其ノ拾壱 ── 舞イ落チ消エ行ク此ノ時間 (11/11)
覚醒 桜 導 先、
不知 誰 時間之結末。
其 行末 所示〈六華將〉也。
汝 可 解明 其謎、 全 消滅 前。
【覚醒めし桜が導く先は、誰も不知の時間の結末。
その行末は、〈六華將〉に示さるる。
──解き明かせ、その謎を。
全てが消えて、無くなる前に。】
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誰そ彼時、朱く染まるは玄冬の洛陽。
子元の案内によって都城内の一部を散策した後、最後は薙瑠の意向で、城内の中庭を訪れていた。
そこに在るは、妖しく輝く桜の木。
「既に遷していたのか」
「はい、目が覚めたあと、子元様のもとに来る前に遷しておきました」
あの日──薙瑠が刺された日。
二人の本来の目的である、〈逍遙樹〉を遷すこと。
一時的に彼女の身体に宿すことで場所を遷すというもので、彼女自身が負傷しても、死なない限り、宿っている〈逍遙樹〉に異常はないと言う。
そのことは事前に聞いていたため、〈逍遙樹〉の心配はしなかったが。
桜の木を見上げていた子元は、心配そうに彼女に視線を移す。
彼の瞳に映る彼女は、既に充分回復しているようで、穏やかに桜の木を見上げていた。
──とは言え、都城内を歩き回ったのだ、それこそが元気な証であろう。
「あの時……何があったんだ?」
「はい、その話をするために、ここに来ていただいたんです」
恐る恐る尋ねてきた子元に、薙瑠は小さく笑いながら対応した。
そして静かに語りだす。
「あの時、私の身体にはこの木……〈逍遙樹〉が、宿っていましたよね」
「ああ……そうだな」
「桜の鬼は、記憶を辿ることで時間と空間を司る鬼です。つまり、力の要となるこの木には、記憶を辿る力があります。子元様の〈開華〉の時も……そうだったのではないでしょうか」
「ああ、時間が戻るような感じで、記憶が逆再生されたな。自分では覚えていないことまで、頭の中に映像として流れていた」
「そう、それです。記憶を辿る力……それは本人が覚えていない記憶まで辿ることができるんです」
ざわり、と胸元が疼いた。
同時にふわりと冷たい風が吹き、花咲く桜の木を揺らす。
ざわざわと響くその音は、子元の胸騒ぎを代弁しているかのようだった。
「記憶が……戻った、のか?」
ぽつりと呟かれた子元の問いかけに、薙瑠は頷いた。
「はい。〈逍遙樹〉を己に宿したことで、記憶を辿る力の影響を受けたみたいです。あの時、記憶が蘇った影響で、彼──茱絶との過去を思い出しました。
だから受け入れたんです、彼の思いを……私に対する、殺意を」
「……そうだったのか」
彼女が刺された訳。
それも知りたかったことではあるが、今はそれよりも気になることがあった。
──彼女の、過去。
「ふふ、子元様って、思っていることが顔に出やすいのですね」
「あ……いや、そんなつもりは」
「記憶の内容が気になる、のでしょう」
柔らかく微笑みながらこちらを見る彼女には、今自分が何を考えているのかお見通しのようだった。
考えていたことを的確に当てられ、言葉に詰まる。
「貴方が求める答えは蒼燕、ですね。それは」
「お前……なのか」
「ふふ、分かってるじゃないですか」
彼女の微笑みに再び、ざわり、と胸元が疼く。
その笑みは普段と変わらないはずなのだが、蒼燕を──彼女を裏切るようなことをしたせいか、何処か冷たさを感じた。
何を言われるのだろう。
そう身構えだが、彼女の口から次いで出た言葉は、予想もしない言葉だった。
「私は子元様を恨んでいません。寧ろ感謝、に近いです」
「は……?」
その言葉は子元を気遣ったものではなく、嘘偽りのない真実であるのだということは、彼女の目を見れば一目瞭然だろう。
しかし、その事を信じきれていないのか、子元はどこか苦しそうな表情を浮かべていた。
「俺は、お前を裏切るような事をしたんだぞ」
己の口から次いで出た言葉は、棘のある言葉。
それは彼女に向けた棘ではなく、自分自身──幼き自分に向けた棘だった。
そして、その棘を消し去るは桜の彼女。
「確かに、その事実は消えません。ですが、それよりも……貴方に知ってほしい大切な事実があるんです」
「大切な事実……?」
「はい。あの日……お二人が村から洛陽へ帰る日に、仲達様がおっしゃった言葉を覚えていますか?」
「父上の言葉?」
「『やろうと思えば、村から出ていくことができる』──という言葉です」
子元は僅かに目を見開いた。
その言葉は、確かに父・仲達が言った言葉。
それは彼女──蒼燕には届いていないのだと、そう思っていたからだ。
「聞こえてた……のか」
「そうですね、あの時はまだ幼かったが故に、嘘をつかれたことに酷く傷付いたので……あんなこと、言ってしまいましたけど。その言葉を聞いていたからこそ、私は桜の鬼として生まれ変われたのです」
「……どういうことだ?」
半ば訝しげに首を傾げる子元。
薙瑠はそんな子元をみて小さく微笑むと、再び桜の木を見上げる。
「ここからは、人間だった頃の私……蒼燕として、お話します」
穏やかに流れる微風にのって、桜の花弁が舞っている。
──桜の記憶、紡がるる。
「ご存知の通り、私はあの村で暮らしていました。物心付いた時には彼……茱絶と共にいたので、両親は誰なのか、本当にあの村で生まれたのか、定かではありません」
彼女の口から語られる幼き時間の物語に、子元は静かに耳を傾けていた。
「人間として生まれたことに違いはありません。貴方と出会ったときも、まだ人間でした」
「まだ……」
思わず言葉を反復する。
人間として生まれるか、鬼として生まれるか。
現在の世の中は、このどちらかとして生きることしかできない。
つまり、人間が鬼になったりすることなどあり得ないのである。
その逆も然り。
──いや、今現在、〝桜の鬼〟として生きている彼女が目の前にいる以上、もうその定義は崩れ去っている。
或いは、彼女が例外なのか。
「しかしある時、私は不思議な樹を見つけました。それが、あの村にあったこの木──〈逍遙樹〉です」
「……」
小さな違和感。
子元は目の前にある桜の木、〈逍遙樹〉を見上げた。
今は結界を張っていないが為に桜の木として目に映っているが、当時はまだ結界が張られていたはずだ。
普通の人間に──視えるはずがない。
子元が何を考えているのか、薙瑠は分かっていたようで、小さく笑う。
「お察しの通り、〈逍遙樹〉が〝視える〟と言うことは、おかしいわけです。鬼ですら視えない結界が張られている訳ですから」
「桜の鬼は……視える、はずだったな」
「仰る通りです。けれど、その時はまだ、私は人間です。──この、人間なのに視えるという〝特異な体質〟を持っていた、と言うことが、私を桜の鬼へと導くことになりました」
「特異な体質……」
子元は腕を組みながら考え込む。
そしてふと、とある事を思い出す。
彼女──蒼燕と、初めて話したあの日。
自身の瞳に映った、異様な光景。
しかし、それを口に出していいのか──いや、ここで聞かなかったならば、二度と聞けないだろう。
子元は僅かに口を噤んだあと、意を決して問うた。
「その……病気、だったのは……もしかして、関係ある……のか?」
「流石です、子元様。話が早くて助かります」
嬉しそうに笑うその笑顔。
その表情は、間違いなく、あの頃の──守りたいと思った、蒼燕の笑顔だった。
「当時は奇なる病だと村の人々から言われていたのでそう思っていたのですが、今考えてみれば、あの症状も特異な体質だったが故のものだと言えます。
その特異体質のことを霊依魄と言い、その体質を持つ人間のことを、〝巫覡〟と言うらしいです」
「しゃーまん……?」
聞いた事のない言葉に、子元は僅かに首を傾げる。
巫覡──それは、神霊なるものの依代となり得る魄、霊依魄を持つ人間のこと。
女性を「巫」、男性を「覡」と表し、総称して巫覡と呼ぶ。
憑依されやすい、というと分かりやすいだろう。
身の周りには、視えないだけで、実際はたくさんの神霊やその御霊が存在している。
御霊とは即ち魂のことである。
巫覡はそれらを、良く言えば身体に宿し、悪く言えば憑依していることが多いため、身体に何らかの影響が出る。
彼女の場合は、村の周辺にいた植物の御霊が宿ったが故に、身体から花が咲くという、なんとも奇妙な事になっていたのだと、そして同時に、それが巫覡である事の証でもあるのだと、そう説明してくれた。
「病ではなかった、のか」
「はい。ですが、身体から花が咲くなどという奇妙な状況は、誰しもが受け入れられないものです。村の人々の反応は間違いではありません」
「……」
受け入れられない。
確かにそうかもしれない。
しかし、それは同時に、彼女がそのせいで傷付いてきたことも、事実であることを物語っている。
「辛かった、だろう」
「そう……ですね。自分の状況を理解していなかったとは言え、辛くなかったといえば嘘になります。ですが、子元様。そんな状況にあったからこそ、私は桜の鬼に選ばれたと言っても過言ではありません。そして、そのきっかけを与えてくれたのは、他でもない貴方なのです」
「……そんなはずは」
言葉を詰まらせる子元を見て、薙瑠は微笑んだ。
「ここで先程の話に戻るのですが、仲達様が仰った、あの言葉。それがあったから、私は一度村を出ようとして……〈逍遙樹〉に出会った。そして桜の鬼になった。
仲達様からあの言葉を引き出したのは、紛れもなく貴方です。だから私は、貴方のお陰で、今──此処に居ます」
降り注ぐ桜の小雨の中で、嬉しそうに笑う彼女。
彼女を傷付けた事実は変わらないが、それでも今は、あの時の幼き自分が、彼女の行動のきっかけを作れていたことに喜ぶべきなのだろう。
漸く胸の支えが取れたらしく、子元の顔にも柔らかい微笑みが浮かんだ。
過去は現在へと繋がっている。
そしてその先の──
残酷な、未来へとも。
「でも」
僅かな間。
そして語られる、この時間の真実。
「それらは全て──偽りなんです」
たった今、彼女の口から紡がれた言葉。
それによって、流れていた微風が止んだ。
同時に桜の雨も止み、まるで時間が止まったかのように、辺りに奇妙な静寂が訪れた。
一瞬にして消え去った穏やかな時間。
子元の顔に笑みが零れたのも束の間だった。
「何を……言っている?」
「そのままの意味です。全てが消えて無くなる──そんな未来が待つ時間なんです、ここは」
薙瑠は変わらず笑顔のままだったが、その笑みには陰りが含まれていた。
「それを成そうとしているのは、籠の中の鳥。〈六華將〉はそれを護る存在です。そして、その鳥を放つことができるのは──子元様、貴方なんです」
次々と彼女の口から紡がれる言葉は、今の子元には理解できるものではなかった。
彼が、その言葉にいかに重要な意味が含まれていたのかを知るのは、まだ先の話。
しかし──訪れるその時は、もう、そんなに遠くない。
ただ黙っていることしかできなかった子元だが、ひとつだけ、理解ることがあるとすれば。
彼女が嘘偽りを言っているわけではないということだ。
「全てはあの瞬間、過去に私が貴方と出会ったとき──いえ、それよりも遥か昔から、始まっていたのです」
──始まっていた。
まるで、不幸の始まりとでも言いたげなその言い方に、僅かに鼓動が早くなる。
恐らく、その先に語られるは、切なく悲しい、真実の物語。
笑顔を消し、俯き気味に言葉を紡ぐ彼女の様子が、それを物語っている。
──ああ、聞きたくない。
「貴方の〈狂華〉も、偶然じゃない」
「……薙瑠」
「私が貴方のもとに桜の鬼として現れたのも」
「やめろ」
「貴方の〈開華〉をしたのも」
「薙瑠!」
「貴方は何も知らなすぎる!!」
「知るわけ無いだろう!!」
お互いの声が空気を震わせた。
桜の花も、僅かに揺れる。
「なんだ……何なんだ急に……お前は俺に、何を伝えようとしてる……?」
苦痛そうな表情を浮かべながら、子元は自身の不安を押し隠すように問を投げかけた。
薙瑠は自身の服の裾を強く握りしめて、俯いている。
そして呟く。
「そうですよね、何も話していないので、知るわけ、ないですよね」
僅かに震えているような、自嘲気味な声音。
その声で、静寂の中に、ぽつりぽつりと落とされる言葉。
「私は記憶を思い出したことで、蒼燕のことだけでなく……桜の鬼として、果たすべき本当の役割を、知ったんです」
ひらり。
桜の花弁、一片落つる。
そして宙にて姿消す。
「今、貴方に一番伝えたい事は、貴方と出会った記憶も、貴方と過ごした思い出も。
全てが……消えてなくなってしまうという、ことです」
「何を根拠に……そう言ってる?」
「それは先程も言ったように、この時間が〝偽りの時間〟だからです。それを成そうとする、籠の中に眠る鳥を護るのが、私たち〈六華將〉の役割なので」
「籠の中の鳥って……何だ……?」
「……それは、言いたくありません」
言いたくない。
言えないのではなく、言いたくない。
その言い方に引っかかるものを感じたが、そんな子元に問う間を与えることなく、薙瑠は言葉を続けた。
「この話は、貴方にも関係があること……いえ、現在を生きる全ての人に関係があることです。でもその中で特に関係するのが、貴方なのです」
「鳥を……放つ……?」
「はい。その役目は、貴方でなければなりません」
──分からない。
彼女が何を言っているのか、まるで理解できない。
この先の話を聞いても、余計に混乱するだけだろう。
彼女の話を──聞きたくない。
「もう、よせ」
「……」
「これ以上何かを話されても……俺には分からない」
「それを、その分からないことを、貴方は理解する必要があるんです。直ぐに、とは言いません。ゆっくりで構わないです」
「……」
「……でも、覚えておいてください」
彼女は俯き気味だった顔を僅かに上げた。
一瞬だけ子元を見遣ると、その視線は直ぐに地に落とされた。
その一瞬に見た彼女の瞳は、まるで生きる気力を無くしたかのような──そう、あの時の、自分が傷付けてしまった時の蒼燕の瞳に似ている、絶望を宿したような瞳がだった。
そして再び、一片の花弁、ゆらりと舞い落ち、ふわりと消える。
「あと二年……いえ、あと一年。それまでに、貴方が何も理解しようとしないのなら……その時は」
さらに、もう一片。
「私は、貴方を殺さなくてはなりません」
──そんな呑気にしてると、桜に喰われるぞ。
──お前が知らなければならないことだ、司馬子元。
心に響くは、漢中で対峙した、姜伯約の言葉。
それが今になって、漸く理解でき。
「そういうこと……か」
子元は、彼女の言葉にさほど驚いた様子もなく、ぽつりと言葉を漏らした。
いや、驚かないのではなく。
そう言う彼女の手が微かに震えているのに気付いていた子元は、彼女はそんな事をしないだろうと、彼女はその結末を望んでいないのだろうと、確信を持っていたからだった。
「……知ればいいんだな」
黙り込んでいる彼女を静かに見つめながら、子元は言葉を紡いでいく。
「俺がその意味を理解すれば、お前に辛い役目を背負わせなくても済むと、そういうことなんだろう」
片目しか見えない彼女の瞳が、僅かに見開かれる。
そして同時に、小さな光が宿った。
「……して、くれる……んです、か」
雫が一筋、彼女の右頬を伝う。
「理解して、くれるんですか。突然、貴方を、脅すような言い方をしたのに……」
次は左頬から顎へと雫が伝い、地に落ちる。
初めて見る彼女の弱々しい一面に、子元は僅かに目を泳がせるが、それを誤魔化すように言葉を紡ぐ。
「俺にも役目があるのなら。
お前だけに背負わせたくない、からな」
その言葉が嬉しかったのか、救いだったのか。
緊張の糸が切れたように、彼女の両目からは次から次へと涙が溢れてきており、ぱたぱたと地に落ちていく。
「……ごめんなさい」
薙瑠は軽く頭を下げた。
彼を混乱させたことが、申し訳なくて。
そして──泣いている顔を、見られたくなくて。
「巻き込んでしまって……本当に、ごめんなさい」
頭を下げていることで、彼女の長い髪が力なく垂れ下がっている。
それがまるで、今の弱々しい彼女の気持ちを代弁しているかのようで。
子元はそんな彼女の頭を、軽く撫でてやる。
「謝るな。お前も人のこと言えないくらい……不器用だな」
「……はい」
「あの言い方では、流石に混乱する」
「……はい……すみません」
「だが……お前も辛かったのだろう。それは、伝わった」
「っ……はいっ……」
子元の顔には、微笑みが浮かんでいた。
何処か悲しそうな、寂しそうな、そんな微笑みではあったが。
それでも、彼は少なくとも、現状を受け入れる決心はできたということだろう。
桜の鬼や、〈六華將〉。
謎多き不思議な存在。
でもそれは、知ろうとしていなかったことの証である。
少しでも知ろうとしていたのなら、先程彼女が話していた言葉の意味も、少しは理解できたはずだ。
子元は桜の木を見上げる。
妖しく輝くこの木の近くにいたせいで気付かなかったが、桜の背後に覗く空は、既に暗くなっていた。
彼女が目覚めたことで、明日、改めてあの日の報告をすることになるだろう。
負傷した訳は分かったが、その後の、傷を塞いだ人物と、彼女を運んだ鴉のことはまだ何も分かっていない。
まずはそれを、あの日の出来事を知ることが、己の役割を知るための第一歩に──なり得るのだろうか。
「……子元様」
名前を呼ばれ、子元は彼女の方へと視線を向けた。
頭を上げた彼女は、目の周りを赤くしながらも、まだ何か言いたげな顔をしていた。
しかし、言おうかどうか迷っているようである。
それも当然だろう、つい先程彼を混乱させたばかりなのに、さらに情報を付け加えてしまったら余計に混乱させるだけだ。
そんな彼女の様子に気付いたらしい子元は、小さく微笑んだ。
「薙瑠、今日はもう部屋に戻っていいぞ」
「……でも、まだ何も……」
「お前がそれほどまでに様々な事を伝えようとしてるのは、俺が知らなすぎることが原因だろう。明日から、己でも調べる。だから今日はもう休め。……俺もそろそろ、部屋に戻る」
「…………はい」
子元の「戻る」という言葉があったからか、薙瑠は素直に頷いた。
そして二人は桜の木に背を向けて、中庭をあとにする。
ざわり。
僅かに木が揺れる。
その音が何となく気になって、子元は足止めた。
後ろを振り返っても、そこには変わらず〈逍遙樹〉があるだけだったが。
──もう、時間がない。
ふと、そんな声が聞こえた気がした。
「子元様……?」
静寂の中に響くは、彼の名を呼ぶ彼女の声。
「どうかしましたか?」
「いや……何でもない」
子元は何事もなかったかのように、再び背を向けて歩き出す。
薙瑠は不思議そうに彼を見ていたが、問うことはせずに、その後について行く。
〈逍遙樹〉。
その桜の木は、普通の桜と同様に、風が吹けば花弁が舞う。
しかし、その花弁は、地に落ちることなく消えてゆく。
全て、一片と残ることなく、宙に消えてゆく。
それはこの先の未来の暗示であり──この時間の、象徴とも言える姿だった。




