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手続き上、殿下はもう王族ではありません

作者: 近江登夢
掲載日:2026/05/01

夜会の広間で、エドガー殿下が婚約破棄を宣言したとき、私は不思議なほど冷静だった。


「本日、ここに宣言する。私はリゼット・フォーシュ伯爵令嬢との婚約を破棄する」


広間がざわめいた。殿下はマルグリット嬢の手を取り、周囲に見せつけるように掲げている。


私は一礼した。「承知いたしました、殿下」


広間を出ると、冷たい夜風が頬に触れた。涙は出なかった。五年間、ずっと泣きたいときに泣けなかったのだから、今さら出るはずもない。


胸の奥で、何かが静かに燃え始めていた。



婚約が決まったのは、私が十二歳のときだった。


地方の小さな伯爵家と王家の縁組。光栄なことだと誰もが言った。父だけが「法律を学んでおきなさい」と言った。王家に嫁ぐのに法律が何の役に立つのか、十二歳の私にはわからなかった。それでも父の言うことだから、素直に従った。


婚約から二年目の冬、殿下は我が領地の鉄鉱山の採掘権を求めた。王家との婚約を盾にされれば、地方伯爵に断る力はない。父は採掘権を差し出した。


一度だけ、私は殿下に進言したことがある。採掘権の移譲には枢密院の承認が要るのではないかと。殿下は書類から目も上げずに言った。「お前の退屈な知識に興味はない。黙って判を押させればいい」


それ以来、殿下の前で法律の話をすることはなくなった。父の言う通りに法律を学んできたけれど、殿下の言葉が正しいのかもしれないと思った。この知識は、本当に何の役に立つのだろう。


三年目には領地を通る街道の通行税免除を要求された。殿下の派閥に連なる商会を優遇するためだった。領地の収入が三割減った。


四年目、殿下は宮廷での政争に敗れかけたとき、フォーシュ家の兵を借りて体面を保った。返してもらえたのは、兵の半数だけだった。


父は法律に明るい人だった。なのに殿下に一度も異を唱えなかった。あれほど法を信じていた父が、なぜ黙っていたのか。当時の私には、わからなかった。


その年の冬、父は倒れた。領地の穴を塞ぐために走り回り、体を壊した。私が王都の法務書院で学んでいる間に、父はひとりで殿下が空けた穴を塞ぎ続けていた。


父は最期にこう言った。法は弱い者の盾だ。お前なら使える、と。あの言葉は遺言であり、託しだった。


五年目。殿下は私に見向きもしなくなった。搾り取るものがなくなったフォーシュ家に、もう用はなかったのだろう。ある夜会で殿下がマルグリット嬢に囁いているのが聞こえた。「リゼットは法律書ばかり読んでいる退屈な女だ。君のように花のある令嬢がそばにいてくれれば」


そしてあの夜会で、殿下はマルグリット嬢を選んだ。侯爵家の娘。次に搾り取る相手。


だから私は、ただ去るわけにはいかなかった。



帰りの馬車の中で、父の形見の法律書を開いた。


王国婚約法第四十九条。正式な手続きを経ずに婚約関係を変更した場合、法務局は当該王族の関連する権限行使について監査を行わなければならない。


殿下は手続きを踏んでいなかった。あの夜会での宣言は、法的には何の効力もない。


私はその条文を何度も読み返した。そして法律書を閉じたとき、馬車の窓の外に王都の夜景が広がっていた。父の几帳面な字が、頭の中にちらついていた。


翌朝、王宮法務局を訪ねた。担当についたのは、クラウス・ヴェーバーという灰色の髪の事務官だった。銀縁の眼鏡の奥に、鋭い目をしている。


「殿下から正式な届出は一切出ておりません。つまり法的にはまだ婚約は有効です。撤回を求めるのであれば、こちらで手続きを」


クラウスはそう言いかけて、書類を取り出した。婚約破棄を無効にし、元に戻すための書式。私のような令嬢が来る場合、普通はそれを求めるのだろう。


「いいえ。婚約破棄を正式に受理してください」


クラウスの手が止まった。取り出しかけた書類が、中途半端な位置で静止している。


「受理、ですか。破棄を、そのまま通すと」


「ええ。それと、第四十九条に基づく監査も併せて」


今度こそ、クラウスの目が見開かれた。眼鏡の奥で、何かを計算するような視線が走った。


「監査の範囲は、婚約期間中の権限行使すべてに及びます。殿下がこの五年間に行った行為のうち、正規の手続きを経ていないものがあれば、すべて記録に残ります」


「ええ。残してください」


クラウスは私の顔をしばらく見つめていた。それから、口の端がかすかに上がった。


「承りました」


彼もまた、制度を踏みにじる王族に怒りを抱えている人間だった。



二週間、法務局の執務室で監査資料を整えた。だが証拠が足りなかった。殿下の側には記録がない。それは当然だ。記録を残さないことが、殿下のやり方だったのだから。


ある日、クラウスが言った。


「フォーシュ嬢は、なぜここまでなさるのですか。婚約を解消して、静かに領地に戻る選択肢もあるはずです」


私は手を止めた。そして、実家から持ってきた古い帳面を開いた。


父の字だった。几帳面な、あの字。採掘権の譲渡を求められた日付と経緯。街道の通行税免除を命じられた書状の写し。兵の徴用と返還数の差異。すべてが、日付順に、正確に記されていた。


クラウスの目が見開かれた。「これは」


「父は法律に明るい人でした。殿下のやっていることが違法だと、最初から気づいていたはずです。でも声を上げられなかった。王子を告発すれば婚約は破談になる。婚約が破談になれば、王家に逆らった地方伯爵は政治的に潰される。私の婚約が、父の首に巻かれた鎖だったんです」


クラウスは黙って聞いていた。


「だから父は、記録だけを残しました。いつか鎖が外れる日のために。そして殿下は、あの夜会で自分からその鎖を断ち切った」


私が黙って去れば、殿下は次も同じことをする。マルグリット嬢の家から搾り取って、飽きたら捨てる。記録にも残さずに。それを止められるのは、制度だけだ。


クラウスはしばらく黙っていた。それから、静かに言った。


「法律を武器にできる人間は、そう多くありません。知識だけでは足りない。それを使う意志がなければ」


五年間、退屈だと蔑まれてきた知識を、初めて正面から認めてくれた。声が震えそうになったのを咳払いでごまかした。



御前会議の日が来た。


クラウスが書類を読み上げた。淡々と、一語の感情も込めずに。


「王国婚約法第四十九条に基づく監査の結果をご報告いたします。エドガー殿下は婚約期間中、枢密院の承認を得ずに以下の権限行使を行っています。フォーシュ伯爵領の鉄鉱山採掘権の私的取得。街道通行税の独断免除。伯爵家私兵の徴用および未返還。いずれも王族権限濫用の規定に抵触します」


広間が静まった。殿下の顔から血の気が引いていく。


「ふざけるな! あれは婚約者の家から借りただけだ!」


「借用であれば記録が必要です。枢密院の承認印がございません。つまり、王族の権限を私的に濫用されたことになります」


クラウスの声はあくまで平坦だった。


殿下が私を睨んだ。「リゼット! お前が仕組んだのか!」


私は一礼した。


「殿下がお望みになった婚約破棄を、正式な手続きで受理しただけでございます。監査は制度が求めたこと。そして記録を残していなかったのは、殿下ご自身です」


国王陛下が、深いため息をついた。



殿下の王族資格は停止された。婚約破棄が原因ではない。五年間にわたる王族権限の私的濫用。手続きを踏まなかったのは婚約破棄だけではなく、殿下のすべてだった。


私は法務局の顧問として王宮に残ることになった。クラウスが推薦状を書いてくれたらしい。あの几帳面な字で、「優秀な法律家を逃すのは王国の損失です」と。


「大げさですわ」


「事実を書いただけです」


クラウスは眼鏡を押し上げながら、そっぽを向いた。耳の先が赤い。


法務局の窓から朝日が差し込んでいた。積み上がった書類の山。インクの匂い。ここが私の居場所になるとは、半年前には思いもしなかった。


あの夜、広間を出たとき胸にあった感情の正体が、今ならわかる。怒りでも悲しみでもなかった。もうこれ以上、誰も同じ目に遭わせない、という決意だった。


父の言葉は正しかった。法は弱い者の盾だ。なぜ法律を学べと言ったのか、十二歳の私にはわからなかった。殿下に退屈だと笑われたときは、父が間違っていたのだと思った。でも父は、最初からすべて見えていた。


そして今、私はもう弱くない。


クラウスが新しい案件の書類を持ってきた。彼が机に置くとき、指先がかすかに触れた。何事もなかったように背を向ける彼の耳は、やはり赤かった。


私は小さく笑って、書類を開いた。


この王国には、まだまだ正すべき手続きがたくさんある。

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― 新着の感想 ―
法を軽視して廃籍になった王子は反面教師として語り継がれそうだし、製造責任者の王はもし良い王だとしても子育て下手とか言われそう。
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