其ノ拾壱 ── 隠ノ神使【柊】(11/11)
とある部屋の中。
夜が更けている今、唯一ある窓からは月明かりだけが差し込んでおり、それに照らされるようにして、冷たい床の上にぐったりと横たわっている人物が居た。
手足を縄で拘束され、口元にも布が巻かれている。
突如、木材同士が擦れるような音を響かせて、ゆっくりと開かれる引き戸。
静寂な夜の中、その音はより一層大きく聞こえた。
姿を見せたのは、一人の男性。
彼は横たわっている人物の前にしゃがむと、顔を自分のもとに向かせるように、髪を掴みあげた。
青白くて短い髪の下から覗く、蒼玉のような瞳。
その瞳は、決して揺らぐことなく、彼の目を見詰めている。
「まだそんな顔ができるんですね。
もう全て実行済みだと言うのに……」
はぁ、と半ば呆れるような溜息をついたあと、彼は再び問いかけた。
「それともまだ、何か隠しているんですか?」
髪を掴んでいた手を離すと、彼はゆっくりと立ち上がる。
「あまり女性に手荒なことはしたくないのですが……」
そう呟いたあと、間髪を開けずに彼女の腹部を思いっきり蹴飛ばした。
「ぅぐっ……」
彼女の顔が歪む。
それを気にすることなく、彼は蹴り飛ばした腹部を、今度は上から踏み付けた。
何度も、何度も、何度も何度も何度も。
「ああそうでした。
あなたにいい報告がありますよ、氷牙さん」
踏み付けていた足を一度止め、彼はにっこりと笑いながら、苦しそうに顔を歪めている彼女の前にしゃがんだ。
捕らわれているのは、氷牙という女性。
彼は彼女の短い髪を片手ですくい、さらさらと弄りながら話をする。
「先日の昼の時間帯に、桜さんを見てきたんですよ、戦場で。それはそれは可愛らしい人でした」
氷牙は楽しそうに語る彼を、鋭い目つきで睨みつけている。
彼はその視線を気にすることなく、穏やかに話を続けた。
「けれど、あなたが話してくれた〈逍遙樹〉の結界を破ったら、綺麗に変化が解けました。結界を破っただけで力の供給が一時的に途切れるのですから、あの木を傷付ければ桜は戦えなくなる、というのはどうやら本当のようですね」
微笑みながら話し続ける彼。
しかし、突如その顔から笑顔が消えた。
そして、お互いの鼻が触れそうな位置にまで顔を近づけて言う。
「何度も言いますが、例えこの世界が偽りだったとしても、今の私達は間違いなく現在を生きている。あなたたちがやろうとしていることは、現在という時間を壊すこと──即ち、現在を生きる人々の生活を壊すことだ。
全てが無かったことになるから、記憶がなくなるから、何をやっても良いわけじゃない。あなた達からしたら、〈六華將〉の邪魔をする私達は間違っているんでしょう。でも、私達から見れば、あなた達のほうが間違っている。だから──孫権様は、あなた達の行動を徹底的に潰そうとしてるんです」
淡々と語る彼の瞳からは、何の感情も伝わらなかった。
彼はそれだけ伝えると、静かにその場に立ち上がり、部屋から出ていく。
戸が閉まる音が響いたのち、辺りは再び静寂に包まれた。
横たわった状態のままの氷牙は、窓枠から射し込む月明かりを背に感じながら、静かに瞳を伏せた。
──正論だ。
彼の言うことは、本当に正論だ。
そう思ったから……〈六華將〉しか知らない情報を話した。
最初は絶対に話さないと、誓っていたけれど。
日々拷問されることも、特に何とも思わなかったけれど。
でも、彼の、あの言葉を聞いたら。
(間違っているのは、私達……)
本当に、その通りだと思う。
現在を生きる人々──即ちこの世界で暮らす人々は、皆被害者だ。
私達が防げなかったから、〈華〉がこの世界に咲いてしまったのだ。
謂わば私達は、自分達が犯した罪を償うために、現在という時間を壊そうとしている。
自分達の都合のためだけに──ひとつの時間を壊そうとしているのだ。
そう言っても過言ではない。
──でも。
それでも。
これは〝偽り〟なんだ。
偽りは正しく直さなければならないんだ。
それが、現在を生きる〈六華將〉の──存在意義なんだ。
だからこそ、〈逍遙樹〉を他の木に遷すことができるという事実は言わなかった。
それすら黙っていれば、あとはどうとでもなる。
そして思惑通り、彼らは〈逍遙樹〉を見つけ、桜の弱点を知り、それを利用しようとしている。
他の場所に遷るなんて、微塵も思っていないようだった。
抗いたいなら抗えばいい。
所詮運命には、誰も抗うことはできないのだから。
ただ、その術を与えてあげることが、彼らへのせめてもの償いだと思った。
──そう、全て、思惑通りなんだ。
傍から見れば今の自分は、拷問すれば死ぬことを恐れて情報を吐く、みっともない操り人形のように見えているだろう。
けれど。
それは表向きだ。
本当に操っているのは──私。
呉国は、私の傀儡に過ぎない。
それが、私達の。
桜を護る鬼としての、役割なのだから。
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隠之神使 動。
護 桜、為 正 偽 而 為 真。
然而、汝 不 可 忘。
被 護 桜。負 最後之役目 桜。
其 桜、生 現在 一被害者 也。
【隠の神使が動き出す。
桜を護り、偽りを真へと正すために。
しかし、忘れてはならない。
護られる立場にある桜。
最後の役割を負う、三人目の桜。
その桜も、現在を生きる、被害者の一人であるということを。】




