其ノ弐 ── 心ニ落ツル綻ビノ陰 (2/15)
鄴から帰還した子元は、軍の編成や配置に関する指揮に加わっており、現在は父・仲達の居る部屋を訪れていた。
「呉国との戦いにおける、人員配置についてですが……」
これまでに出た意見を端的にまとめ、且つ分かりやすく説明する。
仲達も静かにそれを聞き、時には的確な意見を出して、二人で話を進めていく。
「……では、この形で準備を進めて参ります」
「ああ、任せた」
「承知いたしました」
そんな親子の様子を、春華は微笑ましく眺めていた。
「子元、格好よくなったわね」
「……格好いい、ですか?」
「そうよ。やるべきことをちゃんとやる。それができる人は格好いいわ」
「それは……当然のことでは……」
「当然だと思えるのなら、もっと格好いいわ。
当たり前のことを当たり前のようにやるって、実はとても難しいことなのよ」
「例えば……与えられた役割を全うする。
それも、当然のことだろう」
春華の言葉に続いて、意外にも仲達が口を挟んだ。
子元が半ば驚きつつ父の方を見れば、真剣な紅い瞳と目が合った。
「与えられた役割を全うする。任された事をこなす。できて当然のことだ。
だが……何故その当たり前のことを、当たり前のようにやることが難しいのか。
その理由がわかるか?」
「……理由、ですか」
思いもよらぬことを聞かれ、子元は半ば考え込む素振りを見せるも、その答えがすぐに浮かぶことはなかった。
そんな彼の様子をいち早く察し、仲達はゆっくりと話を続けていく。
「当たり前、当然、即ち一般的であること。
役割を全うする、任された事をこなす、ということ自体は、誰だってそうするであろう一般的な行動だ。
だが、その与えられた役割の中身が、内容が、一般的ではなかったら。
あるいは、一般的であっても……その者にとっては、成し難い事であったのならば。
当然のことのようにやる事は難しくなる」
いつになく真剣で、彼にしては珍しく長く話すその様子を、子元は不思議そうな顔をした。
そしてふと、机上にある一冊の書に目が留まる。
成る程、と思ってしまった。
そう思ったのと同時に、自然と言葉が紡がれて。
「……私の、役割の話……ですか」
子元が一言そう言うと、仲達は黙って、机上に置いてあった『幻華譚』を彼へと差し出した。
子元はゆっくりと手を伸ばし、それを受け取る。
ざらざらとした肌触りの、薄茶の冊子。
その表紙の真ん中に、墨で書かれた『幻華譚』の文字。
これが、全てが書かれていると言う、真実の書──
「俺はこれを全て読んだ。
次は、お前が読むべきだ」
真っ直ぐな視線を投げながら、仲達は言う。
「俺からはもう、何も言わない。
……曹操様から、散々言われているだろうからな」
「はい」
「……だが」
僅かに間をおいて、しかし目を逸らすことなく、仲達は言葉を続けた。
「少しでも、苦しいと思ったのなら。
もう抱え込む事はしないでくれ。
……俺も、気付いた時には……手を差し伸べてやるから」
後半はとても小さな声だったものの。
いつもよりも柔らかい口調で、そして目を逸らすことなく、素直な気持ちをぶつけてくる父を見たのは初めてだった。
そんな想いがなんだか擽ったくて。
「ありがとうございます」と拱手する子元の表情は自然と綻んでいたようだった。
それを見て、僅かに目を丸くした仲達は。
「……お前もそんな顔をするんだな」
ぽつりと、そんなことを呟いた。
そこで初めて気付いたのだろう。
自分が父の前で自然と微笑っていたという事実に、途端に羞恥が込み上げてきたのか、先程までの穏やかな表情も束の間、子元は僅かに眉間にシワを寄せた。
それが彼の照れ隠しであるという事は、仲達も、そして春華も気付いていて、春華に至っては何処か嬉しそうに小さく微笑っている。
「私が微笑っては変ですか」
「……そんなことは一言も言っていないが」
「馬鹿にしたように聞こえました」
「……初めて見たからな」
「だ……誰に似たと……」
「……? 俺以外に誰がいる」
子元は目を丸くする他なかった。
嬉しくない。
嬉しくないと、そう思いたいのに。
珍しく素直な仲達に、何と返せばいいのか分からず、子元は言葉を失っていた。
そんな翻弄され気味の子元と、意外にも素直に応える仲達、彼らの様子を見て嬉しそうにしているのは。
「可愛いところもあるのね、二人とも」
満面の笑みを浮かべる春華だった。
「可愛い」と言われたことが気に食わなかったのか、二人は怪訝な表情で春華を見る。
「そういうところよ? 親子って可愛いわね〜」
「母上と私も親子、でしょう」
「そうね、私だって子元のことを気にかけてるし、愛してるわ」
「あ……愛、してる……など恥ずかしげもなく言うのはおやめ下さい」
翻弄されまくる子元が面白いのか、それとも可愛さ故に揶揄いたくなるのか、春華はとても楽しそうだった。
「でもね、悔しいけれど、旦那様の愛情のほうが一枚上手だったのよ」
「……余計なことを言うな」
「まだ何も言ってませんわ」
「……先の言葉が既に余計だと言っている……」
「そうでした? でもいい加減、あなたが贈ったもののことくらい、話してもいいでしょう?」
贈ったもの。
そんな春華の言葉に、子元は引っかかりを覚え、不思議そうに母を見る。
何故なら、父から物を贈られた記憶がなかったから。
しかし、そう思う一方で、心当たりもあったようで。
彼は自然と、『幻華譚』を手にしていない方の手で、己の耳──そこに付けている装飾品に手を触れた。
そんな子元の行動を見て、春華は柔らかく微笑む。
「あら、気付いていたの?」
「いえ、贈られた……というものが、母上からいただいた耳飾りのことしか、記憶になかったもので」
「ふふ、察しがいいわね。驚いた?」
「……はい」
子元は小さく頷くと、黙ったままでいる父に視線を移す。
どんな顔をするでもなく、いつも通りの笑みひとつ浮かばない表情で、仲達は目を伏せていた。
そして、ぽつりと。
「……あの時のお前は、俺からだと言ったら嫌がっただろう」
仲達の呟きに、子元は僅かに目を丸くした。
それは〈咲き損ない〉だった、父のことをよく思っていなかったときの事。
春華が子元に耳飾りを渡したのは、ちょうどそんな時期の事だった。
故に仲達は、春華を通して、また自分からの贈り物である事を隠して、子元に贈っていたのだった。
「何故……これを私に?」
「……言わないといけないのか?」
「いえ……言いたくないのであれば……」
「……龍」
「龍……?」
「その耳飾りに刻まれている紋様だ」
そう言いながら、仲達は席を立った。
そして子元の横を通り過ぎて、そのまま退室する──かと思いきや。
子元の横で、一度足を止め。
「……あとは自分で考えろ」
あろうことか、子元の頭をくしゃくしゃと雑に撫でてから、仲達は部屋を後にした。
父から頭を撫でられるなど、いつぶりだろう。
しかも子元が知る限り、あんなに素直で穏やかな彼は、あまり見たことがなかった。
理解し難い状況に、子元は時間差で仲達が出ていった戸を振り返る。
「な……なん……父上、何かあったのですか……?」
「何もないわよ? いつも通りじゃない」
「いつも通り……あれがですか?」
「私からしたら、あれが普段の旦那様よ」
楽しそうに話す彼女の言葉が嘘ではないことは、子元も分かっていた。
父の意外な一面。
しかしそれは、どこか懐かしくもあって。
まるで、昔に戻ったような、そんな感覚を覚えていた。
「ねぇ子元」
春華の柔らかな声音に、戸を振り返ったままだった子元は、春華へと向き直る。
「私はその本は読んでいないから、どんな内容なのかまでは分からないけれど……旦那様が言った、手を差し伸べるって言葉。
あれは、私も同じ気持ちだから」
そんな言葉に、子元は僅かに目を丸くした。
しかし同時に、嬉しくもあって。
子元は父・仲達にも見せた、柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
「ふふ、いいのよ。
さ、私はここを少し片付けるから、あなたもあなたのやるべきことをしなさい?」
「承知いたしました」
感謝と敬意を込めて、母に拱手したのち、子元は父のいた執務室を後にする。
金烏の暖かな陽射しが心地よい時間帯。
両親からの気遣いのおかげか、彼の心は光風霽月、澄みわたっているようだった。
しかし。
子元はふと、胸に抱えていたものへ視線を落とす。
仲達から渡された『幻華譚』という名の書。
その存在が、澄んだ空の片隅に、僅かな陰を落としていた。
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然有 離 於 現在之依代 而 移 別 依代。
其 弱 依代之力而、訪 御霊 消滅之危機 時 也。
且 存在 為 新 依代、在 付近 時 也。
此 条件 不 揃、御霊消滅。
【しかし、現在の依代を離れ、別の依代へと移ることもある。
それは、依代の力が弱まり、御霊に消滅の危機が訪れたとき。
尚且つ、すぐ近くに、新たな依代になり得るものが在る時だ。
この二つの条件が揃わなければ、御霊は消滅する。】




