其ノ壱 ── 咲キ誇ル華ト咲カズノ華 (1/11)
群雄割拠之三国時代。
今 天下 三分、
人間 相攻伐、異端者 在。
夫則〝鬼〟──扱 妖術、
操 水炎等 乃 得意 属性〝妖怪〟也。
【時は群雄割拠の三国時代。
人間同士の争いの中、異端な者が存在した。
それ即ち〝鬼〟──妖術を扱い、水や焔等の自らが得意とする属性を操る〝妖怪〟である。】
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青春が終わりを告げ、新たな季節・朱夏の始まり。
そんな時期の、穏やかな昼下がりの時刻。
洛陽にある建物の一室から、外の世界を眺めている人物が居た。
幾何学な方形の彫刻が施された、朱色の窓。
その向こうに広がる青空を、彼は静かに見上げていた。
肩甲骨の辺りまで伸びた、灰色の髪。
その前髪は左目を覆い隠しており、何処か神秘的なものを感じる青白い瞳は、右目しか見えていない。
顔に怪我でもしているのか、と思わせるような前髪の伸び方であるが。
窓から入り込んだ柔らかな風が、彼の前髪を揺らしたとき。
その全貌が顕になる。
傷ひとつない、綺麗な肌。
そして何より、男女問わず魅了されてしまいそうな、整った顔立ち。
彼はまさに、眉目秀麗という言葉に相応しい容姿を持っていた。
そんな彼の静かな時間を邪魔するように、戸を叩く音が室内に鳴り響く。
「子元、少し良いかしら」
柔らかい女性の声。
子元と呼ばれた彼は、その声に応じるように戸を振り返る。
空色の華服と灰色の髪が、動きに合わせてふわりと揺れ、その服にあしらわれた銀色の刺繍は、外からの光を受けて小さく輝く。
そんな華麗さとは対称的に、彼の顔には陰りを含んだ、険しい表情が浮かんでいた。
彼には声の主が誰なのか分かっていた。
だからこそ、戸を開けることもせずに、半ば棘のある声音で返事をする。
「……なんですか」
「たまには子上と、手合わせしない?」
「しません」
戸の向こうから聞こえてくる声を、子元は一刀両断する。
しかしそれは、相手を思っての発言だった。
「私が行けば迷惑になるでしょう。
あまり子上に気を遣わせたくないんです、母上。
それに……子上の相手なら、いつもあの人がしてるのでは」
「旦那様は今日は忙しいみたいなの。
だから代わりにあなたとできるって、子上……喜んでたわよ?」
「……」
普段と変わらず、明るい調子で会話をする彼女は、戸の前で柔らかい笑みを浮かべている。
そんな彼女とは対象的に、子元は神妙な面持ちをしていた。
木製の戸を一枚隔てているだけだが、そのたった一枚は、二人にとって、特に子元にとっては、とても厚い壁のようだった。
暫く黙ったまま戸を見詰めていた子元だが、ようやく母と顔を合わせる気になったのか、ゆっくりと戸へ歩み寄り、そして静かに開ける。
戸の前にいた子元の母、張春華は、戸が開いたことに少し驚いたような顔を見せるも、すぐに柔らかく微笑んだ。
子元とほぼ変わらない身長を持つ彼女は、女性にしては背が高いほうである。
特徴的なのは、その髪の色。
腰のあたりまで伸びているふわりとした髪は、深海のような深い青色をしている。
そしてその瞳も、同じ青。
そんな母の笑顔は、今の子元にとっては眩しすぎるもので、彼は逃げるように視線を逸らす。
「ふふ、今日は素直なのね、子元」
「……子上が、俺を必要としてくれているのなら」
「それは子上限定なの? 私や旦那様も、いつもあなたを求めてるわよ?」
「……言い方に語弊があります、母上」
目も合わせず会話する子元は、同時に心の中でこう呟いた。
あの人──父親に関しては、自分を求めている訳がないだろう、と。
「子上が待ってるわ。そろそろ行きましょう?」
「……はい」
春華は踵を返して、何処か嬉しそうに廊下を歩き始める。
後ろ手に戸を閉めた子元は、先を行く母の後ろ姿を見つめながら歩き出す。
青い髪と、子元と同じ空色の華服を揺らす母。
──母と弟だけは、自分の味方をしてくれた、数少ない存在。
そのことを胸に秘めながらも、母の後ろを歩く子元の顔には、陰りのある表情が浮かんでいた。
*
*
*
「あっ、兄さん! 待ってたよ」
春華と子元が向かった先は、小さな自然の空間だった。
朱色の柱で構成された回廊と、少しの黄土色装飾が施された白壁の建物に囲まれた、小さな庭。
透き通るような青の下、暖かな金烏の陽光に包まれたその場所の中心では、大きな樹木が一本、深緑の葉を揺らしながら佇んでいる。
その木の下で、兄である子元を待っていた子上は、兄の姿を見るなりすぐに彼のもとへと駆け寄った。
母よりも濃い青、藍色の短い髪が動きにあわせて揺れる。
気持ちが顔に出にくい子上だが、彼の表情の僅かな変化に、家族は敏感に気付く。
だからこそ、駆け寄ってきた子上の顔には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいることに、春華も、そして子元も気付いていた。
「久しぶりに手合わせしよう、兄さん」
「分かってる。その為に来た」
「そうだよね、じゃあこれ」
子上は手にしていた二本の木刀のうち、一本を兄へと手渡す。
子元はそれを受け取ると、弟の真っ直ぐな視線から逃れるように、木刀へと目線を落とした。
「……で、昔みたいにやればいいのか」
「あ……うん、昔みたいに、やってくれればいいよ」
昔、という単語に、その場の穏やかな空気が僅かに陰りを見せた。
それを誤魔化すように、子元は言葉を紡ぐ。
「分かった。任せろ」
「本気でやってね、兄さん」
「ふふ、頑張ってね。私もここで見物させてもらうわ」
春華はそう言いながら木陰へと歩み寄り、木の根本に腰を下ろした。
二人はそれを見届けると、静かに互いの距離を取る。
そして向き合うと同時に、木刀を己の前で構えた。
樹木を堺に、左右に立つ兄弟は静かに見つめ合う。
風が木の葉を揺らす音。
その音に耳を澄ませ、子元は目を閉じる。
肌を撫で、髪を揺らす柔らかいそよ風に身を任せながら、昔の記憶を辿っていく。
瞼の裏に浮かべるのは、毎日のように子上と手合わせをしていた、あの頃の記憶。
今日と同じこの場所で、子上と共に、父から剣術を学んでいた、あの頃の記憶。
今はもう──亀裂が入ってしまった関係性。
風がやむと同時に、子元はゆっくりと目を開けた。
前方にいる子上を見据えれば、静かに交錯する二人の双眸。
「行くぞ」
「行くよ」
ほぼ同時に言葉が紡がれたその直後、木刀同士がぶつかる乾いた音が鳴る。
手合わせとはいえ、お互いに本気の剣捌きを繰り広げる様子は、見ていて感心させられるものがあり、そんな息子たちの成長を春華は心内で喜んでいた。
木刀同士が交錯する。
その度に己の思いを一撃に込める。
兄に負けない、という子上の想い。
そして──〝鬼〟に負けない、という子元の想い。
それぞれが、それぞれの想いを胸に秘め、木刀を打ち合った。
互いの一撃同士がぶつかり合い、鍔迫り合いになったとき。
至近距離で二人の双眸が交錯し、同時に後ろに退いて距離を取った。
「上達したな、子上」
「兄さんも、全然引けを取らないよ」
「……そうか」
子元は右手に握る木刀へと視線を落とす。
そして心内で呟いた。
──そんなわけがない。
弟との力の差は、ほぼ互角。
剣捌き、身の熟し、何をとっても大して差はないだろう。
だが、それはあくまでも、子上が力を抑えている場合に限る。
二人の間──否、子元と家族の間には、決定的な違いがあった。
正確には、違いができた。
そのことが、関係性に亀裂を生じる原因となり。
──周りからも蔑まされる、状況を生んだ。
「面白そうなことをしてますね」
それは子上でも春華でもない、第三者の声。
彼は回廊の片隅で、二人の様子を傍観していたらしい。
男は子元の背後から、ゆっくりと二人に近付いてゆく。
「私も混ぜていただけませんか?」
「何? 邪魔しないでくれない?」
男を鋭い視線で睨みつけながら、子上は棘のある声音で応じた。
その男──丁彦靖は、子上たち家族にとって、亀裂を広げる杭のような存在で。
「子上殿。あなたも私が相手のほうが本気を出せるでしょう」
「今は兄さんがいるから必要ないんだけど」
「手加減することが修行になると?」
「お前、いい加減に──」
「おい、貴様」
子上の言葉を遮った子元は、子上の前に立ちはだかって彦靖を睨みつける。
子元には、彼の目的が己であるということが分かっていた。
「言いたいことがあるならば直接言え」
「ならば言いわせていただく。
〈咲き損ない〉のお前が、今更何を頑張っている?」
彼の言う、〈咲き損ない〉。
その状況こそが、子元と周囲の関係性に、亀裂を生じさせた原因だった。
その出来事から既に五年の月日が流れており、今や子元はそういう類の嫌味に慣れてしまっていた。
だからこそ、何を言われようが彼の表情は揺らがない。
「何をしようと、あなたの〈華〉は二度と〈開華〉しないというのに」
「人間はもともと力を持たない。
それでも各々鍛錬して、戦場に向かう。
それと同じだろう。何が悪い?」
「人間と同じ……鬼でありながら、人間と同程度の事しかできない……? はははっ! あの司馬仲達も、こんな息子がいては、国を治める者として恥ずかしいことこの上ないでしょうねぇ」
直後、辺りに鈍い音が響く。
同時に、春華と子上が息を呑んだ。
彦靖が言葉を紡いだ直後、子元は彼を殴っていた。
その場に思い切り倒れ込む彼を、子元は更に殴ろうと掴みかかる。
人を殺しそうな目付きに変わった兄を見て、危険な空気を感じ取った子上は、振り上げる子元の腕を掴んで制止する。
「に、兄さん! 駄目だよ、落ち着いて」
「……は、今の言葉を聞いても耐えろと?」
「気持ちは分かる! けど……!」
殺しちゃだめだ──その一言が言えず、子上は口を噤む。
子元の、彼に向ける感情は、怒りではなく、殺意。
それも本気で殺さんとしていることに気付いたからこそ、子上は兄を止めた。
しかし、その殺意ある行動を止めるということは、殺すなという意思表示に他ならない。
それが今の兄にとって、いかに耐え難いものであるのかを理解していた子上は、どこか辛そうな顔で兄を見ていた。
そんな子上の気持ちを察したのだろう、子元は彦靖の胸ぐらを掴んでいた左手を離す。
そしてその場を去ろうと、彼に背を向けて歩き出した。
その時だった。
「……この野郎……!」
彦靖が上身を起こし、子元に向かって右手から何かを放った。
振り向いた子元の瞳に映ったのは、己に向かって飛翔してくる──無数の氷の刃。
避けきれない──そう思った直後。
子元の目の前に何者かが立ちはだかり、その刃を弾き返した。
弾き返された氷の刃は、彦靖の周囲の地面にザクザクと突き刺さり、そして粉砕する。
「こんな場所で力を使うなど……どういうつもりだ、貴様」
立ちはだかった人物。
漆黒の髪と金色の刺繍が入った黒の華服を靡かせている後ろ姿は、子元が一番、会いたくない人物の姿だった。
「殴られたので、己の身を守ったまでですが」
「……」
立ち上がりながら平然と答える彦靖に対し、漆黒の彼は何も言わず、静かに彦靖を睨みつけていた。
そしてすぐに、その視線の先は彼の背後にいる子元へと向けられる。
彼が振り返ったことで子元と彼の視線がぶつかりそうになるが、二人の視線が交錯する前に、子元が顔を背けた。
「……何故殴った」
「……」
「答えろ、子元」
「私を処罰するならすればいいでしょう」
それだけ吐き捨てるように言うと、子元は逃げるようにその場を立ち去る。
──何故。
速歩きで、歯を食いしばりながら、拳を強く握る。
何故──俺だけがこんな思いをしなければならない──……
そんな彼の心の叫びは、誰にも届くことなく、己の内で反復した。
咲かずの華は、咲く華と並ぶべきではない。
その事実が、彼の肩に重くのしかかっていた。