渡された『幻華譚』が在る。
薄茶の表紙を優しく撫でるように触れながらも、彼は中身を覗こうとはしなかった。
呉国との一戦が終わってから、と考えているのもあるだろうが、それ以前に。
「俺は……いつ、望んでいたんだろうな……」
誰に尋ねるでもなく、子元は己の心境をぽつりと呟く。
──子元様が、その道に立っているのは……あなたが望んだからこそです。
そんな彼女の言葉がずっと引っかかっており、それが明確になるまでは、これを読む資格はないのではないかと、そう思っていたのだった。
しかし、彼を悩ませているのは、それだけではない。
彼女──薙瑠との距離感を、如何保つべきなのか。
それは数日前、回廊で彼女に会ったとき。
陰りのある表情を浮かべる彼女へと、自然と手が伸びていた。
守りたい、と。
自分の手で、守ってやりたい、と。
そんな想いが募って、軽く彼女を抱きしめたのだった。
その時のことを思い出しながら、子元は己の手のひらに視線を落とす。
抱き寄せたときの、彼女の僅かな温もりが忘れられなくて、それを逃すまいと、包み込むように優しく手を握る。
誰でもいいと、そんな言葉は彼の本音ではなかった。
本当に言いたかったのは。
「……出来る限り、俺の……側にいて欲しい」
あの時言いかけたものの、紡ぐことを躊躇われた本心を、桜の木の下でぽつりと紡ぐ。
躊躇した理由、それは鄴の平原で時間を過ごしたときのこと。
その時も、子元は「出来るだけ側にいて欲しい」と、そう伝えていた。
しかし、彼女の瞳が動揺した瞬間を見逃さなかったが故に、また同じような事を言っても困らせるだけだと、そう考えていた。
ざわり、と桜が枝を揺らす。
考えても答えが出ないことばかりが頭の中を駆け巡り、子元は何処か疲れたように溜息を吐いた。
どうやら、それを聞いていた人物が居たらしい。
「……何だその溜め息は」
急に声をかけられて、子元はびくりと肩を揺らす。
半ば慌て気味に顔を上げると、いつの間に居たのか、目の前では父・仲達が呆れるような顔で子元を見下ろしていた。
「……何時から居たんですか」
「他人の気配に気付かないほど思い詰めてるのか?」
「いえ……思い詰めているというか……」
子元は目を逸らしながら、力のない声で応える。
彼が父と会うのは、あの日──『幻華譚』を渡された日以来。
いやに素直だった父の態度を思い出してしまい、照れくさいことこの上なく。
そんな子元の様子を知ってか知らずか、仲達は何も言わずに、子元の隣に腰を下ろした。
「余計なことに思考を使う余裕があるほど、準備は順調のようだな」
「否定はしません……が、少しは息抜きも必要かと」
「悩むことがお前の息抜きなのか?」
「……細かいことは如何だっていいでしょう」
相変わらず刺々しい物言いではあるものの、その声音は随分と穏やかで、子元も以前に比べて身構えることなく受け答えをする。
しかし、父が近くにいる、という状況が久しくなかったせいで如何にも落ち着かないようだった。
そんな子元を、横目で見遣る仲達。
そしてふと、彼の手元にあるものが目に入る。
漆黒の髪から覗く紅き瞳に映るのは、子元が手にしている『幻華譚』。
彼はそれを見ながら忌々しそうに眉根を寄せたあと、澄んだ空を背景に、気持ち良さそうに枝を広げている桜を見上げた。
「……お前は本当に望んだのか」
思いもよらない仲達の言葉に、子元は目を丸くして父を見る。
険しい顔をしているのはいつものことなのだが、桜を見上げるその表情には、怒りの感情が見て取れた。
怒りの矛先は──自分か、はたまた別の何かか。
その答えが分からないだけでなく。
望んだか否か。
それは子元自身、己に最も聞きたい問いかけだった。
「……分かりません」
「分からない……だと?」
現状を素直に伝えると、仲達は怪訝な顔をした。
分からない、という答えはどうやら予想外のものだったらしい。
しばらく子元を見つめて逡巡したあと、仲達は再び口を開く。
「お前……覚えていないのか?」
「覚えていない、とは……?」
「お前が自分で、助けたいと望んだことを……だ」
──助けたいと望んだこと。
その言葉はまるで、自分の記憶にない出来事を、彼は、父は知っていると、そう言っているようにも聞こえた。
仲達の真剣な紅き瞳は、真っ直ぐと子元の姿を映し、捉えて離さない。
「……助けたいと……望んだ……」
仲達の瞳を見返しながら、子元は言葉を反復させる。
答えがあるはずのその先は、黒い靄に覆われていて見えないまま。
でも、もう少しで、その靄が晴れる気がする。
そんな根拠のない確信を現実にするために、子元は探るように父に問う。
「父上は……思い当たる出来事を、ご存知なんですね?」
「『幻華譚』を読んで確信した。
……と言うより……納得した」
「納得、ですか?」
「お前が寝ているときに呟いていた言葉……その言葉の本当の意味を、『幻華譚』によって気付かされた」
視線を地に伏せる父から紡がれる言葉は、子元にとって記憶を辿る手がかりとなるもので。
「それは……何時の事ですか」
それさえ聞けば思い出せる自信があった。
確かに、自分は、間違いなく。
その瞬間を知っているはずだから。
真っ直ぐな視線を向けてくる子元を、仲達は静かに見返したあと、その赤い瞳で妖艶に咲く桜を再び見上げた。
「この樹……〈逍遙樹〉があった村から、洛陽への帰路についたとき……だ」
ざわざわと、風に揺れる桜の樹。
頭上から舞い落ちる桜の雨音に混ざりながら、子元の頭の中で鮮明に蘇る〝聲〟。
『お主は──あの少女を助けたい、か?』
お淑やかで、かつ威厳を感じさせる女性の声。
それに、応えた。
洛陽への帰路、揺れる馬上で、微睡む意識の中、助けたい、力になりたいと、確かに応えていた。
その声に応えることこそが──望んだ証。
子元はふと、頭上で花咲く桜を見上げる。
本人が覚えていない記憶までをも遡るという、〈逍遙樹〉。
今再び、その力に助けられたような、そんな気がしていた。
「……思い出したのか」
静かな問いかけに視線を降ろせば、穏やかに視線を向けている父と目が合う。
子元は視線を逸らすことなく「はい」と頷いた。
それは、迷いなき真っ直ぐな応え。
桜雨の中、さらさらと靡く灰色の髪と、その下から覗く青白い瞳。
揺るぎない意思を感じさせる子元の視線を受けながら、仲達は静かに口を開いた。
「お前自身が望んだ。それが答えか」
「はい。私は……他の誰でもない、私自身の意思で、現在に立っています」
「……」
仲達は何も言わずに視線を伏せる。
その顔には、息子の選択を尊重したい一方で、望んでいたという事実に納得しきれていないような、そんな複雑な感情が滲んでいるように見えた。
だからこそ子元は、言葉にするべきだと思ったのだろう。
父に心配をかけないために、そして──自分の迷いを、完全に断ち切るために。
「きっかけは……幼い自分の、些細な感情だったかもしれません。
ですが今も、その意思は変わりません。
そして……望んだことに対しても、一抹の後悔もありません」
強かに紡がれた子元の言葉に、仲達は僅かに目を丸くした。
その視線は地を見つめたままで、子元を捉えることはなかったが。
枝の揺れる音と共に、数多の花弁舞う桜樹の下で。
「……そうか」
呟くように応える仲達は、小さく咲っていた。
子元の「後悔していない」という言葉が、彼に咲をもたらしたらしい。
そんな父の、初めて見せる表情を、子元は見逃さなかった。
だからこそ、何処か可笑しそうに笑いながら。
「父上もそんな顔をなさるんですね」
子元は仕返しとも言わんばかりに、この前自分が言われた言葉をそのまま言い返した。
そのことに気付いた仲達の目尻がぴくりと動く。
先程の咲が嘘だったかの如く、今の彼は何処か不機嫌そうに眉根を寄せていた。
「悪いか」
「いいえ」
「……お前、本当によく笑うようになったな」
「……はい?」
形勢逆転、子元が優勢だったのも束の間、すぐに仲達が話題の主導権を握る。
思いもよらぬ父の返しに、子元は呆けたような顔をした。
そんな彼を横目に、仲達は彼の目──否、左目を隠すように伸びている前髪を見つめながら言う。
「その髪」
「髪……が何ですか」
「切ったら如何だ。
笑わないお前は、もう見る影もないようだからな……」
再び思いもよらぬことを言われ、子元は目を丸くした。
そしてふと、自分の伸びた前髪をそっと触れる。
〈咲き損ない〉になってから、周りの反応をできるだけ視界に入れないようにするために、伸ばしていた髪。
それを「切る」という、考えたこともなかった選択肢。
現在は過去の続きであり、過去に綴られた日常が変わることは決してない。
しかし、過去に囚われたままである必要もない。
何より現在はもう、〈咲き損ない〉の自分ではないのだから──
「仲達様、子元様」
突如名を呼ばれ、逡巡していた子元は我に返る。
二人が声のした方を見遣れば、そこには薙瑠の姿があった。
何処か急ぐようにぱたぱたと駆けて来る彼女の左腕には、一羽の烏が留まっている。
薙瑠は二人の前方で足を止めると、目線を合わせるように片膝をついた。
「お邪魔して申し訳ございません。
お時間よろしいでしょうか」
「……どうした」
仲達が彼女へ発言を促せば、薙瑠は「ありがとうございます」と軽く拱手をしてから、言葉を続けていく。
「蜀国の〈六華將〉・和菊狼莎様より、報せを受けました」
「そのカラスが報せか」
「仰る通りです。単刀直入に申しますが、休戦は受け入れると。
しかしそれだけではなく……というより、恐らくここからが本題です」
「本題……だと?」
薙瑠から紡がれる言葉に、仲達は怪訝な顔をする。
それは隣で聞いていた子元も同じだった。
彼女は真っ直ぐな瞳を向けながら、静かに頷く。
「はい。本題は、呉国の鬼──孫向香殿に関してです」
その名を聞いた瞬間、子元は目を丸くした一方で、仲達の顔つきは険しくなった。
僅かに逡巡するように瞳を伏せたあと、仲達はその場に立ち上がる。
「子元、今すぐ公閭と春華を呼んで軍議室に来てくれ」
「母上も……ですか?」
「ああ。久しぶりに……力を借りる時が来た」
そう言いながら、すたすたとその場を去っていく仲達。
笑みこそ浮かんでないものの、前方を見据える彼の紅き瞳はその人物の登場を愉しむかのように、燃え盛っているようだった。
そんな父の後ろ姿を見ながら、子元は立ち上がりながら薙瑠に指示を出す。
「お前は先に父上と軍議室に向かってくれ。
報せの詳細は先に伝えておいてくれても構わない」
「承知いたしました」
薙瑠は片膝をついた状態のまま再び拱手をすると、烏に「少しだけ待っててね」と声をかけてから空へと放った。
そしてすぐに、仲達の後を追って駆け足で去っていく。
動作にあわせて揺れる彼女の髪と華服。
その姿が徐々に離れていく距離感が、子元にとってはとても遠いもののように感じられた。
──が、今はそんなことを考えてる場合ではない。
思考を止めるように深呼吸をしてから、枝を揺らす〈逍遙樹〉を背に、子元はその場を後にした。




