第六幕 結界
背筋にゾクリと悪寒が走る。
突然降って沸いた気配。
ビルの入り口を凝視する。
入り口付近はブルーシート越しの街灯の光ではない光が差していて、俺や麗が居る場所よりも幾分か明るい。
その光が陰る。
入り口の柱に手が掛かり巨大な影がヌッと現れた。
「っっ!」
息を飲む。
中に入って来たその姿は逆光で影が立ち上がったような姿をしている。
ズシン・・・
一歩踏み出す。
2メートルを超す長身。肥大化した筋肉。
ズシン・・・
また一歩。
ボロボロの腰簑一枚の、縦にも横にも太い巨大な筋肉達磨。
ズシン・・・
一歩。
俺の方へと歩みを進めているように見えるのは気のせいだろうか?
ズシン・・・
額から生えた二本の角の下。
爛々と光る眼が俺を見据えていた。
ズシン・・・
うん、気のせいじゃない。
建材の陰へ目をやるが麗が動く気配が無い。
ズシン・・・
鬼と俺の距離が最初の半分以上縮まった。
ズシン・・・
足元の今はほとんど見えない図形を見る。
こんな地面に描いた落書きがホントに役に立つのか?
ズシン・・・
麗はこれが俺を護る結界とかいうものだと言った。
でもあの女は、これの前に作った人払いの結界とやらは失敗したと言ってなかったか?
ズシン・・
ならこれも失敗してないって保証は何処にあるんだ?
ズシン・
鬼はこっちに来ている。麗は動く気配が無い。結界も失敗の可能性が拭いきれない。
どうする。逃げるか?信じるか??
ズシンッ
鬼が、手が届く距離で立ち止まる。
まるで儀式でも始めるように両腕を上げて。
「ふぅしゅうぅぅぅぅ・・・」
生臭い息が鼻にまとわり付く。
乱喰いの牙の生えた口が唾液の糸を引いて開いた。
無理だーー。
俺は最後の最後で逃げるを選択した。
「界っ!!」
麗の声が飛んでくるのと、鬼の両腕が振り下ろされるのと、俺が動き出すのはほぼ同時だった。
後ろに重心を移動させるのに併せて腰を捻る。軸足の踵を起点に180度回転、鬼に完全に背中を向けるような形になり、前に倒れないように軸とは逆の足を支えに突き出す。軸足で床を蹴り重心を移動させる。
目の前の床が結界の形にぼんやりと発光を始める。
背後で、冬の日にドアノブを触って静電気が発生した時のような音が聞こえる。
「グガァッッ!!」
「あのアホ・・・!」
視界の隅に見えた赤い手が弾かれたように視界の外へ消えると、苦痛に歪む呻き声と罵声が耳に届く。
二歩目を蹴り出そうと足に力を込めると床の発光がより強さを増した。
「なっ!??」
それはとても形容し難い出来事だった。
しかし敢えて言い表すとすれば、俺の身体は床から立ち上る光に絡め取られていた。
身体が満足に動かせない。力も入らない。
光が体力よりももっと根源的な・・・生命力みたいなものを奪っていっているように感じる。
あと少しで光の外に出られるはずなのに。
必死に腕を伸ばしても後ほんの少し届かない。
光の外に麗が居る。何かを叫んでるがよく聞こえない。目の前の色が段々暗くなってきた。
もうなんか全てがどうでもいいや。
麗の手が光の中に入って雷のような光が走った。
「・・・んだらっ!!
せやか・・・なて言うたや・・・!」
何かが聞こえる。水の中で外から掛けられる声を聞いているみたいだ。
「これ飲・・・
あぁもう!・・・じゃ無・・・」
何を言ってるのか良く解らない。
唇に何かが触れる。
ドロリとしたものが喉から胃の中へ落ちていくのを感じる。
腹の底がポカポカと温かくなり始めた。
温かさが少しずつ全身に手を伸ばす。
そこで俺は自分が瞼を閉じていた事に気付いた。
目を開けると心配そうに見る麗の逆さまの顔が間近にあった。
後頭部に弾力のある柔らかな感触。
ああ、俺は今膝枕をされているのか。
コロコロと音のする方を見ると茶色い小瓶が転がっていた。あんなものあっただろうか?
「俺・・・どうなったんだ?」
その言葉を聞いた麗が目を瞑り、一拍置いて両拳で俺のこめかみをグリグリと抉り始めた。
「痛い痛い痛いっ!!」
「何で動いた!?
あんだけ動くなッちゅうたのに何で動いたんやっ!!」
「悪かった、ホント悪かったって!」
梅干し攻撃から逃れるようと起き上がる。
立ち上がった時にはこめかみの痛みは嘘のように消えていた。
自分の姿を見ると多少草臥れてはいるものの欠損部分は無いようだ。手足もちゃんと動く。
ふと麗を見ると両方のライダースーツの肘から先がズタズタに引き裂かれて、彼女の真っ白な肌が見え隠れしている。いや、所々打ち身のように肌が赤くなっていた。
思い返すに結界の光の中に居た俺を、麗が無理矢理引っ張り出して助けてくれたと言う所だろうか。
「えっと・・・ありがとな」
「ん?」
「いや、何でもない」
そこで、辺りが夜の繁華街並みに明るい事に気が付いた。
光源に目が向く。
「なっ・・・んだこれ?」
その光景に思わず言葉を失う。
ドーナツ状の光の柱。
その中でふわふわと宙に浮かんだ蠢く物体。
直径1メートル程の球形に圧縮された鬼の姿だった。
鬱血したせいか皮膚は赤黒く変色して裂け、はち切れた赤い筋肉がミチミチとはみ出している。その筋肉は痙攣し、あるいは不気味に脈打ち内へ内へと陥没して行く。
あちこちから噴水のように噴き出す血は床へ落ちる事無く、別の位置から肉の中へと戻っていく。
いつかテレビで観た太陽のCG映像のようで、恐怖しか覚えなかった鬼のあの姿は、今や見る影もない。
「ぉぉぉおぁぁあぁぁぁ・・・」
あんな姿になってもまだ生きてるのか、もがき苦しみ聞くと呪われそうな呻き声が聞こえてくる。
「タクヤももう少し助け出すのが遅かったらあれと一緒になっとったんやで」
麗が絶句したままの俺の隣に立つ。
そっか俺ももう少しであんな風に潰れてたかも知れないのか。
鬼の塊が最初に見た時よりも幾分か縮んだように見える。
「なあ、麗」
「何?」
「俺の事囮に使っただろ?」
「・・・テヘペロ❤」
「最悪だ・・・」
色々有りすぎて吐き気がする。
「まあ、たったの五千円で命が助かったんやさかい、大目にみといてんか」
俺の背中をパシンと叩く麗の顔は悪びれた様子も無く悪戯っ子のような笑みを浮かべている。
色々言いたかったはずなのに、その笑みに毒気を抜かれ小さな溜め息と苦笑が口元に出てしまった。
「まあ、命が助かったし、結果オーライって所か・・・」
「そそ、『終わり善ければ全て善し』っちゅうやつや♪」
「そう言えばさっき俺に何か飲まさなかったか?」
「さあ、気のせいちゃうか?」
「そうか?」
「そうや」
「そうか」
麗が俺から視線を逸らし指先で頬を掻く。
まあ、いいか。そんな事よりもっと気になる事がある。
再びそれに視線を移すと塊は最初に見た時よりより丸く、サイズも半分程まで縮んでいた。
「あれは時間を掛けてじっくり嬲り殺しにしてるのか?」
「ちゃうちゃう、ウチにそんな趣味はあらへんて」
俺の言葉に失笑する麗。
もう原型などほとんど留めていないのに呻き声がBGMのように周囲に流れる。ひょっとしてこれは呻き声ではなく、縮んでいく筋肉の軋みなのだろうか。
「封魔石を作っとる最中や」
「封魔石?」
聞き慣れない単語に眉根を寄せる。
バスケットボール大くらいまで縮んだそれはもはや元が何だか解らない。
にもかかわらず、まだ呻き声は聞こえてくるが最早そんな事はどうでも良かった。
「物の怪を狩る為の道具を作る材料で、ああやって捕まえた物の怪を結晶化させて作るんや。
ほら、そろそろ出来上がりみたいやで」
光の柱の中に浮かぶ玉がソフトボール程度の大きさで収縮を止めた。
これだけ見ると元が身長2メートル超の筋肉達磨の鬼だったとは誰も思うまい。
「・・・解」
麗の言葉に反応して光の柱の光量を下げていく。それに伴い玉もゆっくりと浮力を失い、光の消失と共に硬い音を立てて床に転がった。
「よし、良い感じや♪」
急に光源がなくなって嘘のように真っ暗闇になった建物内を足取り軽く転がる玉に近付き拾い上げると、ポケットからペンライトを翳し玉の状態をチェックする。
それにしても麗のレザージャケットには実に色んな物が入っているものだ。
する事も無いので足元に気を付けながら傍へと歩いて行くと、それに気付いた麗が俺の方へと玉を差し出す。
「見てみ、これが封魔石や」
一見すると濁った紅いガラス玉。よくよく見ると玉の中での濁った翳の部分がドロドロと蠢いて見える。更に顔を近付けてみると、翳が怨念めいた鬼の苦悶の顔に変わった。
声も出せずにギョッと目を見開く俺を無視して、顔は融けるように玉の表面に沿って流れていった。
「何か禍々しいな。これ」
「元が元やさかいな。
でもこれが結構良い値で売れるんよ♪」
「へー、いくらくらいで?」
「そやな、ほとんど無傷で結晶化に成功したさかいに・・・最低三千万とかになるかな?」
「三千万っ!?」
今日一番の衝撃を受けた。
こんな玉コロ一個が三千万円・・・。
小市民の哀しい性だろうか。
値段を聞くと触ってみたくなり玉に指を伸ばすが、それを避わすように麗が玉を退く。
「触らん方がええで」
「別に盗ったり傷つけたりはしねぇよ」
思わず不満気な口調になってしまった。
「ちゃうねん。
こいつはこれ単体でも十分退魔道具として使えるくらい強力で、けど元があれだけにむっちゃ危険な代物なんや。
ウチみたいな能力持ちが触るならまだしも、タクヤみたいな能力無しが触るとどんな悪影響が出るか解らへんねや」
「そっか」
一応納得はしたが何となくもやもやする。
そんな俺の態度を見て取れたからか麗が苦笑を漏らす。
「べつにいけずで触らさんかったわけや無いんやで」
何だろう?俺はそんなに不満が顔に出易い質何だろうか?何とか治さないと。
それにしてもあれ一つが三千万円か・・・でも元はあれなんだよな・・・あんなのと命のやり取りして三千万円・・・。
脳裏に浮かぶ鬼の姿ーー。
色々思い返してふと一つの疑問が鎌首を擡げた。
「その封魔石ってのは全部紅い色をしてるのか?」
「そんな事無いで。今回は赤鬼やったからこの色やけど、河童なら緑、妖狐なら黄色みたいに基本見た目の色が反映されるんや」
「そっか、じゃあ、鬼って肌の色が変わったりする?」
俺の問い掛けに何かを感じ取ったのかもしれない。こちらを見る麗の頬が引きって見えた。
多分俺の顔はもっとひきつっているかもしれない。
「変わるのも居るけど基本あの程度の鬼の色が変わるなんて事はまず無いで」
次の俺の一言に麗の顔も俺と同じくらいひきつった。
「俺が最初に見たのは青色の鬼だったんだけど・・・」
その言葉が合図だったかのようにーー。
外に張られたブルーシートを引き裂いて巨大な影が俺たちの前に躍り出た。