其ノ肆 ── 紡ガレザル桜ノ言ノ葉 (4/15)
神流達と別れたあと、薙瑠は子元の部屋へと向かう回廊を歩いていた。
当然、その顔には陰りを含んだ表情が浮かんでいる。
もちろん、あまり明るい話ではなかったから、というのもあるが、それ以前に。
──云えなかった。
本当に伝えるべきことを云えない、臆病な自分に嫌気が差していた。
今頃は蜀国にいるであろう夏侯仲権。
彼には、狼莎への伝言を託せたのに。
それと同じことを、二人……否、三人に伝えるだけなのに。
伝えるべき相手に、自分の口から云うことが、こんなにも苦しくて、辛いものだとは思わなかった。
そして何よりも。
彼らは優しくて、そして賢い。
故に明言を避け、遠巻きに伝えるあんな言い方でも、きっと言いたいことは伝わっているに違いない。
それに甘えてしまっている自分に、心底嫌気が差していた。
このことは、本来ならば〈六華將〉だけでなく。
彼にも、自分の口から、はっきりと云うべきことなのに──
「……薙瑠?」
急に名を呼ばれ、薙瑠は驚いたように顔を上げる。
その目線の先には、どこか心配そうな視線を投げる子元の姿があった。
「大丈夫か……?」
「あ……はい。問題ありません。
お気遣いいただき、ありがとうございます」
薙瑠が小さく微笑いながら、丁寧に拱手をして、軽く頭を下げたとき。
子元が手にしているあるものに目が留まる。
薄茶の紙を幾重にも纏めた、一冊の書。
薙瑠も実際に目にするのは初めてだが、それが何なのかは既に理解していた。
拱手していた手を降ろすと、彼女は未だ心配そうな眼差しを向けている子元を見て微笑む。
「お受け取りになられたのですね」
「……これのことか?」
薙瑠の問いかけに、子元は手にしていた書を掲げながら、僅かに首を傾げた。
そんな彼に、薙瑠は「はい」と応えを返す。
「仲達様は既にお読みになった……ということでしょうか」
「そうみたいだ。次は俺が読むべきだと、そう言っていた」
「……そうでしたか」
何時もと変わらない笑みを浮かべている彼女ではあったが、その声音はどこか元気がなく、子元はその僅かな変化を敏感に感じ取っていたようだった。
「……薙瑠」
心配そうに名を呼ぶ彼の声は、いつも通りの、優しく安心感のあるもので。
その声に、存在に、甘えて、縋ってしまうことができたのなら、どんなに気が楽だっただろう──
「子元様」
そんな甘い考えを振り切るように、薙瑠は彼の気を逸らそうと話題を変える。
きっとそれすらも、彼には見抜かれていると、そう分かっていながらも、薙瑠が目を逸らすことはなかった。
「私はその書の存在は知ってはいたものの、内容までは知り得ていません。
ですので、全てを読み終えた暁には、感想をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「俺の感想など聞かなくても……お前は全てを知っているのだろう?」
「『幻華譚』を通して、子元様が何を知り、何を考え、何を思ったのか……あなたが知った時間を、聞いてみたいんです。
そうしたら、また違った時間の姿を、知ることができるかもしれないので……」
違った時間の姿。
自分の口からそんな言葉が紡がれたことに、薙瑠は僅かに驚きを覚える。
そして同時に。
──そんなもの、あるはずがない。
心のうちで、僅かな希望とも言えるその言葉を、即座に否定した。
「分かった」
子元の一言に、薙瑠ははっと我に返る。
己のが瞳に映る彼は、柔らかく微笑んでいた。
「読み終えたら、一番最初にお前に報告すると、そう約束しよう」
「……ありがとうございます、子元様。
それを読み切るのは、時間がかかるかと思いますので……呉国との決着がついた後に読み始めることを、おすすめします」
「もとよりそのつもりだ、安心しろ」
彼のその笑顔は、何よりの救いであり、同時に、胸を締め付ける苦しみを生むものだった。
誰にも言わず。誰にも頼らず。
我慢して、堪えて、耐え忍んで。
自分の逃げ道を、少しずつ塞いでいく──
そんな路を進むしかないと分かったからこそ、彼の優しさに、縋りたくて。
甘えてしまいたくて。
しかしその行動は、更なる苦しみを生むことになる。
そう理解しているが故に、彼の笑顔を見ることすら辛かった。
──そんな感情が、無意識に顔に出てしまっていたのだろう。
「……お前の、そんな表情は見たくない」
精一杯の微笑みで、応えていたつもりだったが。
彼の不安そうな顔を見れば、今の自分が微笑えていないことに気付くのは容易かった。
──私も、あなたにそんな表情は……させたくない。
心の内でそう呟きながらも、それが言の葉として口から紡がれることはなかった。
でも、今ならまだ、彼に縋ってしまったとしても──自分を、赦せる。
そんな気がした。
だからこそ、逃げ道を、完全に塞いでしまう前に。
「もうひとつだけ……わがままを言ってもよろしいでしょうか」
「ああ、構わないぞ」
即座に応えを返した子元に、薙瑠は今度こそ、ちゃんと微笑みながら言葉を紡いだ。
「呉国と戦う準備が、全て整ってからで構いません。
少しだけ……私にお時間をいただきたいんです」
「……分かった。必ず時間を作ろう」
なんのための時間なのか。
そんな疑問を抱くであろう彼女の要望に、子元は何も言及することなく頷いた。
彼の小さな気遣いですら、今の彼女には擽ったいもので、彼女の表情には嬉しそうな微笑みが溢れる。
「ありがとうございます。
準備中、私にもできることがあるようならば、何なりとお申し付けください」
「ああ、お前にも少し頼みたい事があるからな、また改めて声をかける。
だが、それまでは、出来る限り俺の……」
不自然に途切れた子元の言葉に、薙瑠は僅かに首を傾げる。
目を逸らしながら、先の言葉を言おうかどうか迷っているようだったが。
「……いや、何でもない。
俺が声をかけるまでは、自由に過ごしていてくれ」
「承知いたしました」
軽く頭を下げながら拱手したとき、ふと彼が近付いてくる気配がした。
彼のつま先が視界に入り、ゆっくりと顔を上げれば。
真剣な青白い瞳と視線が交錯する。
刹那のこと。
後頭部に手を添えられたかと思えば、彼の胸元へと引き寄せられていた。
「……誰でもいい」
頭上からそんな言葉が降ってきて、薙瑠は静かに、彼の言葉に耳を傾ける。
「俺以外に、言葉にして伝えられる存在がいるのなら……そいつを頼ってほしい。
できることなら……あまり抱え込まないでくれ」
すぐ近くで聞こえる、低くて優しい、聴き心地の良い声。
密着しているからこそ感じられる、強かで温もりのある彼の存在。
その声と温もりを忘れまいと、自身の記憶に刻もうと、薙瑠は静かに瞳を閉じた。
「……もし……もし私が、あなたを選んだら……」
心の奥には、その先の言葉を紡ぐことを躊躇う感情が燻っていたものの、それすらかき消してしまうほどの安心感があって。
「私があなたに縋ったら……あなたは、私に手を差し伸べてくれますか……?」
本当は言いたくなかった、甘えとも云えるその言葉を、迷い無く紡いでしまったことに、少しだけ後悔した。
それでも、後悔が少しだけで済んだのは。
「当然だ」
強かに紡がれた声のお陰だった。
たった一言だが、その言葉は彼女に、より一層の安心感と勇気を与えるもので、薙瑠は彼の背中に腕を回そうとする。
しかしその手は宙でぴたりと動きを止め、彼の華服を掴もうとしていたその手は、ゆっくりと下ろされた。
──まだ、彼に縋る勇気は……持てていない。
そう心の内で呟きながら、薙瑠は行きどころを失くした手で、自分の華服をぎゅっと握りしめた。
すると、後頭部に添えられていた彼の手が離れ、同時に彼の温もりも遠ざかる。
どこか寂しさを覚えながらも、彼の顔を見上げれば、彼は寂しげな色を滲ませた微笑みを浮かべていた。
「……無理はしなくていい。
お前が安心できる場所を……選んでくれ」
そんな言葉を言い残して、子元は彼女の横を通り過ぎて行く。
薙瑠は彼の背中を振り返ることはしなかった。
彼を追いかけたところで、今の自分には、引き止めるほどの言葉を言う勇気がない。
縋らせてほしい。
頼らせてほしい。
側にいてほしい──
その想いがあっても、臆病であるが故に、きっと言葉にはできない。
だからこそ、せめて。
彼と交した、約束の時間。
それ迄には、縋る勇気を持てるようにしたい──
その、約束の時間が。
きっと、彼の前で素直な自分でいれる、最後の時間になると思うから。
そんな彼女の青い瞳は、強かな決意を含み、煌々とした輝きを放っていた。
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護 蒼燕 之 御霊 桜 之 鬼。
而、其者 神之 代行 也。
非 神、又 借 神之力、存在 神相応 也。
其 故、不 能 留 長期 人間界。
【蒼燕の御霊を護るという、桜の鬼。
しかし、桜の鬼は神の代行的存在。
神でなくとも、神から力を借りる、神相応の存在だ。
それ故に、人間の世に長く留まることはできなかった。】




