其ノ参 ── 歪ナ宝石、望マザル路 (3/15)
数多 御霊 消滅。
人間之世界 尚 多 也。
護 蒼燕之 御霊 而、戻 真之 時間。
其 役割 桜之 鬼 也。
【消えゆく御霊の方が圧倒的に多いのが常。
人間の世となれば、尚更のこと。
故に、蒼燕の御霊を消滅させないよう護り、在るべき時間に戻すこと。
それが、桜の鬼が背負いし役割だった。】
──────────
「なんだか久々ね、戦なんて」
「休戦中のような状態だったしな」
澄み渡る青き空に、映えるは妖しく輝く桜樹。
その下で言の葉を交わしているのは、白銀の鷺と、漆黒の烏だった。
「氷牙の正確な位置も再確認できたし、救出自体はそんなに手間どんないと思うが、問題は呉国がどう出るか……だな」
「でもどんな出方であれ、いつまで経っても慣れないものね。
人間相手に戦うってのは……」
「とか言いながらいっつも容赦ねーのがあんたのいいところだよな」
「貶してるの?」
「褒めてんだよ」
のんびりと会話する神流と鴉のもとに、青瑪瑙のような髪を靡かせながら、小走りでやって来たのは。
「お待たせしてすみません、神流様、鴉様」
「全然待ってないわよ、薙瑠ちゃん」
「俺たちも丁度来たところだしな」
駆け寄る薙瑠に二人が優しく微笑むと、彼女もつられるように笑みを浮かべる。
「私たちに聞きたいことがあるって言ってたけど、それって私たち二人だけで大丈夫なの?」
「構いません。また姫様のお話を聞かせていただけたら……と思っただけなので」
「そういうことか、だったら神流が専門だな」
「そうね、任せなさい」
自分の胸元をトンと叩いて誇らしげな顔をする神流を見て、薙瑠はくすりと小さく笑う。
彼女の顔には、確かに笑みが浮かんでいるのだが。
その笑みには、どこか悲しそうな、苦しそうな、そんな感情が見え隠れしていることを、神流は敏感に感じ取っていた。
そしてそれは、鴉も同じだった。
しかし二人はそのことには一切触れずに──否、敢えて触れないようにして、彼女に本題を促す。
「姫様のことなら何でも話すわよ。何が聞きたい?」
「姫様は……嘘をつかれるお方なのですか?」
予想だにしていない質問だったのか、神流も鴉も、僅かに驚いたような表情になる。
「嘘……か。それは難しい質問ね。
嘘をつくのは良くないことかもしれないけれど、時には必要な嘘もあると思うから。
だから姫様も当然、嘘をついたことがない、なんてことはないと思うわ」
「けど、なんでそんな事が気になったんだ?」
鴉の最もな質問に、薙瑠は僅かに視線を伏せて口を開くも。
「いえ……少しだけ、気になることがあったので」
彼女の口から紡がれたのは、そんな曖昧な答えだった。
「気になること……って?」
「……蒼燕、のことです」
わずかな間を挟んで紡がれたその名前をきっかけに、神流も鴉も、同時に春華から聞いた話を思い出す。
「蒼燕と言えば、私たちも気になることがあるのよね」
「子元が幼い頃に会ったっていう、蒼燕という名前の少女のことだろ?」
「そう」
二人が、蒼燕の存在を気にしていた理由。
蒼燕の存在を知っているのは本来、薙瑠を含む〈六華將〉のみで。
故にその存在自体を、彼ら以外の、ましてや普通の人間が知れるはずがない。
さらに言えば、それはモノを依代として護られている存在のはずだったから。
「偶然……じゃないわよね」
「仮にそこに〝視える〟人間がいたとしても、名前まで知り得る方法はないはずだ。
御霊の声が聞こえる場合もあるだろうが、蒼燕には声を伝えられるほどの力は残ってないだろうしな」
「だから考えられるとすれば……御霊の依代がその少女に変わってしまったとしか……依代になれば、少なからず記憶が引き継がれるって聞くし……そんなこと、あってほしくないけど」
「けどおかしくないか? 薙瑠を桜の鬼として迎えたとき、姫様は蒼燕の依代は変わらず在るって仰ってただろ。
その少女が依代になってるなら、そのときに姫様はそう仰る──……」
不自然に途切れた鴉の言葉。
何かに気付いたのか、鴉は「まさか」と呟きながら、神流とのやりとりを静かに聞いていた薙瑠を見遣る。
そんな鴉の紅き瞳に映り込んだのは、哀しそうに微笑う薙瑠の姿だった。
そんな彼女を見て、神流も鴉の考えていること、そして薙瑠が言わんとしていることを理解したようで。
白銀の髪の間から覗く彼女の漆黒の双眸は、何処か不安そうに薙瑠を映す。
「姫様は嘘をつくのかっていう問いかけ……あなたは蒼燕の依代が、その少女に変わっているという確信を持っているということなの?」
神流の問いかけに、薙瑠は小さく微笑んだだけだった。
その視線はすぐに地へと落とされ、俯き気味の微笑みには僅かに陰りが浮かぶ。
「蒼燕の御霊は、姫様が仰っていた場所……もともと依代だった場所には、もう在りません。
それはお二人が考えるように、視えていた少女が、蒼燕の依代になってしまったから」
絞り出すような、しかしながら芯のある声音で、ゆっくりと紡がれていく言の葉。
「その憶測に、確信を持てるのは」
ざわりと、桜の樹が揺れる。
僅かな静寂の時を越え、再び舞った言の葉は。
「私こそが、蒼燕の依代となってしまった少女だった、からです」
「……え」
「……は?」
二人を絶句させるものだった。
それは、彼女たちが慕い仕える木花咲耶の言葉が、嘘だと認めざるを得ない事実であること以上に。
依代はモノであるべき──その事実が崩れ去ったことのほうが、問題だった。
「……ちょっと待って、どういうことよ」
「言葉通りの意味です。この時間を創り出した元凶でもある蒼燕は、今や私の中に在るんです」
「間違いないのか、それは」
「経験した本人しか知り得ない、蒼燕を宿した瞬間の記憶が……あるので。
それにこの姿。私の人間の姿は、蒼燕の影響を強く受けているんです」
薙瑠は視線を地に落としたまま、力のない声で、己の知る限りのことを伝えていく。
「私は幼い頃の……人間だった頃の、自分の本当の名前を知らない。
名前で呼ばれた記憶がないから、名前なんてあったのかどうかすら分からない。
けれど、ある時……〝蒼燕〟という名前を知った。
名も無き私が、唯一知れた、自分の名前に値するもの、だったんです。
だから幼い頃、私は〝蒼燕〟が自分の名前であるかのように……思い込んだ」
僅かな静寂。
地を映す彼女の視界に入り込むは、妖しい輝きを放ちながら舞う、桜の花弁。
ふと、何気なく手を出せば。
はらはらと舞う桜の欠片は、自然と手の上にも落ちてくる。
己の手の上で、仄かに光る桜の花弁。
その存在が、とても残酷なものに見えて。
彼女は手の内の花弁を、まるで捨てるかの如く、手を翻して地に落とす。
しかし、地に落つ前に、桜の欠片は宙にて消える。
「でも、違った。色んなことを把握した今だからこそ、気付けたんです。
その名は、私を依代とする別の存在の名前であり、この姿が……その存在の影響を受けているということに」
薙瑠の話を、神流と鴉は黙って聞いていた。
──否。
言葉が見つからなかったのだろう。
驚きと困惑が混ざっているかのような、そんな眼差しで、二人は彼女を見つめていた。
「蒼燕が内に在るが故に、私はこの髪色と瞳を授かった。
青い右目は蒼燕、桃色の左目は、姫様から授かった、桜の鬼の証。
そして、人間の姿は蒼燕の姿、鬼の姿は桜の鬼としての姿。
どちらも〝与えられた姿〟であって……〝本当の私の姿〟なんて、どこにもない。
人間として生まれた時に与えられたはずの……名前もない。
そんな……曖昧で、偽りだらけの存在なんです、私は」
そう言う彼女は、自嘲するような笑みを浮かべて、左眼を隠すために伸ばしている長い前髪を、くしゃりと掴む。
その行為がまるで、自分という存在を傷め付けているかのようにも見えて。
神流は思わず、制止するように彼女の腕を掴んだ。
「違う、あなたは偽りだらけの存在なんかじゃ……」
「それで、いいんです」
神流の言葉を遮るように、凛と響く薙瑠の聲。
彼女の気持ちを知ってか知らずか、桜の樹がざわりと揺れる。
薙瑠は神流の手を振り払うようなことはしなかったが、代わりに俯き気味の顔を上げて。
何処か辛そうに揺れる瞳で、真っ直ぐと神流の姿を捉えていた。
「理由が何であれ、私という存在が必要とされた。
私でも、役に立てることがある。
それが嬉しかったから、私は姫様に従うと、ついていくと決めたんです。
ただ……その路が、私も、姫様も、望んではいない形だっただけ……」
神流も、そして鴉も、彼女の言葉を聞いていることしかできなかった。
薙瑠は己の左腕を掴んでいる神流の手を、右手でそっと、離すように促す。
「姫様が、私が依代となっていることに気付かないはずがありません。
恐らく依代が私になった瞬間から、その事実に気付いていたはずです。
にも関わらず、〈六華將〉には蒼燕が私の中に在るとは伝えなかった……いえ、云えなかった、のだと思います」
微風に吹かれ、桜が揺れる音だけが響く、静寂の時。
依代が、モノからヒトへと変わってしまったこと。
それを知った瞬間から、彼女──木花咲耶はきっと、決断していたはずだ。
例え望んでいた形ではなくとも、それを利用することを選んだのだ。
でも、彼女は優しかった。
優しいが故に──云えなかった。
「〈逍遙樹〉の結界と蒼燕の依代を、神霊を通じて見守っていた狼莎様は、私が依代になった頃から、その事実にお気づきだったと思います。
そして皆さまも現在、理解していただけた……のではないでしょうか」
さざめく桜の音にかき消されてしまいそうなくらい、か細い声で話す薙瑠。
神流も、そして鴉も、不安そうな、そしてどこか心配そうな、そんな感情が入り混じる瞳で、彼女の姿を映し出していた。
そんな二人の視線から、逃れたいと思ったようで。
「そんな表情をさせてしまい、申し訳ございません。
お時間をいただき……ありがとうございました」
微笑んで丁寧に一礼したあと、薙瑠は二人の返答も待たずに、踵を返してその場を去っていく。
そんな彼女の後ろ姿は、動きに合わせて揺れる髪や華服の綺麗な青さが相まって、とても哀しげだった。
静寂の時間の中、ざわりと揺れる桜の樹。
彼女の後ろ姿を背景に、舞い散る数多の花弁。
その一片一片には、優しさ、温かさ、安心感、そして悲しみ、困惑、不安、心配。
それぞれの感情が幾重にも重なりながら、舞っているようだった。
そんな感情の桜吹雪と共に、二人は暫くの間、薙瑠の小さくなる姿を、静かに瞳に映していた。
少しの時間が経ち、桜の木の上からバサバサと羽ばたきの音が響く。
一羽の烏──鴉斗が〈逍遙樹〉から飛び立つのを見上げながら、鴉こと紗鴉那は、ぽつりと呟く。
「……なあ、神流」
「……何よ」
「蒼燕があいつの中にいるなら……どうやって〝解放〟するんだよ」
それは神流も気にしていた、最も聞きたくて、最も聞きたくない、矛盾する思いを含んだ問いかけだった。
「……それは」
「心当たりはあるが……あたしはそんなこと信じねーからな」
どこか腹立たしそうな顔をしながら、紗鴉那も足早にその場から去ってゆく。
信じない。信じたくない。
それは神流も同じ想いだった。
二人が去っても、変わらず花舞う桜の樹──〈逍遙樹〉を、神流は静かに見上げる。
分御霊と雖も、この樹は姫様の依代の一種。
その存在に縋るように。
神流は樹に歩み寄り、その幹に手を添えた。
「……姫様」
届いているのかどうかは分からない。
分からなくても。
「何か……何か他に、方法はないのですか……?」
そう願わずにはいられなかった。
しかし、薙瑠が口にした「望まない形だった」という言葉。
それが全ての答えを言い表しているものであることを実感して、神流は幹に添えた手を、静かに握りしめたのだった。




