其ノ壱 ── 記憶ヲ記シ護ルモノ (1/15)
暖かな陽射しを浴びる、洛陽の都。
城内で各々が呉国との戦いへと向けて準備を進める中、静かに机と向き合う人物がいた。
「……」
机上にある、それなりの厚みの一冊の書。
それを静かに見つめながら、仲達はその表紙を優しく撫でる。
表紙に記された、『幻華譚』の三文字。
それをなぞるように、そっと指を滑らせる。
「読み終えたのですか、旦那様」
彼の様子を見ていた春華の問いに、仲達は彼女を見遣ったものの、その視線はすぐに『幻華譚』へと落とされ。
「ああ」と一言、応えを返しただけだった。
「面白かったですか?」
「……別に」
「ふふ、そうですか。
興味深いことが沢山、記されていたのですね」
噛み合っていないようにも見て取れる会話だが。
彼の数少ない言葉から、その本心を汲み取ることに長けている彼女の言う事ならば、恐らく間違いはないのだろう。
「次は子元に読ませるんでしょう?」
「……」
「……迷っているのですね?」
春華の言葉に、仲達は黙ったままだった。
──無意味。
己が生きる現在の時間を言い表すのならば、その一言に尽きると言っても過言ではない、そんな内容だった。
そして、この時間を正す役目を背負っている──否、利用されている可能性があるのが、自分の息子。
そんな現実を突きつけられて、何とも言えない、複雑な感情が彼の胸の中で燻っていた。
子桓は全てが書かれている、とは言っていたものの、読み終えた今でも謎は残っている。
それは仲達が、そして子元が最も知りたい、知るべき事柄。
ただそれだけが、何処にも明記されていなかった。
それを知る術があるとするならば。
──あなたは、何も知らなすぎる。
偶然耳にした、息子に対する薙瑠の言葉。
その言葉こそ、彼女は子元が成すべき事柄を知っていることの証に他ならないという確信があった。
そしてもうひとつ、確かなことは。
「お前は……どう思う」
「どう思う、とは?」
「お前は……この先待ち受けることが、あいつにとって苦しみを生むものだったとしても。
それを包み隠さず、全てを伝えるか?」
『幻華譚』から目を逸らさずに問う仲達の声音は、らしくないほど弱々しいものだった。
直接的に明言されていないとは言え、利用されているかのような事実がある以上、読んでいて気分が良いものではない。
何故、子元だったのだろう。
苦しむ役目は、子元ではなく自分でいい。
己の手を汚す役目は──自分のほうが相応しい。
なのに。
何故……自分ではなく、子元に役目が与えられたのか。
──否。
子元にその役目を与えるきっかけを作ってしまったのは。
紛れもなく──自分だ。
「……くそ」
あのとき、あの場所に、子元を連れていかなければ。
そしてそもそも。
鬼など──この世界に存在しなければ。
読み終えてからと言うもの、仲達はそんな事ばかりを考えるようになっていた。
「旦那様」
思考を止めてくれるかのような、凛とした春華の声に、仲達は顔を上げた。
眉間にしわを寄せている彼とは対象的に、春華は優しく微笑んでいる。
「先程のお答え、ですが。
向き合うことよりも、真実を隠される方が、より苦しいかと思います」
その言葉にはっとしたように、仲達は僅かに目を丸くする。
真実を隠される。
それが何を示しているのか、仲達はすぐに察した。
忘れもしない、〈咲き損ない〉の時期。
何もできない自分が悔しくて。
どう向きあってやるべきかも分からなくて。
自然と──彼から距離を置いてしまった。
そんな自分の行動が招くは、彼の心に、見えない壁を作ってしまったこと。
そういう類のことは、自分が如何に不器用なのか、自覚はしていたが。
意図的では無かったとはいえ、まさかあそこまで、彼を傷つけ、苦しめてしまうことになろうとは、思いもしていなかったのだ。
もちろん、彼を苦しめていた要因は他にもあったものの。
自身の行動もその一つに含まれると言うことは、痛いほど実感していた。
そして今現在。
何をすることもできない、どうすることもできない、そんな状況にあるのも、その時と同じ。
そして自分も──何一つ変わっていない。
真実を、己の本音を、再び隠そうとしていたのだから。
「あの子なら、大丈夫です。
旦那様もそれは良くお分かりでしょう?」
「……ああ」
再び机上の『幻華譚』に視線を戻しながらも、仲達はしっかり頷いた。
それも、強かな声音で。
その些細な変化が嬉しかったのか、真剣な仲達の横顔を見ながら、春華は小さく微笑んだ。
「父上、お時間よろしいでしょうか」
そんな時、聞き間違えるはずもない、彼の声が響いて、春華がさらに嬉しそうに微笑う。
「ほら、来ましたよ、旦那様」
「……そうだな」
もう、隠さない。
子元が、真実と向き合えるように。
今度こそは──手を差し伸べてやろう。
彼は小さく、一呼吸をしたのち。
戸の向こうにいるであろう、子元の姿を見据えながら。
「……待っていた、入れ」
そう言って子元の入室を促したのだった。
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若 不 在 依代、御霊 消滅。
不 可 残留 儚 存在 也。
故、不 容易 離 於 依代。
【御霊は、依代がなければ消滅する。
残り留まることすらできない、儚きもの。
それ故に、依代からはそう簡単には離れられない、不可視の鎖が存在する。】




