第一話
霊峰ルゥ・ガルデの麓に位置する小さな村があった。夜明けと共に目覚め、畑を耕し、隣人と語らい、神に祈りを捧げ、日没と同時に眠る。そんなありふれた貧しくも素朴な村だ。
その日はいつもと変わらないはずの一日だった。ただその日だったというだけで、昨日であろうと明日だろうといつもと変わらない一日だったと言われたに違いない。
村人はいつも通りの営みをなぞり、昼食を摂り終えたところだった。束の間のひと時、突如ズン、と巨人が足を踏みしめたかのような衝撃が大地を揺らした。小刻みな揺れはすぐに立つことすらままならない程の大きな揺れに変わる。外に出ていた者たちは地に這いつくばるようにして怯えた。食卓を囲んでいた家族は抱き合うようにして身を寄せ合った。誰もが祈りを唱えながらひたすらに耐えた。
地震はすぐに収まったようにも思えるし、長い時間揺れ続けたようにも感じた。揺れが収まると村人たちは倒れた家具もそのままに外へと飛び出す。
それは家屋が倒壊することへの危機感や隣人の無事を確かめるためではなく、恐れからくるものだった。
村人達の胸中には漠然とした不安がずっとわだかまっていた。それは災厄への恐れ。
それはいつ目覚めるかはわからない、もしかしたら目覚めることはないのかもしれないと自らに言い聞かせるように繰り返してきた日々。
ただ現実から目を逸らしていただけだったが、それも仕方がなかった。街から遠く離れたこの村は元を辿れば街から追放された者やはぐれ者が寄り添い集落を作ったことに由来する。外部との交流も少なく細々とした日々の暮らしの中で村を離れて生活を新たにする程の蓄財ができるわけもなかった。
どこにも行き場などなく、死ぬまでこの土地で暮らし続けるしかない、初めから選択肢など無いに等しい現実。
だから恐れを抱きつつもついぞこの時がやってきたのかと逃れられない運命を受け入れた。
霊峰ルゥ・ガルデが体の芯にまで響く爆発音と共に黒煙を吹き上げた。
遅からず溢れだす火の河がこの村を焼くだろう。だが、もっと恐ろしいモノが山の頂より生まれ出ることを知っていた。
燃え盛るような炎の咆哮が轟いた。
それは竜の覚醒め。
山の憤怒が100年の時を経て孵卵した。
剣や斧、盾や軽鎧が立てる金属質の演奏と飛び交う怒声や下品な笑い声が合唱となった騒々しい音楽を奏でている。
酒場兼クエスト受注所であるギルド館は冒険者で溢れかえっていた。その喧騒の中で俺はぬるい麦酒をちびちびと飲りながらぼんやりと椅子に座っている。
時刻はまだ昼を少し過ぎたばかり。冒険者達がこのようにごった返すことは珍しい、というか普段ならばありえない。
何故かといえば竜が現れたからだ。
特定竜種災害――流脈より溢れだした膨大な魔力が自然的脅威を竜の形として結実させる現象──における非常措置により王国より冒険者の招集がかけられたのが数日前。
その結果が今現在の冒険者ひしめくむさ苦しい現状だ。さして広くもないギルド館に冒険者が大量に押しかけて詰まっているのは見苦しい事この上ない。
冒険者なんてヤクザ商売をやっている人間達なので品性なんてものは欠片もありゃしない。
声はでかいし汗臭いしガラも悪い。今も肩がぶつかったのどうだで怒鳴り合っている奴らが目に入る。
そんなうんざりする光景から目を逸らすためにちびちびとやっていたが杯もそろそろ空になる。
しかしこの混雑では給仕を呼ぶのも難しい。受付と酒場を一緒にするなんてアホじゃねえのかと思う。想像力が足りなさすぎるだろ。
まあそれも仕方がないことだとは思うが。なにせ冒険者ギルドが生まれたのは最近のことだ。
六年前に長きに渡る統一戦争が終わった。
王国は戦災難民や職を失った傭兵達が野盗化することを危惧した。少しでもそういった者らを抑えるために与えられたのが冒険者という身分だ。
これは破落戸に毛が生えた程度のものでしかないが、最低限の保証――官営の宿屋や武器防具店の斡旋など――と仕事が受けられるようになるだけでもだいぶマシだ。さらに未踏遺跡の探窟を行うことができたりと一攫千金も夢ではない。
要は自由に動き回る予備兵力であり、王国の手が回らない雑事を片付けさせられる為の受け皿なのだ。
大概のクエストは野盗退治だ魔物の巣の駆除だと危険は大きく、命の保証まではしてくれない。今朝見かけた奴がその日からもう見ないといったことはザラにある。
しかし最底辺でみじめに死んでいくよりはマシだと冒険者の戸を叩くものは多い。
それにしてもヒマだった。
手持ち無沙汰な俺はつまみにしていた炒り豆を一粒手に取って弾いた。それは対面にいるテーブルに顎を乗せて寝ていた赤髪の少女の鼻の穴にすっぽりと嵌りこんだ。
「ふがっ」
眉間にしわを寄せてうんうん唸る。鼻からすぴすぴとマヌケな音を漏らした後、ふんっと勢い良く豆は射出された。
「なにすんのさぁー!」
赤銅色の肌の少女、ラディが勢い良くと起きると身を乗り出さんばかりにして掴みかかってきた。
「はっはっじゃれるなじゃれるな。どうした、豆が鼻にでも詰まったか?」
「豆!?豆を詰めたんか!乙女の鼻に!許すまじ!」
「いや不可抗力だ。俺も鼻にホールインワンするとは思わなんだ」
テーブルによだれの池を作って口元を拭いもしないやつが乙女と抜かすか。
むがーっと飛びかかってくる犬を押さえるように頭を片腕で抑えて前進を拒む。
少女のような――実際まだ12か13ぐらいなのだが――細く華奢な体つきのラディだが押し返す力はとても強い。
こいつは半鬼人の娘だ。混血とはいえオーガ《鬼人》の埒外な膂力を受け継いだラディは少女といえど凡人種の男より数倍もの筋力を発揮する。
といっても精神面で言えばまだ子供だ。なのでつつけばこうやって簡単に乗ってくるので遊びがいがある。まあ下手を打つと怪我することも多いのだけれど。
前進は不利と悟ったラディがブンブンと腕を振り回す。繰り出される拳打を捌いているとこちらに近づいてくる人影が目に入る。
「バルム、またラディをからかっていたんですの?それぐらいにしておきなさいまし」
この場にそぐわない上品な言葉遣いと鈴のように澄んだ声。
声の主を見やると豪奢な金髪縦ロールを垂らした貴人が呆れ顔で立っている。
「リセスおつかれさん。いやなに、これは心あたたまるふれあい一場面だ」
「あたたまるどころか燃えてるっての!聞いてよリセス~!こいつウチの鼻の穴の炒り豆を捩じ込んだんだぞ!」
うわーんと母親に助けを求める子供のようにリセスに抱きつく。よしよしと頭を撫でられながらこちらを睨みつけてくる。
「ウチもうお嫁に行けないよ…こんなやつに初めてとられちゃって…」
わっと顔を覆うラディ。なんだ鼻の初めてって。
「鼻の穴がなんで二つ開いてるか知ってるか?それは鼻の穴の生存戦略なんだ。片方の穴が豆で散らされようとも片方は塞がれずに逃げ延びることができる。そうやって太古の昔より鼻の穴は弱肉強食の世界を生き抜いてきたんだ。未来ではもしかすると鼻の穴が三つになるかもしれないな」
「あなたは何を言ってるんですの…」
「そうだったのか…鼻の穴ってすごいんだな!」
すごく呆れられた目で見られる。しかし傍らの半鬼人娘は鼻をさすりながら生物の壮大さに思いを馳せているようだ。アホでよかった。
「ただいまだっちゃ旦那様」
「ウオゥ!?」
抑揚のない硬質な声が突如耳元で囁かれる。
体がビクリと跳ねる。振り向けば灰色の髪と長い耳を伸ばした小妖精が立っていた。
「ハンナや、急に後ろから声をかけるのはやめろと何度も言ってるだろ」
こいつは毎度気配を消して背後から近づいては俺をビビらせてくれる。冒険者の端くれとして気配にも反応できる俺が全く感知できない。マジで心臓に悪い。
「これは趣味だ」
端的。そうか趣味なら仕方ない。なわけあるかい!
「にゃはは!ビクッってしてやんのー!」
「るせ―人を指差すな!」
「ハイハイ、そこまででしてよ」
リセスが俺たちを引き離して椅子に座らせる。テーブルの上の皿をどけて数枚の書類を置いた。
「今回のクエストの書面ですわ。内容に目を通しておいてくださいまし」
俺はびっしりと書かれた文章をすっ飛ばして報酬の欄だけに目をやった。
「ムウ、銀貨1000枚。しかも王国の戦勝記念貨幣でだ。ドラゴンの素材も一部貰えるみたいだな。あとは士官の話もあるみたいだがこれは別にいらんなぁ」
「ちゃんと全部お読みなさいな!全く…あなたは長としての自覚が足りなくてよ。しっかりしてくださいまし。バルム、ちゃんと聞いていますの!?」
リセスのお説教が始まり、こうなると長いので適当に頷きながら豊かな双丘を眺めていたのだがバレてしまった。
「~~~!ちゃんと私の目を見なさい!」
「うん?俺はいつもお前を見てるよ」
「バ、バカ!」
みるみる顔を茹で上げながら俺の頭に手刀を連続で落とす。腕の動きに落とされて魅惑の乳房が動く動く。頭の痛みはその大小として甘受しよう。
「相変わらずリセスはチョロいな」
「ちょっと心配になるくらいチョロすぎるよね」
外野ニ人がセリスの今後を憂いている。俺も心配だがチョロくないセリスはセリスとしての自我同一性を失ってしまうために生暖かく見守り放置していくことにする。
リセスに書類を丸投げして目を通させたあと承諾のサインを書いて提出。俺たちは竜討伐のクエストを正式に受注した。
ギルド館から出て外の空気を吸う。酒と汗とその他諸々の淀んだ空気から解放されてとてもうまい。「それでこれからどうする」
「んーひとまずこの街で必要物資を集めておこう」
「今から荷物を持って行くよりも向こうで揃えてもいいんではなくて?」
「まあそうなんだが街の規模も此処より小さいと聞くし、品揃えもどうかわからん。買い溜めできるうちにやっておきたい」
「わかりましたわ」
それぞれに買い物の指示を出して宿屋で集合することにした。準備ができ次第ギルドが手配した馬車に乗り、前線となる霊峰ルゥ・ガデル一番近い街へと向かう。
人波をかき分けながら大通りを歩く。ピリピリとした空気をまとった冒険者と何度もすれ違う。
竜殺し、それは英雄譚として謳われる程の偉業。参加すれば殆どの人間が死ぬであろう超難易度クエストだ。
竜という存在は希少で一生に一度出会えれば幸運な方だろう。なので竜討伐の危険性を正確に測れている者は一人としていない。
だからこそ自殺に等しいクエストに冒険者の誰もが名乗りを上げる。所詮ヤクザ商売、竜を討ち取れないまでも参加して生き延びたというだけでも箔が付く。そうなれば周りにでかい顔ができるしギルドへの覚えも良くなるだろうと。
俺はどうなのだろうか。この身と頭には対竜戦闘の技と知識が詰められている。だが心はどうだ?竜を屠る意義。そこに何を求めるのか。それが未だに解っていない。こんな漠然とした気持ちのままで果たして俺は――。
沈みかけた思考を振り払い、答えを探すように空を見上げる。
目に映るのは抜けるように青い穏やかな空が広がっているだけだった。