其ノ捌 ── 真ノハジマリ桜ニ眠ル (8/11)
『……辛くないの?』
頭の中に響く、幼い少年の声。
蹲りながら心の中で返事をする。
(……だれも、助けてなんかくれない)
声に出していないからか、彼からの返事はない。
今度はこちらから問いかけてみる。
(……なんで話かけてきたの)
『……それは……』
返事があった。
どうやら聞こえていない訳ではないらしい。
続けて言葉を紡ぐ。
もちろん、心の中で。
(……私が、可哀想だから?)
沈黙が訪れる。
しかし、僅かな間を空けたあとすぐに、少年の声が響いた。
『私が……あなたを助けたい』
(……え?)
予想もしない言葉に、思わず顔を上げる。
暗闇の中で蹲る自分の目の前には、幼い少年が立っていた。
幼いながらも白群色の洒落た華服を身に纏った少年は、肩まで伸びた灰色の髪の下から、綺麗な青い双眸を覗かせている。
その大きな瞳に、自分の姿が映り込む。
ぼさぼさしている、黒と青の混ざった髪。
ぼろぼろで、小汚い衣服。
生気の無い、濁った青い瞳。
彼とは明らかな差があった。
『皆が助けないなら、私が助ける』
少年は嘘じゃない、とでも言わんばかりに、じっとこちらの返事を伺っている。
けれど。
私は──それが〝嘘〟だと言うことを、知っている。
それが嘘だったから、私は彼にこう伝えたのだ。
──「嘘つき」と。
それが嘘だったから、私は殺されかけたのだ。
──自分を喰らっていた青年……茱絶に。
あれが嘘だったから、私は桜の鬼として拾われ──再会したのだ。
今目の前にいる、嘘をついた少年──司馬子元に。
未だ真剣な眼差しを向けている少年に、私は何て答えればいいのか。
もう一度、嘘つき、と言ってやればいいのか。
それとも────
『ありがとう、かしら』
突如、背後から別の声が聞こえる。
柔らかい女性の声。
座った状態のまま、後ろを振り返る。
目に映ったのは、水色の着物を身に纏う人物。
腰まである長い髪は自分と同じ青色で、何よりも特徴的なのが、前髪から覗く角だ。
「……あなたは?」
初めて声に出して問いかける。
思いの外凛とした自身の声音に驚き、ふと自分の姿を見下ろすと、先程までの幼い自分ではなく、華服を着た現在の自分に戻っていた。
『私が誰なのかは、あなたが一番良く知ってるはずよ』
「……蒼燕、ですか?」
少しの間を開けてその名を紡ぐと、彼女は柔らかく微笑んだ。
彼女は否定も肯定もしなかったが、私は彼女が蒼燕であると、確信を持っている。
何故ならば。
──彼女が、己の中にいる存在であるからだ。
『あなたは、これからどうするの?』
静かに問いかけてくる彼女。
すぐには答えることができずに黙り込んでいると、彼女がこちらに近づいてきた。
歩くだけで、ふわりと舞う髪と着物。
その妖艶な姿に、ついつい目を奪われる。
目の前まで来ると、彼女は中腰になってそっと右手を差し出した。
『立ち上がりなさい。あなたはこんなところに留まっている場合じゃないの』
彼女はその言葉をかけることで、私の背中を押してくれている。
そしてそれは、恐らく今回が二度目。
一度目は──
「……あのとき……茱絶に私が殺されそうになったとき、助けてくれたのは……あなただったんですね」
『ふふ、それはどうかしら』
楽しそうに笑う彼女を見ていると、自然とこちらも笑顔になる。
──前に、進まなければ。
彼女が差し出している右手を、自分の手で握った。
力強く手を引かれ、それにつられるように立ち上がる。
「今回助けてくれたのは……」
『そうね、私ととても深い繋がりを持つ人よ』
そう言ってにっこり笑う。
しかし、その笑顔にはどこか寂しさが浮かんでおり、未だ握られたままの私の手を、両手で優しく包み込んだ。
『私は、自分の罪を償うための役割を、あなたに押し付けてる。あなたの人生を利用することで、罪滅ぼしの手助けをしてもらってるの』
「……そうですね」
『あなたは、そんな私のことが……憎いんじゃない?』
考えたこともなかったその問いに、再び黙り込む。
私は、彼女──蒼燕のことを、憎いと思っているのだろうか。
その質問は、司馬子元という人物にも言える。
私は、彼のことを、憎いと思っているのだろうか。
正直なところ、その答えはよくわからない。
しかし、ひとつだけはっきりと言えるのは。
今の私が在るのは、彼女や彼がいたお陰であるということだ。
──けれど。
今ならわかる。
それらは全て──仕組まれていたものだったのだ。
一般的に言い換えれば、皆こういう筈だ。
それが運命なんだ、と。
「……ひとつだけ、質問してもいいですか?」
『いいわよ。何かしら?』
「なぜ、私を選んだのですか?」
私の質問に、彼女は僅かに驚いたような顔を見せた。
しかしすぐに、柔らかい微笑みへと変わる。
『あなたに、霊依り……〝霊依〟の素質があったから。
それに、実際に選んだのは私じゃなくて、咲耶よ。咲耶があなたの事を気に入ったの。
もちろん、あなたをちゃんと見極めて、選ぶに値すると判断した上で、ね』
────薙瑠っ!
突如背後から、自身の名を呼ぶ声が聞こえた。
聞き間違えるはずのない、彼の声。
振り返ってみるが、そこには既に少年の姿はなく、暗闇があるだけだった。
『そろそろ時間ね』
彼女はそう呟いた。
先程彼女が言った咲耶というのは、姫様──木花咲耶姫のことだろう。
己が選ばれるきっかけとなった、〝霊依〟という素質のこと。
それに関しては、一度姫様に話を聞いてみる必要があるかもしれない。
『行きなさい、桜薙瑠。私とはまたすぐに会えるわ』
彼女の手が、私の額に触れる。
その瞬間から、私の意識は徐々に遠のき、深い眠りに落ちたのだった。
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〝為 真 己〟与〝為 偽 己〟。
夫 則〝過去之己〟与〝現在之己〟而
〝人間之己〟与〝鬼之己〝也。
其 者 則 桜 薙瑠 也。
当人 知 其 今、桜 舞 散 其 時 既 不 遠。
【〝真の自分〟と 〝偽りの自分〟 。
それ即ち、〝過去の自分〟と〝現在の自分〟であり、同時に〝人間の自分〟と〝鬼の自分〟でもある。
それが彼女──桜薙瑠。
本人がそれを知った今、
桜舞い散るその時は、
もう、そんなに遠くない。】




