其ノ弐 ── 記サレ続ク時間ノ記憶 (2/15)
軍議室に現れた彼──曹丕を見て、仲達が静かに立ち上がり、らしくない程丁寧に拱手した。
皆も彼に続いて拱手する。
曹丕──字は子桓。
曹操の息子で、彼の鬼の力を継いで生まれた鬼。
〈六華將〉の一人である神流が仕えているのは彼。
現在は父と共に鄴の都で暮らしているため、普段は洛陽にはいないはずなのだが。
「どうしてこちらに?」
「まさに今話してた、茱絶のことで伝えたいことがあってな。順に話そう」
仲達は自らが座っていた席を子桓に譲ろうとするが、彼は「いい」とだけ言って断った。
だからと言って仲達が座るわけにもいかず、結局全員が立ち話をすることになる。
子桓は出入り口の一番近くにいた薙瑠の隣に並ぶと、僅かな間をおいて淡々と話し始めた。
「村を焼いた呉の将、陸遜と呂蒙は逃亡したと聞いた。故にまだ生存している。
一方で茱絶は、鄴にいる。
仲達以外は知らないだろうが……あいつは約十五年前に話があった鬼だ。
まさかあの時の奴が、今になって禍の種になるとはな……」
約十五年前。
それは、子元が仲達と共に村を訪れた時。
そして蒼燕──薙瑠と出会ったときのことだ。
子元がどうしても思い出せなかった、当時の茱絶に関する報告。
その内容は、仲達自身の口から明かされる。
「あの時の繰り返しになりますが。
村には妖力を持っていた者が二人おりました。
一人は鬼だが妖力が異常に少ない者。
そしてもう一人は、人間だが異常な量の妖力を持っている者です」
「そうだ。鬼であっても妖力が少ないのならば、特に被害は及ばないだろうし、もう一人は人間である以上、その妖力は扱えない。故に俺は放っておいても問題ないと判断した。これまでに被害が報告されていた訳でもないしな。だからお前を責めてる訳じゃない」
一呼吸すると、子桓は伏目がちに言葉を紡いでいく。
「あいつ……茱絶は鬼の力を持っていたものの、その妖力が少すぎるせいか、力を使える状況になかった。
我が父が出した求賢令──実力があるならば、出身や経歴等一切不問で採用する、唯才是挙。それがあったことによって、鬼か人間かを問わず、多くの者がこの国に仕えることが可能だった。
同時にそれは、鬼を集めることも目的としていたからな、あいつもその対象だったんだ。
だが、鬼であっても力が使えないのでは話にならない……それを分かっていたからこそ、その村に留まっていたんだろうな」
鬼であるにも関わらず、鬼の力が使えない。
その状況は、子元自信も〈咲き損ない〉として経験していた。
故に、茱絶の苦しみが痛いほど伝わってきて。
子元は思わず、拳を強く握りしめた。
「そんな状況のあいつの元に、〈逍遙樹〉を狙っていた呉の将、陸遜が現れた。
協力する気もなかったが、一方で断る理由もない。叛逆に値すると分かっていながらも、他国の者を招き入れることに、何の抵抗もなかったと、本人の口から聞き出した」
「曹丕様……いえ、曹操様は、捕えた茱絶をどうするおつもりで……?」
「ああ、そのことだが。
我が父は桜薙瑠、お前に任せると言っている」
仲達の問いかけに対する子桓の言葉は、思いもよらないものだった。
彼女自身も、まさか自分の名が出てくるとは思っていなかったようで、目を丸くしている。
「私……ですか?」
「ああ。お前、あいつと関わりがあるんだろう? 俺が今回洛陽に来たのも、お前を呼んで来いと言われたが為だ」
「そう……でしたか」
薙瑠はどこか不安そうな声音で、小さく頷いた。
そんな彼女の様子を特に気にすることもなく、子桓の視線は直ぐに子元へと移る。
「司馬子元、お前も呼んで来いと」
子桓と目が合ったとき。
子元は僅かに、恐怖にも似た感情を覚えた。
しかしその感情を押し殺すように、静かに受け答えをする。
「私も……ですか?」
「〈狂華〉に陥った経験を持つお前に、話したいことがあるらしい」
彼の口から、〈狂華〉という言葉が紡がれた瞬間。
子元の青白い瞳が、動揺するように大きく揺れた。
押し殺していた感情が再び溢れ返る感覚に耐えられず、子元は思わず目を逸らす。
それも当然だろう。
子元と子桓、二人が顔を合わせるのは。
あの時──子元の〈狂華〉以来なのだから。
そんな子元の心情を見透かしたようで、子桓は小さく嗤った。
「役立たず、のまま終わらなくて良かったな」
ぴくり、と子元の肩が震える。
恐る恐る子桓と視線を合わせるも、どこか嘲笑うような笑みを浮かべる彼に、心の奥底にあった恐怖心が更に湧き上がるような感覚を覚えた。
しかし、それに負けじと、強い意思が篭った視線を向けながら、彼に丁寧に拱手する。
「──はい、身命を賭して、この国に仕えます」
真剣な瞳を向けてくる子元に満足したのか、子桓は再び、ふ、と笑った。
「話を戻そう。そしてこれは、あくまでも俺からの提案として聞いてほしい。
茱絶の件があった以上、我ら魏国としても呉国を見過ごす訳にはいかない。故に、今こそが。
柊を奪還する好機なんじゃないか?」
彼の口から紡がれた意外な言葉に、一同は目を丸くした。
呉を攻める好機、ではなく。
柊を奪還する好機、だと言ったのだ。
その言い方はまるで、〈六華將〉に協力する立場にあるかのような言い方で。
「あの……子桓様」
そのことに疑問を持った薙瑠は、その意図を確かめるべく、静かに問う。
「失礼ですが、子桓様の意思をお聞きしても、よろしいでしょうか」
「……」
彼女の真っ直ぐな瞳に、子桓は僅かに逡巡するも、直ぐに口を開いた。
「そうだな、この際に伝えておこう。
俺は……俺と我が父は、偽りを正すことを選んだ。だから俺は今、それを成すべく父と共に行動している。
こんな意味のない世界を……一刻も早く、終わらせるために」
後半の言葉を紡いだとき、爛々としていた子桓の青い双眸に陰が落ちた。
もちろん、彼の顔に笑みなどは浮かんでいない。
意味の無い世界。
その言葉にはまるで、この世界の有り様に心底がっかりしているかのような、そんな感情が込められているようだった。
「子桓様」
そのことを一早く感じ取った薙瑠が、静かに彼の名を呼んだ。
そんな彼女の顔は、微笑んではいるものの、どこか辛そうな感情が含まれているようにも見える。
「ありがとうございます」
「何に対する礼だ? それは」
「お好きなように捉えてください。
少なくとも、今の話は私にとってはお礼をするに値するお話でした」
丁寧に拱手しながら軽く頭を下げる薙瑠に、子桓は僅かに怪訝な顔を浮かべたものの、直ぐに柔らかく微笑んだ。
「そうか、まあ〈六華將〉に協力してるようなものだからな、礼を言われて悪い気はしない。
それで……仲達」
子桓は一転して真剣な顔になると、真っ直ぐと仲達を見据える。
青と紅の双眸が交錯した。
「お前たちはどうする気だ?」
「……」
その問いかけに、仲達は直ぐには答えなかった。
そんな父の様子を見ながら、子元は僅かに逡巡する。
子桓は確かにはっきりと、偽りを正すことを選んだと、そう言っていた。
それは言い方を変えれば、〈六華將〉と目的を同じくしているということだ。
理由は分からないものの、あの時曹操が「〈六華將〉には手を出すな」との命を下したことが、今になって理解できた。
その時から曹親子は、偽りを正す為に動いていた。
今回の一件でも、曹操が薙瑠を助けたのはその為だろう。
そして現在、子元自信も「知る」という選択をしている。
〈六華將〉と目的を共にする道には、まだ踏み込む勇気がないものの。
「知る」という選択をしたのであれば──答えはひとつ。
「父上」
暫く黙り込んでいた父に、子元は意を決して声をかけた。
彼の青白い双眸は、真っ直ぐと仲達の姿を捉えている。
「柊を、奪還しましょう。
成功すれば、今後私たちが呉国を攻略することも容易くなります。
故に柊を奪還することが、今の私たちにとって……最善の選択である気がします」
静寂の中に響いた彼の言葉には、強い意思が込められていて。
それはその場にいる者、全員に伝わったようだった。
「そうだね、村を利用したことに加え、その村を焼き尽くしたことが既に僕達に対する宣戦布告に他ならないからね」
「その手段を取った以上、あちらも攻めるつもりでいるでしょう」
「であれば、衝突は淮河周辺でしょうな」
子上と公閭に続き、伯済は机上に広げられた地図を指差しながら発言する。
地図の中心付近から東に向かって延びる、黄河と長江の間を流れる河。
魏と呉の国境となっている河である。
それを見た仲権も、地図に視線を落としながら言葉を紡ぐ。
「河……となると、赤壁の時みたいな船団を使った戦いになるってことっすか?」
「いや、今回の目的はあくまでも柊の奪還だ。進軍するのは淮河までに留めて、その先は〈六華將〉に全てを任せてしまえばいい」
子桓の言葉に、薙瑠は地図に落としていた視線をあげた。
その瞳は、真っ直ぐと仲達を見据えている。
「お任せください。私と鴉様。
二人のみで、必ず奪還してみせます」
「二人……たった二人でいいのか?」
「はい。これはあくまでも予測にすぎませんが、氷牙様……柊氷牙様がいるのは、恐らく建業。その県城内にいるはずです。
皆様が淮河周辺にて、呉軍をひきつけて下されば。忍び込んでの奪還は容易くできると考えます」
彼女には、妖気と共に姿を消せる術がある。
おそらくそれを用いて忍び込むというのだろう。
二人でと言う提案に不安を感じていた子元だったが、はきはきと発言する彼女の言葉には安心感と頼もしさがあり、自然と笑みが浮かんだ。
「……分かった。ならば、柊に関しては全て任せる」
「承知致しました、仲達様。
それと……これは私からの提案なのですが。
蜀とは一度、協力的な関係を築いても宜しいかと。
蜀と呉は協力関係にありましたが、現在は〈六華將〉に対する考え方の違いによって、その関係は崩れているようです。
〈六華將〉に対する考え方、という意味であれば、蜀は此方に協力的だと考えられます」
「確かに……その点は俺も同意見だな。
協力とまではいかなくても、せめて休戦の形にできれば呉への侵攻はより容易くなる。
そういう意味でも、関係を築いておいて損はないだろう」
薙瑠の提案に子桓が賛同すれば、仲達も小さく頷いた。
「そういうことだ、この旨を伝える役目は……夏侯覇、お前がやるといい」
「え……お、俺っすか?」
突然指名され、素っ頓狂な返事をする仲権に、子桓は小さく溜息をつく。
「お前はあの夏侯淵殿の息子だからな、考えるよりも行動するほうが得意なんじゃないか?」
「仰る通りです、子桓様」
「だよな。では任せたぞ」
「はっ、お任せください」
小さく笑う子桓に、仲権は拱手して応じる。
そんな彼の顔は、一見真面目な顔をしているよう見えるものの、僅かに迷いの感情が見え隠れしていることに、ただ一人、薙瑠だけが気付いていた。
「これで大体方針は決まったな。
仲達、あとは任せるぞ」
「はい」
仲達は静かに頷いた。
それを確認した子桓は、小さく笑う。
「薙瑠、そして子元。先に伝えたように、お前たちは一度、俺と共に父のもとへ来てもらう」
「はい、承知しております」
子元は拱手しながら頷いた。
薙瑠も子元に続いて拱手する。
「では……呉については進展があり次第、随時報告する。現時点では以上だ、各々で準備を進めろ」
「「はっ!」」
仲達による解散の合図に、一同拱手をして軍議室から退室していく。
そんな中、子桓は子元と薙瑠に遠出の準備をするように言ったあと、仲達を呼び止めた。
子桓は皆が完全に退室したのを見計らって、静かに口を開く。
「この世界について、どこまで知ってる?」
「先程桜から話を聞いたばかりですので、今はまだ、鬼が霊的存在であることと、〈六華將〉が偽りを正すことを目的としている……ということしか知り得ていません」
「……そうか」
子桓はそれだけ言うと、懐からあるものを取り出した。
「これを読んでみてくれ」
「……これは?」
彼が仲達に手渡したのは、厚みのある一冊の書。
書ということは紙でできているわけだが、竹簡が一般的な今の世では、高価な紙で作られる書物の存在そのものが珍しい。
僅かに茶色がかった紙が、幾重にも重ねて綴じられている書物。
その表紙には、『幻華譚』という三文字が墨で記されていた。
「『幻華譚』──父が桜の鬼から貰ったというものだ」
「桜の鬼……薙瑠ですか?」
「違うな、今の桜の鬼ではなく、二人目の桜の鬼だ」
「二人目……」
「そういうことも含め、今の俺たちが求める答えの全てが、それに書かれてる」
「……全て、ですか」
「ああ。俺や我が父が偽りを正すという選択をしたのは、それを読んだことがきっかけだった。故にお前にも目を通してもらいたいと思ってな」
仲達は手にしている書物の表紙を、はらりと捲る。
当たり前であるが、そこには墨で書かれた楷書体の文字が並んでいた。
「誰が書いたもので……?」
「分からない。というのは、その書は今でも書かれ続けているからな。その辺りのことも読めば分かる」
「……かなりの量、あるようですが」
仲達の懸念は最もで、彼が手にしている書物はそれなりの厚さがあった。
全てを読むには、恐らく数日はかかるだろう。
「まだ時間はある、文句言わずに読め。国を統治する者がこの世界の現状を知らなくてどうする。それに、読んだ上でどう行動するかはお前の自由なんだ、思うが儘に従えばいい」
子桓の半ば苛ついたような物言いに、仲達は嫌そうな顔をしながらも渋々頷いた。
「……まあでも、覚悟はしておけ」
そんな一言を残して、子桓は背を向けて去っていく。
軍議室に一人残された仲達は、しばらくその場に佇んでいた。
──覚悟はしておけ。
その言葉の意味するところは、恐らく全てを知ることに対する覚悟、なのだろう。
全てを知ることができるならば。
これを本当に読むべきは、自分ではなく──息子の子元なのかもしれない。
そんな事を思いながら、仲達は手にしている書物、『幻華譚』に目を落としていた。
金烏は既に真上にまで昇っており、玄冬の洛陽は昼時を迎えている。
烏兎匆匆。
ここから先、時間は流れるように過ぎていく。
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青春、櫻桃之花 咲。 朱夏、散花 葉 茂。
白秋、紅葉 趣 有。 玄冬、散葉 亦 美。
巡 青春、再訪。
然而、其 櫻桃 再度 無 咲。
【青春、櫻桃の花が咲く。
朱夏、花散り葉が茂る。
白秋、紅葉趣き有り。
玄冬、散葉もまた美し。
巡りて青春、再び来たる。
しかし、その櫻桃は再び咲くことなし。】




