其ノ参 ── 眠ルハ舞イ散ル桜ノ木 (3/11)
花 咲 于 蕾、全 其 生命 散。
夫則花之運命、
亦 持〈華〉鬼 之 運命 也。
然而、在 不能 咲 花。
咲 損 花。
其 花、 誘 或〈華〉如 囮。
【蕾から花が咲き、その生命を全うした花は散ってゆく。
それが花の運命であり、〈華〉を持つ鬼の定め。
しかし、咲くことすらできなかった花があった。
咲き損なった花。
それは、とある〈華〉を誘き寄せる為の〝囮〟にすぎなかった──】
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それから数日が経ったある日のこと。
静かな暁の鍛錬を終え、自室に戻って身体を休めていた子元は、明るくなる外の変化を眺めていた。
人が少ない明け方。
なるべく人に遭遇しにくい時間帯に木刀を振り、少しでも鍛えておく。
そして自室に戻ったら、窓枠の向こうに広がる空の色の変化を楽しむ。
それが彼の、毎日の習慣だった。
藍色の空は、徐々に青紫色に変わり、そして綺麗な水色へと変化する。
幻想的な色の変化は、彼にとっては心を落ち着かせる効果があるようで。
その変化を瞳に映す子元の表情は、とても穏やかだった。
金烏が顔を出し、空の一面が完全に水色に変化した頃。
突如として、戸を叩く乾いた音が鳴る。
「子元殿、仲達様がお呼びです」
戸は開かれることなく、女性の声でそんな言葉が投げかけられた。
穏やかだった表情は一転して陰りを含む。
「何の用だ?」
「あなたに会わせたい人がいる、とのことですが」
女官の言葉に僅かに疑問を抱いた子元は、戸を見つめながら怪訝な顔をした。
会わせたい人。
それが誰なのか、全く予想できなかったからだ。
とは言え、その心当たりが無いわけではなかった。
──桜の鬼。
しかし、四十年間も行方知れずになっている鬼が、そんなに都合良く見つかることがあるだろうか。
「それは……俺に関係のある人物なのか?」
何となく気になって、子元は女官に探りを入れる。
しかしながら、求める答えが返ってくるはずもなく。
「わたくしは言伝を預かっただけですので、詳しいことまでは聞いておりません」
「……そうか」
それだけ答え、子元は漸く重い腰を上げた。
行けば分かるのだが、その場にあの人──父がいるという事が、彼にとって一番の障壁だった。
子元は室内から出ると、言伝を預かっていた女官に「ご苦労だったな」と労いの言葉をかける。
そして、その行く先を鋭く見つめながら、自分を呼び出した父・仲達のもとへと向かった。
*
*
*
父の元へ向かう途中、子元は見慣れない人物が一本の木を見上げているのを目にする。
その場所はつい最近、彼が弟の子上と手合わせをした、小さな自然の空間。
家族との記憶が残る、思い出の場所でもある。
その真ん中にある、深緑の葉をつけた木を、その人物は静かに見上げていた。
周囲から蔑まれている以上、他人にあまり興味を示さない子元だが、珍しくその姿に目を奪われたようだった。
丁度後ろ姿しか見えないが、その華奢な様子と低身長なところから、恐らく女性だということは分かる。
そして何よりも子元の目を奪ったのは、後ろでひとつに括られた、青瑪瑙のような艶のある髪だった。
水色の無地の羽織に黒の下衣という、女性にしては地味な服装だからだろうか。
その地味さが髪の艶を際立たせており、そこには思わず見惚れてしまう、不思議な魅力があった。
ふわりと、心地の良い微風が吹く。
木を見上げている彼女の髪もさらさらと舞い、透き通るような輝きをもつそれは、時間の流れを忘れるほどに子元の心を惹き付けていた。
ざわざわと揺れる、木の葉の音。
それが耳に入ったところで、子元は漸く、自分が彼女の後ろ姿に目を奪われていることに気付く。
現実に引き戻され、僅かな羞恥を覚えながらも、ここを通りかかった本来の目的を思い出し。
そちらに足を進めようとした──が。
──今、彼女に声をかけなければ、後悔する。
そんなことを感じている自分に驚く。
らしくないなと思いながらも、子元の足は彼女のほうへと向かっていた。
近づけば近づくほど、その小柄な姿に愛おしさを感じ──……
(……愛おしさ……?)
己の中で渦巻く感情に対して、頭がついていけてないことに戸惑いを覚えながらも、子元はゆっくりと近づいていく。
さくさくと土草を踏む音が、静かな中庭に響いた。
彼女はその足音に気付かないほどその木に見入っているのか、振り向くことすらしなかった。
声が届くであろう距離で立ち止まり、子元はその後ろ姿に向かって言葉を投げかける。
「……そこで何をしている」
突然声をかけられて驚いたのだろう。
彼女の肩がぴくりと揺れた。
そして直ぐに、彼女は艶のある青い髪を揺らしながら、ゆっくりと振り返り。
目があった──その刹那。
きゅ、と胸を締め付けられるような感覚が、子元を襲った。
彼女の容姿から目が離せなかった。
振り向くときに揺れた前髪の下から覗くのは、瑠璃のような瞳を持つ右目と、左目の黒い眼帯。
その眼帯を隠すように、前髪は左側だけが伸びている。
片目しか見えていないものの、どこか幼さがあるその顔立ちは純真可憐で、可愛らしい女性。
地味だと思っていた服装も、後ろ姿の時には見えなかった羽織の下には、花柄の刺繍が入った青い衣服を着ており、それが可愛らしさを際立たせている。
そんな彼女の容姿に目を奪われているからだろうか。
胸を締め付けるその感覚は、一層強さを増していった。
──今、自分自身に、何が起こっているのか。
そんなことを冷静に考える余裕もなく、子元が己のその状況に言葉を出せないでいると、そんな彼の様子に不安になったのだろう彼女が、小さな声で言葉を紡いだ。
「……あの……えと……すみません、この木が桜の木だと聞いて、つい……」
途切れ途切れに発せられた彼女の言葉で、子元は我に返る。
この木には花がついていない。
何故この木が、桜の木であることを知っているのか。
確かにそれも気になったが、そんなことよりも、今の自分がどんな表情をしているのかの方が気になった。
しかし、彼女の様子から自分が怒っていると感じとられていることは察しがついた。
そこまで思考を巡らせたところで、
「……そう不安そうな顔をするな、誰も木を見ていたくらいでは怒らない」
──と言いたい自分の気持ちとは裏腹に、そんな優しい言葉が発せられることはなく。
子元は黙ったまま彼女との距離を詰め、そのまま勢いよく、太い木の幹に向かって彼女越しに足をついた。
その衝撃で木が揺れ、幾ばくかの木の葉が舞い落ちる。
彼女がびくりと怯えたのは言うまでもない。
見知らぬ男性に突然迫られ、上から見下されるこの状況に、怯えない女性などいないだろう。
その状態の中、子元が発した言葉は。
「お前──俺の嫁になれ」
再び静寂が訪れる。
風が吹き抜け、二人の髪が揺れる中、木の葉のざわざわと揺れる音だけが響く。
彼女が何か言葉を発することは無く、というよりはこの状況をどうすればいいのか分からないようで、ただただ子元を見て固まっていた。
しかし、漸く自分が言われた言葉の意味を理解したらしい。
彼女の頬から耳までが、紅く紅く染まってゆく。
そんな彼女の様子を、微笑むどころか見下すような表情で見ていた子元は、自分の行動を理解できないでいた。
それでも、謝らなかったのは彼自身の意思だった。
「──ちょっと子元、あんた何やってるのよ」
静寂を破ったのは、第三者の声。
今まで微動だにしなかった子元だが、声の主を確かめようと足を下ろす。
しかし振り返るよりも早く、今まで声も出さなかった彼女がその名を口にした。
「……か、神流様……」
神流と呼ばれた女性は、険しい顔をして速足で歩み寄り、彼女を守るようにして二人の間に割って入る。
子元の視界が、青から白に変わった。
高い位置で一つにまとめられ、輝きを帯びている白銀の髪と、白の華服。
白で身を包んでいる彼女だが、それとは対照的な漆黒の瞳が、鋭い目付きでこちらを見上げていた。
「……もう一度聞くけど、何してるのよ」
腰に手を当てながら怒っているように言う神流の言葉に、子元は無愛想な態度で返す。
「……何もしていない」
「はぁ? この子に対して迫っておいてどうやったらその言葉が出てくるわけ?」
「うるさい奴だな貴様……何をしに来た」
「何をしにって、この子を連れに来たんだけど」
そこで漸く気付く。
彼女が神流の名を知っていたのも、花をつけていないこの木が桜の木だと知っていたのも、神流自身から与えられたのだろう情報だということに。
それはつまり。
「こいつはあの人の支配下に入るのか?」
「……あんた何も知らずに迫ってたわけ?」
神流は呆れたように答える。
しかし直ぐに、何か企みを思いついたように意地悪そうな表情になった。
「そういうことなら、今は何も言わない方が面白そうね」
「は……?」
「そうやって嫌そうな顔しないの。どうせすぐに分かることだから」
それだけ言って神流は、自身の背後で静かに会話を聞いていた彼女の方を振り返る。
「待たせてる間に怖い思いさせちゃったわね、ごめんね? 大丈夫だった?」
「あ……はい、大丈夫です」
「そう、それなら良かった」
安心したように笑顔になる神流に対し、彼女もつられて微笑む。
神流が来たことで安心したらしく、その笑顔は自然なものだった。
「さ、薙瑠ちゃん、行きましょ」
「はい」
薙瑠と呼ばれた彼女は、神流に手を引かれながら桜の木から離れて行く。
子元は二人を呼び止めることなく、髪がさらさらと靡く彼女たちの後ろ姿を見つめながら、静かに立ち尽くしていた。
去っていく中、青髪の彼女は一瞬足を止めて、子元の方を振り返る。
再び目が合う。
そのとき彼女は、子元に向かって小さく微笑んだ──ように見えた。