其ノ拾 ── 陰ニ隠レシ仇桜 (10/11)
陽光 在 故 陰影 在。
限 陽光 在、非 陰影 無。
金烏玉兎 輝 陰、隠 潜 仇桜 也。
【陽光が在れば、陰影も在る。
陽光が在る限り、陰影が無くなることはない。
金烏玉兎の輝く陰に、
隠れ潜むは仇桜。】
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朱色の柱や梁がむき出しになった建物の下、まばらに兵士の人影がある中に、青い髪をした女性が一人、手を後ろで組みながら立っている。
その女性──薙瑠は、目を丸くしている青年二人に、どこか気恥ずかしそうに小さな声で挨拶をした。
しかし、目の前にいる彼女の姿を信じられないようで、子元も子上も、言葉を失ったまま立ち尽くしている。
ふわりと風が吹き、三人の髪と華服を揺らす。
彼女のものも揺れるということが、そこに彼女が存在している証だ。
何も言わない彼らに戸惑ったのか、困ったような表情を浮かべる彼女。
「あ……あの、子元様、子上様、大丈夫ですか……?」
「……薙瑠殿……だよね?」
「はい、そうです」
「えっ? いつ? いつ目覚めたの!?」
漸く口を開いたかと思えば、いきなり駆け寄ってきて問い詰めてくる子上に、薙瑠は思わず一歩後ずさった。
「えっと、先程……半刻ほど前、です」
「なんで誰も僕達のところに知らせに来なかったの?」
「それは私が、自分の足で会いに行きたいと言ったからです」
苦笑しながら答える薙瑠。
彼女の言う「会いに行きたい」というのは、恐らく。
子上もその言葉の意味に気付いたようで、未だ微動だにしない兄を振り返った。
「兄さん、いつまで突っ立ってるの」
石造りの柵と青空の下に広がる都城内の景色を背に、立ち尽くしたままの子元。
薙瑠もそんな彼へと視線を移す。
二人の視線が交錯する。
瞬き一つせず目を見開いている彼が面白かったのだろう、薙瑠はふふっと小さく笑った。
「僕先に戻ってるね」
「あ……はい、気を遣わせてしまってすみません」
「薙瑠殿が謝ることじゃないよ。それに、あの時現場にいたのは兄さんの方だからね」
彼女に小さく微笑んでから、子上はすれ違いざまに手をひらひらと振りながら去っていく。
そんな彼に、薙瑠はぺこりと一礼してから、改めて子元の方を見た。
「……薙瑠」
漸く声を出せるようになったらしい子元は、小さくその名を呼んだ。
その顔は、張り詰めていたものが一気に解放されたからだろう、どこか泣きそうな表情になっている。
そんな子元のもとへ、薙瑠はゆっくり近付いてゆく。
低い位置で一つに纏められた髪が、動きにあわせてなびく。
そして一定の距離を保って立ち止まり、子元を見上げた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません、子元様」
微笑みながらも、どこか申し訳なさそうな表情の彼女。
さらさらしている青い髪と、吸い込まれそうな月長石のような瞳。
今は黒い眼帯を付けていないようで、長めの前髪の下からは白い肌が覗いている。
そんな純真可憐な容姿に似合う花柄の中着が羽織とともに舞う様は、紛れもなく彼女──薙瑠だ。
咄嗟に抱きしめたい衝動に駆られるが、拳を握ってぐっと堪える。
そんなことよりも、言わなければならないことがある。
──言わなければならないことが。
「……すまなかっ……」
「子元様」
子元の言葉は最後まで紡がれることなく彼女によって制止される。
薙瑠は彼が謝ろうとすることに気付くや否や、頭を下げる余地も与えずに、いつも通りの柔らかな声音で彼の名を呼んだ。
「謝らないでください。あれは、私自身が望んでそうしたことです。
……と言っても、優しい子元様はきっと、自分を責めているんでしょう。なので、謝らなくていい代わりに、私のお願いを聞いてくれませんか?」
「お願い?」
「はい」
楽しそうに言う薙瑠に、子元は半ば怪訝そうな表情を浮かべる。
あんなことがあった後だからこそ、何を言われるのか身構えているようである。
「なんだ……?」
「大したことではないんですけど、都城内を案内してほしいなって、思いまして」
「……は?」
予想外の言葉に、子元から素頓狂な声が出る。
「お願いって、そんな事でいいのか……?」
「はい。私、この都城がどんなところなのか、ちゃんと知りたいんです」
そう言いながら、子元の横を通り過ぎて石造りの冊へ歩み寄り、それに手を添えた。
そこから見える景色を、彼女は微笑ましそうに眺める。
魏国に仕える前は、人目を忍んでこの都城内で暮らしていたという薙瑠。
都城内にいたとは言え、彼女はこの日常の様子をあまり知らないのである。
青空の中から降り注ぐ、柔らかな金烏の陽光に照らされている、賑やかな洛陽の街。
子元にとっては当たり前だったこの景色は、彼女にとっては行きたくても行けなかった、憧れの場所だった。
それを理解したらしい子元は、景色を眺める小さな後ろ姿を振り返る。
角楼の影の中にいるからだろうか、微風になびく彼女の髪は、空よりも青く、そして暗い。
それが返って悲哀な雰囲気を漂わせており、触れてしまったらすぐに壊れてしまいそうな──それほどまでに脆い宝石が佇んでいるようだった。
──大切に、扱わねば。
「……薙瑠」
壊れないようにそっと、彼女の名を呼ぶ。
振り返る彼女は、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべている。
そんな彼女へ向かって、静かに右手を差し出した。
「行こう、案内する」
薙瑠は差し出された右手に僅かに目を丸くするも、その表情はすぐに嬉しそうに綻び。
彼の手にそっと、自分の手を重ねた。
「はい、よろしくお願いします」
芝桜揺れしひとときは、月に叢雲、花に風。
金烏の陽光を断つも叢雲、仇桜には陰落とす。
*
*
*
多くの民で賑わう、城と城門を繋ぐ一本道。
その左右には、装飾品や衣料品など、様々な物を売る商人の店が並ぶ。
もちろん食料も売られており、辺りには美味しそうな香りが漂っている。
そんな都城の中を、子元と薙瑠は並んで歩いていた。
間近で見る初めての光景に、目を輝かせている薙瑠。
どうやら彼女は装飾類に興味があるのか、陽光を受けて輝く装飾品や衣服の刺繍などによく目がいく。
「子元様! 綺麗ですねこれ!」
「ああ」
「素敵な刺繍ですね、子元様」
「ふ、そうだな」
「見てるだけで楽しいです……!」
「そうか」
右に行ったり、左に行ったり。
何か気になるものを見つけては彼方此方へ動き回り、楽しそうにはしゃぐ彼女の様子は、普段見られない一面だった。
可愛らしいと思う反面、少し可笑しくて、思わず笑いがこみ上げてきたようで。
「……ふ、ははっ」
子元は珍しく、声に出して笑った。
そんな彼の反応に驚いたのか、彼よりも少し前を歩いていた薙瑠は、目を丸くしながら子元を振り返る。
「ど、どうしたんですか?」
「いや、何でもない、気にするな」
肩を小刻みに揺らしながら笑う子元に何か言いたげな彼女だったが、初めて見る彼の笑顔につられて小さく笑った。
そしてふと、彼の耳元できらきらと光る銀色の輝きに気付く。
どうやらそれは耳飾りのようで、彼の耳には指輪のような形をした耳飾りが、左右にひとつずつ着けられていた。
模様も施されているようだが、陽光が反射しているせいで、どんな模様なのかはよく分からない。
「子元様、その耳飾り、普段からしているのですか?」
「ん? ああ、これか」
一転して真剣な眼差しで問いかけてくる彼女に、子元は自身の耳飾りに手を触れながら穏やかに微笑う。
「毎日してる。母上からもらったものだ」
「そうだったんですね。髪を結んでいなければ気付きませんでした。良く似合ってます」
いつもの、柔らかい表情で言う彼女。
久しぶりなその感じに、心臓が大きく波打った。
髪を結んでいるせいだろう、普段よりも開けた視界で見る彼女の笑顔が直視できず、思わず顔を背ける。
「そ、そういうお前も、眼帯してないほうが、似合って、る」
咄嗟にそんな事を口にした。
左側だけ伸びている前髪に遮られているために桃色の左目は相変わらず隠れたままだが、黒い眼帯を外していることで白い肌の部分が広がり、普段よりも表情が明るく感じる。
彼が直視できないのは、そのせいでもあるかもしれない。
「気分転換、です。たまには良いかなって、思いまして」
「そ、そうか」
「子元様と同じですね」
「……同じ」
「はい。お互いに、いつもと少しだけ違うことしてますから」
──同じ。
たった二文字の言葉だったが、子元の心を揺さぶるには十分だったようである。
髪を結んでいる子元と、眼帯を外している薙瑠。
意思的なのか、運命的なのか。
どちらにせよ、その小さな変化に二人は、特に子元は心をくすぐられたようで、彼女の「同じ」という言葉に敏感に反応する。
ついていけない自分の気持ちに半ば混乱しながらも、照れているであろう自分の表情を隠そうと、顔を背けながら片手で口元を覆っている。
道の真ん中で向き合う二人の周りを、横切ってゆく多くの民。
普通ならば、国を治める仲達の息子である子元には、頭を下げるなどして挨拶をするのが礼儀であるが、薙瑠と対面している彼は取り込み中だと察したのだろう、会釈をして通り過ぎてゆく。
そんな周囲の空気に、子元はようやく気付いたようで。
穴があったら入りたいとはまさにこのことだろう。
「ほ、他に行きたい所はないのか?」
「他ですか? そうですね……」
早口で問いかけるも、のんびりと周囲を見回す彼女に、この時ばかりはもどかしさを感じた。
どうやら彼女は周囲の空気には気付いていないようである。
薙瑠は暫く辺りを見回したあと、何かを思い出したように、あっ、と小さく声に出した。
「一箇所だけ、行ってほしいところがあります。でもそれは、最後で構いません」
「いいのか?」
「はい。ですので、今は子元様にまだ行けてない箇所を案内してもらえれば、それで十分です」
そう言ってふんわりと微笑む彼女。
その余韻に浸りたいところではあるが、今の子元にそんな余裕はなく。
「分かった、行くぞ」
「はい!」
半ば早口で告げたあと、子元は早歩きで彼女の横を通り過ぎていくが、薙瑠はそんな彼の後を嬉しそうに付いていく。
前を歩く、すらりとした彼の後ろ姿。
その動きに合わせて、華服と髪の結び紐が金烏の陽光を浴びながら、ふわりふわりと柔らかく舞っている。
言葉には出さない子元の、「楽しい」という気持ちを代弁しているかのようなその後ろ姿が、彼女は好きなのだ。
しかし、その反面。
心の中には陰が落とされていた。
都城内の散策は、確かに薙瑠自身の思いがきっかけになっていることに違いはない。
けれど、それはこれからのことに対する気分転換が主だった。
気分転換と言えば聞こえはいいが、言い換えれば〝逃げ〟である。
今は──今だけは。
子元の後ろを楽しそうに付いていく薙瑠は、そんな言葉を心の内で反復させていた。




