私がハサミで切られても彼は「大げさだ」と言ったのに、彼女が低血糖になっただけで震えるほど心配した
うつ病と診断された日は、ちょうど私の二十四歳の誕生日だった。
小さなケーキを持って病院へ行った。久世直人に、たった十分だけ一緒にいてほしかった。
「直人、少しだけ付き合ってくれない?」
彼は顔も上げなかった。
「澪、今は君の気持ちに付き合ってる暇はない」
「でも、今日……私の誕生日なの」
「一分も無理だ。悪いけど出て。ドアも閉めてくれ」
私が背を向けた瞬間、小日向ひよりの明るい声がした。
「久世先生、今日も一緒にお茶してくれますよね? 先週は五時間もアイロンビーズに付き合ってくれたし」
直人の声が、途端に優しくなる。
「もちろん」
その瞬間、ようやく分かった。
私に使う十分は無駄なのに、彼女に使う一日は惜しくない。
私を五年間閉じ込めていた暗い部屋は、うつ病なんかじゃなかった。
久世直人だった。
1
残ったケーキをゴミ箱に捨てた。もう食べる気にはなれなかった。胸に空いた穴は、甘いものをいくら詰めても埋まらない。
後ろから、ひよりの軽い足音が近づいてきた。
「相沢さん、一緒に帰りませんか? 久世先生が大学図書館まで送ってくれるんです。明日の症例検討会の資料を取りに行かなくちゃいけなくて」
振り返ると、直人が数歩先に立っていた。
「乗れば?」
さっきまで私には一分もないと言っていたのに、ひよりを送る時間はあるらしい。何も言わず車に乗ると、助手席にはすでにひよりが座っていた。
シートを調整し、慣れた手つきでシートベルトを締める。きっと私の知らないところで、何度もここに座ってきたのだろう。
「久世先生、ミュージカルのチケット取れました?」
「夜中まで粘ったんだからな。約束した以上、がっかりさせられないだろ」
「やった!」
車内の冷房は少し強かった。膝の上に置いた指先が、わずかに震える。
昨夜、精神科の予約ページを開いたまま、二時間近く動けなかった。
操作方法が分からなかったわけじゃない。自分が本当に病気なのかもしれないと認めるのが怖かったのだ。
それでも最後には、直人の書斎をノックした。
「最近、ちょっとおかしい気がするの。病院に行こうと思ってる」
「どの科に行けばいいか、一緒に見てもらえない?」
直人はパソコンから目を離さなかった。
「そんなのネットで調べれば分かるだろ」
「今、忙しいんだ」
そのまま、目の前でドアを閉められた。
あの日、医師からは必要になった時に会社へ提出できるよう診断書も出してもらった。でも私はまだ、会社には出していなかった。
赤信号で車が止まると、直人が後部座席から灰青色のニットブランケットを渡してきた。
「寒いなら使え」
付き合い始めた頃、私が寒がりだからと、彼が動画を見ながら編んだものだ。編み目は少し不揃いだったけれど、それから五年間ずっと車に置かれていた。
直人はいつもこうだった。
傷つけたあと、私が本当に諦めそうになる頃に、ほんの少しだけ優しくする。そのたびに私は「まだ愛されているのかもしれない」と思ってしまった。
「ひより、最近の手術は安定してる。今の調子でいい」
「ただ、予想外のことが起きても一人で焦るな。分からなければ俺に聞け」
ひよりが笑う。
「久世先生がいてくれるなら安心です」
「俺は指導医なんだから、フォローするのは当然だ」
そんな言葉を、私は五年間、一度もかけてもらったことがなかった。
二か月前、母が亡くなった。
実家に戻り、一人で葬儀を済ませた。一番つらかった夜、直人に電話した。
本当は、たった一言でよかった。
「そばにいるよ」
そう言ってほしかった。
けれど返ってきたのは、冷静な声だった。
「生きてれば、死別は避けられない」
「病院にいれば毎日のように見ることだ」
「時間が経てば乗り越えられる」
直人はいつも、もっと強くなれと言った。考えすぎるな、自分のことは自分で何とかしろ、と。
まるで私が悲しむこと自体、彼に余計な負担をかけているみたいだった。
大学キャンパスに着く頃には雨が降り始めていた。
「久世先生、資料が多いんです。一緒に来てもらえますか?」
「それくらいなら手伝う」
直人はすぐにシートベルトを外した。
今夜は、本来なら交際五周年をやり直す予定だった。十日前、急な手術でキャンセルになったレストランを、私がもう一度予約していた。
車を降りる前、直人が振り返る。
「少し待ってて。すぐ戻る」
私は記念日のことを言いかけて、やめた。
一本の傘の下、直人はひよりの側へ傘を傾けていた。自分の左肩が濡れても、少しも嫌そうな顔をしない。
四十分。
一時間。
九十分。
午後七時になっても、直人は戻らなかった。
レストランの予約は自動的にキャンセルされた。
私はブランケットをきれいに畳んで後部座席へ戻し、車を降りた。そのまま雨の中を走り、最寄り駅へ向かった。
家に着いた頃、ようやく直人からメッセージが来た。
【今夜はひよりを外科の先生たちとの食事会に連れていく。待たなくていい】
私がいつ車を降りたのかも聞かない。
今夜の予約にも触れない。
九十分も放置したことへの説明もない。
出てくる名前は、ひよりだけだった。
私はトーク画面を閉じ、会社のメールを開いた。
【雪代支社・企画営業職への異動について、今週中に回答してください】
私は広告会社で企画営業をしている。朝凪本社を離れ、雪代支社へ移るという話だった。
三日前までは迷っていた。
でも今なら答えられる。
ここを出よう。
五年間閉じ込められていた、この暗い部屋から。
2
シャワーを浴び、医師に言われた通り薬を飲んだ。空腹だったので、薄味のうどんを作る。
食べ始めたところで、Instagramにひよりの新しい投稿が表示された。
【今日も久世先生に助けてもらいました。世界一頼れる指導医です】
写真の中で、直人はひよりの隣に座っていた。
今夜、私と記念日の食事をするはずだった男が、彼女のために海老の殻をむいている。
少し眺めたあと、私はその投稿に「いいね」を押した。
不思議なくらい、静かな気持ちだった。
玄関の鍵が開いた。
直人は少し酒の匂いをさせて帰ってきた。
知り合って七年、付き合って五年。外科医はいつ緊急呼び出しがあるか分からないからと、彼はほとんど酒を飲まなかった。
私の父に初めて会った時ですら、一口も飲まなかった。
でも、ひよりのためなら違うらしい。
直人はコートから二枚のミュージカルチケットを出し、テーブルに置いた。
「記念日の埋め合わせ」
「どういう意味?」
「ひよりが行けなくなった。友達と行けば?」
「あなたは?」
「来週、あいつに難しい手術がある。俺がそばで見てないと不安なんだ」
私はそのチケットを見つめ、思わず笑った。
「久世直人」
「私って、そんなに適当に扱っていい人?」
直人の表情が曇る。
「澪、いつまでそんな子どもみたいなことで怒るんだ?」
「俺が忙しいのは、今に始まったことじゃないだろ」
「意味のない喧嘩はしたくない」
「そうだね。忙しいよね」
「私に十分使うのは惜しい。でも、ひよりとテーマパークへ行って、五時間もアイロンビーズをして、夜中までチケットを取る時間はある」
胸が痛んだ。
「直人、私があなたを必要としたのは今日だけじゃない」
「五年間、泣かないようにして、文句も言わないようにして、あなたの邪魔にならないようにしてきた」
「でも私だって人間だよ」
直人はキッチンカウンターで水を一杯飲んだ。
「今の君は感情的になってる」
「ひよりは俺が指導している後輩だ。あいつの研修に責任を持つのは仕事なんだよ」
そして、さらに言った。
「それに、ひよりは何かあれば自分で解決しようとする」
「君みたいに、自分の感情に沈んで、周りが悪いみたいな顔はしない」
胃が一気にひっくり返った。
私はトイレへ駆け込み、食べたうどんを全部吐いた。
直人は入口に立ち、ティッシュを差し出す。
「そこまで自分を追い込む必要ある?」
「結局、つらくなるのは君だろ」
その時、直人のスマートフォンが鳴った。
「久世先生、術後の患者さんから質問が来たんですけど、判断に迷ってて……」
直人の声が柔らかくなる。
「送って。俺が見る」
「こんな時間にすみません。寝てませんでした?」
「まだ起きてる。大丈夫」
「じゃあ、しじみの味噌汁と電解質飲料を届けますね。今日飲んでたから、ちゃんと飲んで休んでください」
「分かった」
間もなく宅配が届いた。
直人は私に渡したティッシュをゴミ箱へ捨て、そのまま言った。
「明日早いから、今日は客室で寝る」
彼が背を向けた時、私のスマートフォンも光った。
【朝凪 → 雪代】
【航空券の予約が完了しました】
3
翌朝九時、私は精神科の診察室にいた。
医師は睡眠や食欲、薬の副作用について確認した。
「今の量を続けましょう。自分の判断で急にやめないでください」
「はい」
「初診の時より、少し表情が柔らかくなりましたね」
薬がそんなに早く効いたわけじゃない。
雪代へ行くチケットを取ったからだ。
処方箋を受け取り、エレベーターに乗ると、直人とひよりがいた。
二人で一台のスマートフォンをのぞき込み、時々指先が触れている。
「相沢さん?」
ひよりが私に気づいた。
「久世先生を探しに来たんですか?」
「違う」
直人が顔を上げ、私の手首をつかんだ。
「意地張るなよ。先に医局へ来い」
「昨日吐いただろ。胃も弱いんだから、適当なもの食べるな」
「昼、何か食べてから帰ればいい」
昨夜あれだけ言い合ったのに、今日はもう何もなかったような顔をする。
謝らない。
話し合わない。
ただ少しだけ優しくして、問題は終わったことにする。
直人がいつも使う方法だった。
外科フロアへ行くと、小さな応接室へ通された。
「ここで待ってて。患者を一人診たら戻る」
「久世先生、早く行ってください。相沢さんには私がついてますから」
ひよりは自然な手つきで直人を送り出した。
そして棚から茶葉を取り出す。
「相沢さん、よかったらどうぞ」
「夜勤のあと眠れないって言ったら、久世先生がノンカフェインのハーブティーを買ってくれたんです。カモミールです」
私も、眠れないと直人に言ったことがあった。
その時の返事は、
「考えすぎなんだよ」
それだけだった。
突然、廊下から怒鳴り声がした。
「手術すれば良くなるって言っただろ!」
黒い上着を着た中年男性が、ハサミを握ったまま室内へ入ってきた。
「父はどんどん悪くなってる! 責任者を出せ!」
ひよりの顔から血の気が引く。
「落ち着いてください。手術前にもリスクについては説明を……」
「うるさい!」
男は聞く耳を持たなかった。
私は反射的に後ろへ下がった。
テーブルのカップが落ち、割れる。
次の瞬間、腕に冷たい感触が走った。
遅れて痛みが来る。
血が流れ出した。
院内警報が鳴り、警備員と医療安全管理室の職員が駆け込んできた。
直人も廊下の向こうから走ってくる。
「直人……」
思わず手を伸ばした。
彼は私の前を通り過ぎた。
「ひより!」
「怪我は? どこか切られてないか?」
ひよりは泣きながら直人へしがみついた。
「久世先生……怖かったです」
床に座り込んだ私を起こしてくれたのは、看護師だった。
「傷が深いです。すぐ処置しましょう」
この部屋で、実際にハサミで切られたのは私だけだった。
それでも直人が最初に見たのは、ひよりだった。
警察も到着した。
処置が終わる頃、警察官が私のところへ来た。
「あとで詳しく事情を伺います」
「被害届を出すこともできます。希望されますか?」
「はい」
直人が横から口を挟んだ。
「ちょっと待って」
ようやく私の傷を見た。
でも最初の言葉は、心配ではなかった。
「この件、必要以上に大きくしないでほしい」
「どういう意味?」
「相手は患者家族だ。もし『ひよりの診療ミスが原因で襲撃された』みたいに広まったら、専門研修に響く」
「だから?」
「事実だけ話してくれ」
「相手が個人的に感情を爆発させたこと、ひよりの医療判断との因果関係はまだ分からないこと。それだけでいい」
「直人」
「怪我したの、私だよ」
直人は少し黙った。
「分かってる」
「でも君のは外傷だ。処置すれば治る」
「ひよりはまだ若い。この時期に重い評価問題が残れば、今後のキャリア全部に影響する」
ひよりも目を赤くして近づいてきた。
「相沢さん、お願いします」
「来年も専門研修の評価があります。もしこの件が私の診療と結びついたら、執刀から外されるかもしれないんです」
そして、悲しそうに言った。
「私が嫌いなら、私に怒ってください」
「久世先生を困らせないでください」
「そんなこと言うな」
直人はすぐにひよりを制した。
「自分を傷つけるようなことを簡単に言うな」
その声には、はっきりと心配がにじんでいた。
私は黙って二人を見ていた。
まるで彼らが同じ側にいて。
私は、二人で処理しなければならない厄介者みたいだった。
4
処置後、応接室へ戻って荷物を拾った。
騒ぎでバッグがひっくり返り、薬袋とPTPシートが床に散らばっていた。抗うつ薬の名前が印刷されたシートが、ちょうど直人の足元近くに落ちている。
医師の彼なら、知らない薬ではない。
けれど直人は一度見ただけで、何も聞かなかった。
建物を出ようとした時、後ろから腕を強く引かれた。
包帯の下の傷が開き、白いガーゼに赤い色がにじむ。
「相沢澪」
「何してるんだ?」
「何のこと?」
ひよりが直人の後ろに立っていた。
「相沢さん、医療安全管理室から呼ばれました」
「これ以上大きくしないって言ってくれたのに……どうして?」
「私は何もしてない」
直人の顔には、明らかな疑いが浮かんだ。
「君じゃなきゃ誰なんだ?」
力が抜けるような気がした。
「直人」
「ひよりと私、どっちを信じるの?」
彼はほとんど考えなかった。
「今はそこが問題じゃない」
「医療安全管理室へ行くぞ」
「何のために?」
「事実確認書に署名してほしい」
「今回の襲撃と、ひよりの医療行為に直接的な因果関係は確認されていない。それから、二人の私的な関係を外部に必要以上に広げない」
「私、怪我したんだよ」
「その私が、彼女のために署名するの?」
「そんな言い方するな」
「今もう動画を撮られてる。君とひよりが前から知り合いだったことまで掘られたら、話がややこしくなる」
直人は少し間を置き、声を柔らかくした。
「この件が終わったら、年休を取る」
「旅行に行こう」
「犬も飼いたいって言ってたよな。見に行けばいい」
そして。
「そろそろ、結婚しよう」
私は動けなかった。
五年間待っていた言葉だった。
友人に「いつ結婚するの?」と聞かれるたび、彼は忙しいから、今は大事な時期だからと、私が代わりに言い訳をしてきた。
その言葉が今。
別の女を守るため、私を従わせる材料として使われている。
「この件を片づけてくれたら、婚姻届を出そう」
私は直人の顔を見つめた。
「直人」
「あなたの勝ち」
私は事実確認書に署名した。
その内容と警察の調査結果をもとに、病院は短い公式コメントを出した。
【現時点で、襲撃事件と小日向医師の診療上の過失との直接的な因果関係は確認されておりません】
それだけならよかった。
けれどネットは、別の物語を作り始めた。
私が久世直人の恋人であること。
以前からひよりと面識があること。
ひよりがInstagramに載せていた直人との写真。
【指導医の彼女が若い女医に嫉妬して病院まで来たってこと?】
【怖すぎる】
【久世先生が彼女を公にしてなかった理由、分かる気がする】
【普通に働いてただけの小日向先生が一番かわいそう】
スマートフォンには知らないアカウントからメッセージが届き続けた。
直人は私の顔を見て、ようやく少し不安そうな表情をした。
「澪……」
手を伸ばしかけた、その時。
「久世先生……」
ひよりが額に手を当てた。
「ちょっと、低血糖かも……」
直人の手が止まった。
次の瞬間には、ひよりの方へ向いていた。
私は数秒見つめたあと、背を向けた。
その夜、会社へ正式に異動を受けると回答した。
翌日。
空港へ向かう車の中で、直人から何通もメッセージが来た。
【家で待ってて】
【今日のことはこれで終わりにしよう。埋め合わせはする】
数分後。
【澪、俺は君を愛してる】
【仕事のためだったって、分かってくれるだろ】
愛してる。
だから誕生日にうつ病と診断された私を追い返した。
だから私がハサミで切られた時、最初に別の女を抱きしめた。
だから五年間待っていた結婚を、彼女の将来と交換した。
そんな愛はいらない。
搭乗前。
五年間ずっと一番上に固定していた番号を削除した。
ブロックした。
これで終わり。
もう二度と会わない。
5
その頃。
久世直人は一人で医局に戻っていた。
三時間前に送ったメッセージには、ひとつも返信がない。
頭から離れないのは、病院を出ていった時の澪の顔だった。
泣かなかった。
怒鳴らなかった。
いつものように、
「私のこと、本当に好き?」
とも聞かなかった。
その静けさが、初めて怖かった。
ノックの音がした。
「久世先生」
ひよりが申し訳なさそうな顔で立っている。
「澪さん、まだ怒ってますか?」
「私のせいですよね。医療安全管理室のことなんて言わなければ……」
「君のせいじゃない」
「澪は俺が甘やかしすぎた」
「数日したら機嫌も直る」
ひよりは安心したように笑った。
「澪さん、久世先生のこと大好きですもんね」
「本気で離れるなんてできませんよ」
直人もそう思った。
五年間。
どれだけ喧嘩しても、最後には澪が戻ってきた。
少しプレゼントを買う。
たまに抱きしめる。
それだけで許してくれた。
今回も同じだ。
直人はその日の午後、年休を申請した。
「久世、珍しいな。とうとう休む気になったか」
「何かいいことでも?」
直人は少し笑った。
「家のやつと出かけます」
「放っておくとうるさいんで」
旅行と結婚の話をしたら、澪はきっと喜ぶ。
そんなことを考えながら階段の前を通った時だった。
聞き慣れた声がした。
「叔父さん、ちゃんと話合わせてね」
ひよりが電話していた。
「医療安全管理室に正式に呼ばれて、専門研修の評価にも響くって言われたことにして」
「副院長の叔父さんが知ってるって言えば、久世先生は疑わないから」
少し間がある。
「仕方ないでしょ。澪さんをちょっと怖がらせて、これ以上追及しないようにしたかっただけ」
直人は階段の陰で動けなくなった。
澪は、何もしていなかった。
医療安全管理室も、ひよりに研修停止を告げてなどいなかった。
あの時の言葉が蘇る。
「ひよりと私、どっちを信じるの?」
直人は答えすらしなかった。
胸に広がった違和感が、一気に恐怖へ変わった。
そのまま駐車場へ走った。
家に戻り、ドアを開ける。
真っ暗だった。
これまで、どれだけ遅く帰っても、リビングには必ず灯りが残っていた。
今日はない。
「澪?」
返事はない。
「澪、帰ったよ」
寝室。
洗面所。
書斎。
クローゼットから彼女の服が消えている。
洗面台から化粧品がなくなっている。
本棚も、玄関の靴も。
澪がここで暮らしていた痕跡が、ほとんど消えていた。
直人の手から車のキーが落ちた。
慌てて電話する。
一回。
二回。
三回。
つながらない。
「嘘だろ……」
「本当に出ていくわけない」
「結婚しようって言ったのに……」
最後に、澪の同僚へ電話した。
「すみません。相沢澪の恋人です」
「彼女が今どこにいるか知りませんか?」
電話の向こうが一瞬黙った。
「澪?」
「雪代支社への異動、受けましたよ」
「今日もう出発したはずですけど」
少し間を置き、
「知らなかったんですか?」
直人は何も答えられなかった。
最後まで。
何も知らなかった。
電話を切ったあと、寝室で長いこと座っていた。
ふと、ベッドサイドの引き出しに、一枚の紙が残っていることに気づいた。
診断書。
そこに印字されていた病名。
【うつ病】
直人の手が、初めてはっきり震えた。
6
翌日、直人は澪が通っていた精神科を訪ねた。
「相沢澪のパートナーです」
「五年間、一緒に暮らしていました」
「彼女がどんな状態だったのか、教えてください」
医師は静かに答えた。
「申し訳ありません」
「相沢さん本人の同意がない限り、診療内容をお話しすることはできません」
「でも、俺は一番近くにいた人間です」
「それでもです」
「診療情報は患者さん本人のものです」
直人は言葉を失った。
医師は少し間を置いた。
「もし本当に五年間一緒にいたのなら」
「私から聞くより、ご自身で気づくべきこともあるのではないでしょうか」
その一言が、胸に重く刺さった。
直人は病院の廊下に座り、初めて過去を思い返した。
夜中に何度も目を覚ましていた。
食欲が落ちていた。
友人と出かけなくなった。
母親が亡くなってから、ほとんど笑っていなかった。
そして数日前。
書斎の前で、
「病院に行きたい」
と言った時。
澪の目は明らかに赤かった。
それでも自分は面倒だと思った。
あの時、急いでドアを閉めた理由すら。
ひよりのためにミュージカルのチケットを取るためだった。
家へ戻った直人は、残された物を探した。
書机の奥から、一冊のノートが出てきた。
【気分記録ノート】
精神科で勧められて、澪自身が書いていたものだった。
【今日はかなりつらい。少し怖い】
【直人に言いたいけど、言えない】
【また面倒くさがられるかな】
直人はそこで一度、目を閉じた。
【今日もひよりと残業】
【部屋が静か】
【私は、誰かにいてほしいだけなのに】
次のページ。
【お母さんがいなくなった】
【こんなに悲しいのは初めて】
【直人には「乗り越えろ」と言われた】
【私の気持ちって、そんなに嫌なものなのかな】
責める言葉はひとつもなかった。
それなのに、読み進めるほど胸が苦しくなった。
最後のページ。
【うどんはおいしかった】
【薬は苦い】
【Instagramでは、直人がひよりのために海老をむいてる】
【雪代行きの航空券を取った】
【今日は久しぶりに、眠れそうな気がする】
そして最後。
【直人、私たちの五年間はここに置いていく】
直人はしばらく動かなかった。
最後には顔を両手で覆った。
誰もいない部屋で。
一人きりで。
その夜、ひよりから電話が来た。
一度切る。
また鳴った。
「何?」
「久世先生、ちょっと問題が起きて……」
「患者さん二人の資料を取り違えてしまって、家族から確認されてるんです」
「一人じゃ対応できなくて……来てもらえませんか?」
以前なら、考えるより先に向かっていた。
今の直人は動かなかった。
「俺に言っても仕方ない」
「え?」
「自分のミスだ。自分で対応しろ」
「誰かが一生、君の尻拭いをしてくれるわけじゃない」
「でも……久世先生が、何があっても助けるって言ったじゃないですか」
直人は冷たく笑った。
「小日向ひより」
「自分が何をしたか、本当に分かってないのか?」
電話の向こうが静かになる。
「澪が医療安全管理室に訴えたかどうか」
「一番よく知ってるのは君だ」
「久世先生、私は……」
「明日、君の指導担当から外れるよう申請する」
「別の指導医についてもらう」
直人の声は完全に冷えていた。
「これからは、仕事上必要な時以外、個人的に連絡しないでくれ」
「距離を置こう」
電話を切った。
あれほど着信を見るたび駆けつけていた名前が。
今はただ。
煩わしかった。
7
雪代市に着いたのは、よく晴れた初秋の昼だった。
風は乾いていて、街路樹のイチョウが少しずつ黄色くなり始めている。朝凪の肌にまとわりつくような湿気もない。
私はこの街が気に入った。
会社が用意してくれたのは、1LDKの借り上げマンションだった。
広くはない。でも一人には十分だった。
薄いベージュのカーペット。
窓の外にはイチョウ並木。
床暖房もある。
その夜、新しい部屋に一人で座っていた。
不思議と、寂しくなかった。
電話番号を変えた。
朝凪の人たちとは距離を置いた。
雪代市で新しい精神科を探し、定期的に通院を続けた。
薬もきちんと飲んだ。
仕事のない日はジムへ行ったり、本を読んだりした。
新しい友人もできた。
天気のいい週末は散歩をする。
花を一束買って帰る。
家でパンを焼く。
誰かに許可されなくても。
生活の中には、ちゃんと楽しいことがあった。
雪代へ来て八か月。
主治医の判断で、少しずつ減薬が始まった。
自分の判断でやめたりはしなかった。
睡眠も安定し、気分の波も少しずつ小さくなった。
病気がよくなっていったのは、男と別れたからだけではない。
苦しみ続ける関係を離れ。
ようやく、自分の治療を真剣に始めたからだった。
ひよりから電話が来た日は、大きなプレゼンを終えたばかりだった。
「相沢さん、部長がおごってくれるって!」
「今日はいいもの食べましょう!」
知らない番号から着信が入った。
取引先かと思い、そのまま出る。
「もしもし?」
「澪さん……」
聞き覚えのある泣き声。
「ごめんなさい」
「あの時、私、嘘をつきました」
「本当に反省してます」
「病院でも正式に問題になって、半年間は執刀から外されました」
「専門研修も半年遅れることになって……」
「まだ若いのに、このままキャリアを壊したくないんです」
「お願いです」
「久世先生に一言、言ってもらえませんか?」
「今は私の話を全然聞いてくれなくて……」
私は思わず笑った。
「小日向さん」
「どうして直人が私の言うことを聞くと思うの?」
しばらく沈黙。
「だって……久世先生は澪さんを愛してます」
ひよりは乾いた声で笑った。
「澪さんがいなくなってから、あの人、本当に変わりました」
「病院で私と会っても、見えてないみたいに通り過ぎる」
「手術ばかりして、それ以外の時間はずっとぼんやりしてる」
「今でも、澪さんの写真を持ってます」
あの久世直人が。
感情に振り回されることなんてないと思っていた男が。
そんなふうになったらしい。
でも。
何も感じなかった。
「あなた、直人が好きだったんでしょう?」
ひよりは少し黙った。
「はい」
「初めて会った時から、好きでした」
「でも……」
「その話、私にしなくていい」
「興味ないから」
「私はもう久世直人と別れてる」
「あなたが誰を好きでも、研修がどうなっても、私には関係ない」
ひよりが何か言いかける。
「嘘をつくと決めた時に、こうなる可能性くらい考えるべきだった」
「もう電話しないで」
「迷惑だから」
通話を切った。
「相沢さん、早く!」
「みんな待ってますよ!」
「今行く!」
その電話のことは、五分もしないうちに忘れた。
もう。
時間を使う価値すらなかった。
8
雪代へ来て、二度目の冬。
久世直人が、私のマンションの前にいた。
その日は朝から雪が降っていた。
入口の近くには、子どもたちが作った不格好な雪だるまがいくつも並んでいる。
その横に。
一つだけ妙にきれいな雪だるまがあった。
首には。
見覚えのある灰青色のブランケット。
足が止まる。
二メートルほど先。
街灯の下に、背の高い男が立っていた。
一年以上ぶりだった。
直人は少し痩せていた。
相変わらず黒いコート。
肩には雪が積もっている。
「澪」
一歩近づいて。
また止まる。
「元気だった?」
私はタクシーのドアを閉めた。
「何か用?」
驚くほど普通に言えた。
直人は私の赤くなった指先に気づき、手を伸ばしかけた。
「ここ、本当に寒いな」
「風邪ひくぞ」
私は一歩下がった。
「ありがとう」
「でも、もう別れたんだから」
「距離は取ったほうがいいと思う」
直人の手が宙で止まった。
「澪」
「君が通ってた精神科へ行った」
私は眉を寄せた。
「何も教えてもらえなかった」
「本人の同意がなければ、何も話せないって」
「そのあと、家で気分記録ノートを見つけた」
「全部読んだ」
目が赤くなる。
「ごめん」
「俺、本当に何も分かってなかった」
「君はちょっと繊細なだけだと思ってた」
「数日したら元気になるって」
「でも、違った」
声がかすれた。
「俺は何年も、最低なことをしてた」
「もっと早く来たかった」
「でも怖かったんだ」
「俺が現れたら、また君の状態を悪くするかもしれないって」
自嘲するように笑った。
「でも……もう我慢できなかった」
「澪」
「会いたかった」
昔の私は。
何度この場面を想像しただろう。
いつか直人が後悔して。
赤い目で私に戻ってきてくれる。
その日が来たら。
どれだけうれしいだろう。
でも本当にその日が来てみると。
大したことではなかった。
ベッド脇に置いた、読みかけの小説の続きのほうが気になるくらい。
もう愛していなかった。
「直人」
「罪悪感を持たなくていいよ」
「私は今も治療を続けてる」
「状態はかなり安定した」
「ちゃんと生活できてる」
雪を見上げる。
「帰って」
「天気、悪くなるから」
マンションへ向かう。
「澪」
直人が追ってきた。
「もう一度だけ、チャンスをくれないか?」
「これからは、君の言うことをちゃんと聞く」
「一緒にいてほしい時は、必ずいる」
「つらい時も、一人で耐えなくていい」
「旅行も考え直した」
「犬も飼おう」
エントランスの照明が、彼の赤い目を照らした。
「お願いだ」
「本当に俺を捨てないでくれ」
五年間愛した顔を見る。
「直人」
「遅すぎるよ」
彼の顔が強張った。
「今言ってること」
「昔の私は、全部欲しかった」
「母が死んだ時、ただ少し話を聞いてほしかった」
「病気かもしれないって怖かった時、一度だけ病院に付き添ってほしかった」
「ハサミで切られた日は」
「最初に私を見てほしかった」
「そして私が『信じて』って言った時」
「一度だけ、信じてほしかった」
「それだけだった」
「でも、一度もしてくれなかった」
直人の目がさらに赤くなる。
「ごめん」
「俺が気づかなかった」
「変わるから」
私は首を振った。
「あなたは、優しくできない人じゃない」
「優しさを、私以外に使っていただけ」
直人は黙った。
「ひよりのことは、ちゃんと大事にしてた」
「眠れないって言えば、お茶を買った」
「怖いって言えば、最初に抱きしめた」
「困ったら、自分がいるって言った」
「だから、できなかったんじゃない」
「私には、しなくなっただけ」
「私が絶対に離れないと思ってたから」
「私の悲しみも」
「お願いも」
「少しずつ、どうでもよくなった」
直人は何も言えなかった。
「人は、自分のしたことの結果を引き受けるしかないよ」
「私を失ったことが」
「あなたの結果」
「壊れた関係を、無理に直す必要はない」
「もう来ないで」
すれ違う。
手の甲に、濡れたものが触れた。
雪ではなかった。
直人の涙だった。
それでも。
私は振り返らなかった。
9
あの夜のあとも、直人はすぐには諦めなかった。
朝凪と雪代を何度も往復し、時々マンションの近くに現れた。会わない時は、物だけを置いて帰った。
朝凪にある、私が昔好きだった菓子店のお菓子。
私は近所の人にあげた。
以前欲しいと言ったアクセサリー。
昔は「実用性がない」と言っていたくせに、今ではまとめて買ってくる。
全部送り返した。
昔の私なら、一つでもされたら許したかもしれない。
今はただ、面倒だった。
ある日、直人は会社の下まで来た。
青いアジサイの花束を抱えている。
「相沢さん」
同僚が窓から下を見た。
「あの人、ずっと待ってますよ」
「知り合いですか?」
「なんか、ちょっとかわいそうですけど……」
私は取引先への提案資料から目を上げなかった。
「今忙しいから」
そのままブラインドを閉めた。
仕事が終わる頃。
ふと日付を見た。
朝凪にいた頃、直人と祝っていた記念日だった。
窓から下を見る。
まだいる。
冷たい風の中、何時間も立ち続けていた。
私は、朝凪を離れる前の最後の記念日を思い出した。
車の中で九十分待った。
雨に濡れながら駅まで走った。
その頃、直人は別の女のために海老の殻をむいていた。
残ったコーヒーを飲み干す。
今日は私にも予定がある。
もちろん、彼とではない。
会社を出ると、グレーの車が路肩に止まった。
運転席の友人が手を振る。
私はそのまま助手席へ乗った。
「澪!」
直人の顔が明るくなる。
「やっと会って……」
最後まで聞かなかった。
車のドアを閉める。
後ろへ流れていく景色の中。
花束を抱えた直人だけが、その場に残った。
あの日。
彼はようやく分かったのだと思う。
私は怒っているわけじゃない。
追いかけてほしいわけでもない。
本当に。
もう彼をいらないと思っているのだと。
雪代へ来て三年目。
私は小さな家を買った。
あれほど毎日飲んでいた薬も、引っ越しや片づけを繰り返すうち、いつの間にか棚の奥から消えていた。
昔の記憶も同じだった。
少しずつ。
輪郭が薄くなっていった。
あの頃、どうして直人のたった一言で一晩中泣けたのか。
今ではもう、うまく思い出せない。
その年。
新しい恋人もできた。
医師ではない。
彼も仕事は忙しい。
でも。
忙しいことと、相手を無視することは、まったく別だった。
いつも一緒にいるわけではない。
でも私が必要とする時は、ちゃんと話を聞いてくれた。
「考えすぎだよ」
とも。
「もっと強くなれ」
とも言わない。
仕事で失敗して落ち込んだ日は。
温かいコーヒーを買って、横に座る。
無理に解決しようともしない。
ただ、そばにいる。
そこで初めて気づいた。
私はずっと直人に教えようとしていた。
どうすれば私を愛せるのか。
どうすれば気持ちを理解できるのか。
どうすれば大事にできるのか。
でも恋愛は、教育ではない。
自分を無視する人を。
理想の恋人になるまで育てる必要なんてなかった。
最初から。
こちらを尊重してくれる人を選べばよかったのだ。
直人は、その後も誰とも付き合わなかったらしい。
少なくとも、朝凪の知人から聞いた限りでは。
私に新しい恋人ができたと知った夜。
一人で遅くまで酒を飲んでいたそうだ。
翌日。
知らない番号からメッセージが来た。
【澪】
【もし戻りたくなったら、俺はいつでも待ってる】
一度読んだ。
そのまま迷惑メッセージに設定した。
返信はしなかった。
朝凪を離れて六年目。
私は結婚した。
小さな式だった。
家族と、本当に親しい友人だけ。
その日。
どこで知ったのか。
直人から電話が来た。
メイク中だった。
隣には、これから夫になる人が座っている。
知らない番号。
出なかった。
もう一度鳴る。
「彼?」
私は頷いた。
夫が代わりに取った。
「澪は?」
直人の声。
夫は落ち着いていた。
「今日は僕たちの結婚式です」
「前の恋人と話している時間はありません」
電話の向こうは沈黙した。
「それと」
「もう妻に連絡しないでください」
「あなたは、とっくに彼女の過去の人です」
「元恋人なら、せめて今の生活を邪魔しないくらいの節度は持ってください」
そのまま切った。
鏡の前で。
私は少し笑った。
結婚式の日。
直人は人を通じて、かなり大きな額のご祝儀を送ってきた。
受け取らず。
そのまま返した。
後日。
私は同じ金額を、自分の名前で雪代市の子ども支援団体へ寄付した。
さらに何年かして。
久世直人が朝凪医科大学附属病院を辞めたと聞いた。
朝凪市も離れたらしい。
どこへ行ったのか。
誰も知らない。
その話を聞いても。
悲しくはなかった。
ざまあみろとも思わなかった。
ただ。
ずっと昔の、あの夜を思い出した。
私は直人の書斎の外に立っていた。
部屋の中には明かりがあった。
でも彼は言った。
「出て」
そして。
ドアを閉めた。
私は長いこと、あのドアの前に立っていた。
待ち続ければ。
いつか向こうから開けてくれると思っていた。
でも。
本当に開けるべきドアは。
最初から、私の側にあった。
私は自分で、暗い部屋から出た。
そして久世直人を。
今度こそ永遠に。
私の世界の外へ置いてきた。
二度と。
会うことはなかった。
――完――




