其ノ玖 ── 神子ハ神ノ御心ヲ知ラズ (9/11)
〈空間変化〉が解かれ、もとの薄暗い広間の姿に戻った後、仲達は解散を告げた。
薙瑠も人間の姿へと戻っており、桜の鬼が創り出す幻想的な空間は跡形もなく消え去っていたものの、その場にいた者の記憶にはしっかりと刻まれただろう。
現在、大広間に残っているのは仲達と神流、そして子元と薙瑠の四人である。
それ以外の人物が広間を後にしたのを確認したところで、神流は両手を上に上げて伸びをする。
「子元の件は、これで一先ず落ち着いたわね。
で、仲達、どうするの?」
「事前に言った通りだ。お前がやっとけ、俺は暇じゃねぇ」
神流の問いかけに、仲達は眉根を寄せてそう答えると、すたすたと広間から出て行った。
そんな彼の後ろ姿を、神流は半ば呆れたように溜息をつきながら見送る。
「全く、自分の息子の事になるといつもああなんだから……」
まあ息子以外の事でもあんなんだけどね、と小さく呟いた後、神流は子元と薙瑠の二人に向き直った。
「この後の話なんだけど、仲達に言われたことをそのまま伝えるわ。
薙瑠ちゃん、あなたはこれから子元の側近として仕えることになるの。良いかしら?」
「はい、構いません」
「……ちょっと待て」
驚くこともなく答える薙瑠に対し、子元は理解できないとでも言うように待ったをかけた。
「何故今更、俺に側近を……? あの人は何を考えてる?」
「何よ? さっきの話を聞く限りはあんたが喜ぶ話だと思ったのに」
「さっきの? なんの話だ……?」
怪訝な顔をして尋ねる子元に追い討ちをかけるように、神流は悪戯な笑みを浮かべて言った。
「あんたが薙瑠ちゃんに対して『嫁になれ』って言ったことよ」
すっかり忘れていたらしい子元本人は、その一言で僅かに顔を赤くする。
「なっ……聞こえてたのか……!?」
「薙瑠ちゃんから聞いたのよ」
「まさか……あの人に」
「言った」
その一言でとどめを刺された子元は、最悪だ……と片手で顔を覆うが、それに反論する気力は残っていなかったらしい。
そんな子元の様子を、神流は面白そうに眺めている。
「あ……あの、話が逸れてます……」
二人に横槍を入れたのは、言うまでもなく薙瑠だった。
しかし、その声音には何処か気恥ずかしさが混ざっており、顔も僅かに赤みを帯びている。
そんな彼女の顔を見てしまったせいで、子元は自分のしたことに対する羞恥を認める他なかった。
「……お前にそんな反応されると余計恥ずかしくなるだろうが」
「え……す、すみません……!」
「薙瑠ちゃんは悪くないわよ、悪いのはあんただからね?」
「うるさい分かったからさっさと話を戻せ」
「ふふふ、そうね、薙瑠ちゃんの為にもこの話はここまでにしとこうか」
早口に言う子元の訴えに、神流はくすくすと笑いながらも応じる。
それに対してほっと胸をなでおろしたのは薙瑠の方だった。
「さて、話を戻すわね。
仲達があんたに今更側近をつける理由は一つだけよ」
一転して真面目な声音で、神流は言葉を続けていく。
「〈開華〉をしたら鬼として役目を全うしてもらうため。
今までできなかった分、これから活躍しろってことよ」
「……」
──分かっていた、結局そういうことなのだろうと。
〈開華〉をしても、役立たずであった事実が消えるわけではない。
〈咲き損ない〉の時期の努力は、自分のためにしかなってないのだ。
そんなことを考えながら黙る子元を見て、神流は溜め息をついた。
「子元、あなたは父親を誤解しすぎよ」
「……は?」
「ただ側近をつけるだけなら、別に桜の鬼じゃなくてもいいわけ。
それなのに仲達は、伝説の鬼とまで言われた桜の鬼を、他でもない あなたの側近にした。
もちろん役目を全うしてもらいたいのも嘘じゃない。
だけど、本当の理由はそうじゃないのよ」
そして神流は、僅かな間を開けて。
子元の目を真っ直ぐと見ながら、はっきりと。
「あなたになら、桜の鬼を任せられるから」
子元の瞳が、大きく見開かれる。
ぱりぱりと砕けるような音を響かせながら、見えない壁が壊れていくような、そんな感覚に襲われた。
それも当然だろう。
その言葉は、彼が父に求めていた、自分を認めてもらうという事に、他ならない言葉なのだから。
「仲達はね、あなたが思っている以上にあなたのことを気にかけてる。
確かにあんな奴だから、それすらも伝わらなかっただろうけど……あなたの視界が曇っていたのもまた事実、よね。
それに、彦靖の一件のおかげで、仲達が気にかけてくれてたってこと、もうとっくに気づいてるんじゃない?」
そう言う神流の後ろでは、方形の幾何学模様の窓枠から、暖かな陽光が差し込んでいて。
空気に反射して、きらきらと輝いている。
この光景は広間に来た時から全く変わっていないのだが、子元には今までより、一層明るくなったように見えていた。
身近な光景にさえ気付けないほど、自分の視界は見えない壁によって遮られていたらしい。
「仲達はあんたの思いに応えたわ。薙瑠ちゃんがここにいる事が、その何よりの証拠。
今度はあんたから、父親の想いに気づいてあげる番よ」
神流は笑顔で、子元の肩に両手をぽんと乗せた。
その横で、薙瑠も微笑みながら二人の様子を見守っていた。
そんな彼女たちを見て、子元も自然と柔らかい表情になる。
「お前にそんな事を言われるほど俺は……他人との関係を避けていたみたいだな」
「ほんとね、あんたのその柔らかい表情、初めて見たわよ」
「いちいち五月蝿い奴だな……」
再び言い合いを始める二人を見て、薙瑠はくすり、と笑う。
「なんだか羨ましいです」
「ん? どうしたのよ薙瑠ちゃん」
「いえ……なんだか、理解し合っている関係は羨ましいなと」
「俺はこいつとそんな関係になるのは御免だ」
薙瑠の言葉に対して子元は即答する。
あんたに言われたくないわね、と神流も反論した。
「それにね薙瑠ちゃん、理解し合っているっていうなら仲達と子元みたいな関係を言うのよ」
「仲達様と子元様の関係……ですか?」
きょとんとする薙瑠に対して、神流は頷いたものの、何か他に思い当たることがあった様で、直ぐにそれを否定する。
「訂正するわ。父親は息子のことをよく理解してるけど、息子は全く駄目。まさに親の心子知らず。他人を理解することがどういう事なのか知りたいなら、子元よりも仲達を見習いなさい」
「仲達様、ですか」
ふむ……と真剣に考える薙瑠とは対照的に、一方的に自分のことを悪く言われて子元が黙っているわけもなく。
「お前はさっきから俺を貶して何がしたい?」
「じゃあ聞き返すけど、あんたのどこが父親を理解してる態度なのよ? それに、さっきの〈開華〉の時、仲達が何故敢えて大勢の前で見せたか分かってる?」
返された質問に答えられる筈も無く、子元は拳を力強く握りしめながら押し黙る。
そんな子元の様子に神流は再びため息をついた。
「……あのね、あそこに集まっていた輩は皆、あんたの事を悪く言ってた奴等だけよ」
「……!」
「〈蕾華〉のままのあなたを……〈咲き損ない〉のあなたを、陰で悪く言ったり、鬼の力を使えないからと見下したりして……どういう扱いをされてたかはあなた自身が一番良く分かってるはず。仲達はそれをしっかり把握してたの。
だからあの場に呼んで、あんたが〈開華〉したことを見せつければ、もう誰もあんたを見下したりしない。そう分かってたからよ」
その言葉に、今まで考え込んでいた薙瑠も顔を上げて感心したように頷く。
「なるほど……その話を聞いて、私も一つだけ思い出したことがあります。仲達様と子元様が、手合わせをしてた時のことなんですけど……」
「……手合わせ?」
全く心当たりがないとでも言いたそうに尋ねてくる子元に、薙瑠は優しく微笑んだ。
「はい、攻撃の手を止めたとき、仲達様はこう言いましたよね。
今は弱すぎる、相手にならない……と。
それって、これから強くなると確信していたからこそ、そう言ったのではないでしょうか」
そんな彼女の言葉を聞き、ふっ……と自然な笑みが溢れる。
──本当に、敵わない。
内心でそう呟きながら、窓の外へと視線を向ける子元の表情には、悔しさは全く見受けられない。
穏やかな子元の表情に、神流も安心したらしい。
彼女の顔もまた、柔らかい微笑みに包まれていた。
神流も、子元の力の暴走が起きた時に、その様子を目にしていた当事者だ。
だからこそ、彼女も仲達と同じように、子元の事を心配していたのである。
薙瑠はその事を知っていた。
知っていたからこそ、今の二人が心から笑顔になれていることを、嬉しく感じていた。
広間に差し込む光は徐々に明るくなっており、時間の経過が伺える。
時刻は午の刻、金烏が真上にある頃だろうか。
「さて、言いたいことは言えたし、私はあいつの所へ帰らなきゃだから、今日はこの辺で終わりにしましょ!」
「……ああ」
「そうですね」
元気よく言う神流の言葉に、二人は頷きながら同意する。
「神流様、また近いうちに……会えますか?」
「当たり前じゃない。呼んでくれればいつでも会いに来るから、子元や仲達にでも頼みなさい!」
「そうですか、良かったです」
不安そうに尋ねた薙瑠だったが、神流の明るい返答を聞き、安心したように微笑む。
「薙瑠ちゃん、子元のこと、頼んだわよ」
「はい、お任せください」
薙瑠の返答を聞き、後ろで一つに纏めている髪を翻して広間から出て行こうとする神流を、子元が静かな声で呼び止めた。
「神流」
「……何?」
振り向きながら答える神流に、子元は軽く頭を下げた。
「……礼を言う」
「珍しいわね。でも……今回ばかりは、あんたに礼を言われるのも、悪くないわ」
ふふ、と微笑む神流。
そんな彼女は、ひとつに結っている白銀の髪を優雅に揺らしながら、広間を出て行った。
「俺達も戻ろう」
「はい」
「お前はもう……この建物内は把握してるのか?」
「全てではありませんが、ある程度は神流様から案内していただきました」
「……そうか」
自身の側近になった彼女と他愛もない会話を交わしながら、子元たちも広間を後にする。
大広間。
今は静寂が訪れたこの場所に、何処からともなく現れた桜の花弁が舞う。
三国鼎立の世は既に、葉桜が覗く朱夏の季節。
この洛陽にはようやく、青春の訪れが告げられたようだった。
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桜 咲 花 於 此時間。 夫 則 合図 也。
忠告 生 現在 者 焉。
自 鬼 現 於 時間、
生 現在 者 過 全 時間 者 啓示 偽 焉。
主従 之 信頼、親子 之 絆、己 之 想。
其等 全部偽也。
現在 偽之物語 之 時間 焉。
生 其時 者、知 其 迎 終焉 時 也。
【もともとは人間だけだった時間に、花を咲かせた桜。
──それは合図だ。
現在を生きる者への忠告だ。
鬼がこの世界に現れた時を境に、彼らが過ごしてきた時間は全て、〝偽り〟であるという啓示だ。
主従の信頼、親子の絆、そして異性へ抱く愛情──これらも全て偽りだ。
そんな偽りだらけな物語の時間にいるという事を、現在を生きる者たちが知るのは、物語が終焉を迎える時になるだろう──】




