其ノ弐 ── 陽光在レバ陰影モ在リ (2/11)
人間 不能勝 鬼、
各国 為 鬼所 統治。
然而、護 人間 鬼 在。
其 鬼、進 時間 鍵 也。
【力なき人間が、鬼に敵うはずもなく。
国は次々と鬼によって統治されていく。
そんな中、鬼から人間を護る鬼がいた。
その鬼こそが、この物語の時を動かす鍵である。】
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逃げるように自室に入って、戸を閉める。
そしてそのまま、子元は戸にもたれかかった。
──やってしまった。
今まで何を言われようと、手を出すことは我慢していた。
そうすることで、自分に対する印象をより悪くしないように努力してきた。
──なのに。
子元はそのまま、その場にしゃがみこむ。
そして俯きながら、大きな溜め息をついた。
この世界には、人間以外にもうひとつ、別な種族が存在する。
それが鬼──ある時を境に、突然現れた奇異なる種族。
鬼と言っても、見た目は普通の人間である。
髪色や目の色が、人間ではあり得ない蒼や朱だったりする者もいれば、人間と同じ黒髪黒目の者もいる。
そんな彼ら鬼たちが持つ、様々な属性を操る不思議な力。
その力を以て、彼らは鬼の姿へと変化するのである。
故に、鬼は人間の姿と鬼の姿、ふたつの姿を持つ。
そして彼らは、その力のことを〈華〉と呼んだ。
鬼は誰しも、体内に視えない〈華〉を持つ。
子元も、子元の家族である春華や子上も、そして彦靖も。
鬼として生まれたものは、全ての者が等しく〈華〉を持っている。
しかし。
子元の〈華〉だけは、他の鬼とは違った。
違いができてしまった。
〈華〉を持って生まれたのにも関わらず。
〈華〉を咲かせられなかった。
──鬼の力を、使えないのだ。
正確には、使えなくしてしまった。
それこそが、彼が〈咲き損ない〉と言われる所以であり。
周囲との関係性に、亀裂を生じた原因だった。
ふと顔を上げ、子元は前方にある窓枠へと視線を送る。
自室を出る前と変わらず、仄かな陽光が差し込み、室内には暖かい空気が漂っていて。
この心地の良い気温ならば、自然の花はきっと、伸び伸びとその花弁を広げているだろう。
──叶うものならば。
自分も、同じ世界に行きたい。
内心で呟きながら、子元は己の胸元を掴んだ。
咲く事ができなかった〈華〉に、その思いを伝えるように。
しかし、その右手の擦り傷が目に入り、現実の状況を思い出す。
その擦り傷は、先程彦靖を殴ったことでできたものだった。
思わず手が出てしまった、自分の軽率な行動。
──いや。
思わず、ではない。
殺意を持っていた以上、あれは意図的な行動であると言えるだろう。
それによって、今の自分は処罰を待つ身である。
そしてふと、子元の頭の中では、その時に言われた言葉がふつふつと蘇ってきていた。
──〈咲き損ない〉のお前が、今更何を頑張っている?
──あなたの〈華〉は、二度と〈開華〉しないというのに。
──こんな息子がいては、恥ずかしいことこの上ないでしょうねぇ。
「……うるさい……」
己の中で反復する言葉に苛立ちを覚え、子元の口からは自然と言葉が紡がれる。
行きどころのない静かな怒りを、ただ言葉にして消化する他なかった。
「貴様は黙ってろ……!!」
「……兄さん?」
食いしばりながら言葉を発した直後、背後から呼ぶ声が聞こえ、子元はビクリと肩を揺らした。
その声は紛れもなく弟の子上のもので、そうと分かっていれば敢えて開けることもせず、子元はそのまま苛立ちを含んだ刺々しい声音で応答する。
「何だ」
「大丈夫……?」
「何がだ?」
「いや……話をしにきたんだけど、声が聞こえたから」
心配そうに、どこか力のない声音で言う子上だったが、今の子元には弟を気遣う余裕がなかったらしい。
話をしにきた、という単語のみを拾って、弟の問いかけに答えることなく話を進める。
「話って何だ」
「あ、えと……さっきの、あいつの事なんだけど」
「……ああ」
「殴ったこと、許すって……父さんが」
「……は」
都内で、しかも私情で暴力を振るうことは許されない。
ましてや相手は鬼──貴重な戦力だ。
それを殺そうとしていたにも関わらず、何の処罰も与えないという。
半ば信じられないその言葉に、子元は自嘲気味に笑う。
「何を今更……それは何だ、俺に気を遣ってるのか? それとも情けを掛けてるのか?」
「違うよ、父さんは最初から、兄さんの今の状況のことを何も悪く言ってない」
「当然だ。悪く言う言わない以前に、あの人は他人のことなど何も気にしないような人だからな」
「他人って……兄さんは家族でしょ、だから〝桜の鬼〟を探してるんだよ? 本当に他人だったら何もしてないよ」
桜の鬼、という単語に、子元は口を閉ざした。
俯き気味だった顔を上げて、虚ろに天井を見つめる。
彼の青白い瞳は暗く濁っていて、まるで何も期待していない、と言わんばかりの表情だった。
「……それ、一体いつになったら見つかるんだ?」
先程までの刺のある声音とは打って変わって、力のない声で子元は言葉を続けた。
「俺がこうなった時から……〈咲き損ない〉になってから、もう五年の年月が経った。
未だに見つからない。
というかそもそも、だ。
桜の鬼なんて……本当に居るのか?」
子元のその問いかけに、子上はなんて答えるべきなのか分からず、口を噤んだ。
というのも、子上自身、まだ見つからないという状況から、もう見つからないのではないかと思い始めていたからだ。
そんな弟の様子を、子元は敏感に感じ取っていた。
「子上、一人にさせてくれ」
「あ……うん、分かった。……ごめん」
子上は小さな声でそう言い、その場から去っていく。
小さくなる足音を聞きながら、何に対して謝ったのだろうかと、弟の紡いだ「ごめん」という言葉の意味を考えていた。
桜の鬼が見つからないという状況に対してなのか、或いは、もう見つからないと思っていたことに対してなのか。
どちらにせよ弟は、そもそも家族は、何も悪くないのだ。
あの人──父親も含めて。
子元は徐に、窓枠から差し込む陽光に向けて手を伸ばす。
逆光により、黒い陰影を纏う己の手。
今の自分は、この手のように、陽光の当たらないところにいる。
このままでは、〈華〉は咲かない。
「……桜の鬼……か」
その鬼は、二度と〈開華〉できないと言われているこの〈華〉を、〈開華〉させることができるらしい。
しかし、その鬼はある時を境に姿を消しており、以後、現在に至るまでの約四十年間、行方知れずになっていた。
そんな、存在するかどうかさえ分からない鬼が。
若し、本当に居るならば。
若し、本当に見つかったならば。
此の〈華〉は再び、陽光を浴びることができるだろうか。
陽光の当たる──この手の向こう側に行くことができるだろうか。
朱夏の始まりが訪れた、青々とした自然の世界。
しかし、子元のもとには、未だ青春は訪れず。
彼の中にある〈華〉は、陽光の当たらない、陰影の中に埋もれていた。