第五十二話「沼地」
一行はアルボリアを後にし、灰色の空が垂れ込める湿地帯を進んでいた。
どこまでも広がる沼地は、足を踏み外せば一瞬で沈み込みそうな黒い水面が続く。
「いや〜、しかしホバーのお陰で楽に進めるでござるな」
「アンバーも飛べるし、泥で汚れずに済むね」
「アオーン!」
湿地の上を滑るように進むホバーは、ぬかるみに触れることなく軽快そのもの。
シンが操作し、皆は浮遊の恩恵を存分に受けていた。
「こんな所、早く抜けちゃいましょ〜?」
「ホバー! じゃんじゃん進みなさい!!」
――その直後。
ガガッ…ボフンッ!
「ええ!? どうしたのホバー!?」
内部から小さな破裂音が響き、ホバーがぐらりと傾き、下面が沼に触れた。
ドドンッ、ガガガッ!
浮き上がったかと思えば沈みかけ、沼すれすれを擦りながら進む不安定な動きが続く。
「これはダメだ、数分ともたねぇで地面に落ちて沼にハマるぞ!!」
「あそこ! あっちに乗り上げられそうな大きな岩があるよっ!」
ショウが指差す先、沼の中央に平たく巨大な岩が顔を出していた。
「急いで向かうぞ!」
「沈んでしまうでござるぅ!」
「デヘン黙って降りなさい? アンタが一番重いんだから、ちょっとはマシになるかもしれないわ」
「酷いでござる、お嬢〜」
「なんか文句あるのっ!」
「セレナ、だめよぉ〜」
「お母上殿!!」
デヘンがコメットに縋り付く。
「ブタは四つん這いで進みなさい? その上に私が立ってセレナをおんぶして進むわ〜」
「お母上殿の方がさらに酷いでござるっ!?」
ホバーは、中で暴れ回る仲間たちに振り回されながらも、ふらふらと岩へと滑り込む。
そして最後に大きく破裂音を立て、糸の切れた操り人形のように完全に停止した。
「嘘だろ!? ホバー頼む、動いてくれ!」
「力尽きたでござる……」
「ショウ、何とかならないの?」
「……元々の動力はガラクタの山から拾ってきたものだから、こうなるのも仕方ないんだ………。こんなところに代わりの動力なんてないし……………。」
「マジかよ、こんなとこで立ち往生とか運が悪すぎるぞっ」
「こればっかりはどうしようもないよ……。ホバーを置いていくか、何か他の方法を考えよう…ね?ショウ??」
「…………うん…」
空はすでに薄暗く、湿地は冷気を帯び始めていた。
「…もうすぐ夜になるでござる。幸いこの岩は大きい、今夜はここに泊まるのがいいでござるよ」
「それもそうだな。暗い中で動かないホバーを押すのも、足で歩くのも危険すぎる。野営の準備にかかろう」
各々が休息の準備を始める。
「とりあえずテントを張って、ショウとシンとセレナとコメットは中で休息。俺はアンバーと北端を見張る。デヘンは南端で焚き火をたいて警戒してくれ」
「せっ、拙者もお嬢のお傍に……」
コールの鋭い眼光が飛ぶ。
デヘンはぴたりと固まり――後ずさる。
「なっ、なんでもないでござる! 南端の警戒、頑張るでござるよぉ!!」
丸い機体はそそくさと南側へ走っていった。
「ったく……まあいいか。俺も北を警戒するとしよう、アンバー行くぞ」
「ワンワンッ!」
「コールさん、少しいいですか?」
「どうしたんだ……ショウ?」
北側へ向かおうとしたコールに、ショウが真剣な顔で近寄ってくる。
「ホバーのことなんですけど……」
「ホバーがどうしたってんだ?」
「……旅の今後を考えてもホバーは絶対に必要です。現に、この沼はホバーが無ければ簡単には抜けられない……。かといって誰かが通りかかって動力源をもらうなんてことも期待できないと思うんです」
「まあな……アルボリアの連中も、旅人なんて滅多に見ねぇって言ってたし、もし奇跡的に出会っても動力源を持ってる可能性はさらに低い……」
「……はい。だから、多少無理をしてでも、ここでホバーを置いて抜けるのが現実的だと思うんです……」
「だがその様子だと……ホバーを置いていきたくねぇみてぇだな?」
「……!? なんでわかるんですか? あっ!今のは違くて……!!」
コールは笑いながらショウの頭をわしわしとかき回す。
「心配すんな。皆だってショウがホバーを置いてくのが嫌なのはわかってるさ。お前は顔に出やすいからな」
「え!? そんなに顔に出やすいかな……?」
「残念ながらな。……まあ、お前がホバーを大事に思ってる気持ちは尊重するさ。特別な想い入れがあるんだろ?」
ショウは、ほんの少しだけ照れたように、しかし真っ直ぐに言葉を紡ぐ。
「……はい。ホバーは、ぼくが初めて皆の役に立てたことのひとつなんです。守られるだけじゃないんだって教えてくれた……大事な仲間だから……」
「なら、尚更置いてくわけにはいかねぇな。みんなで知恵出しゃ、なんとかなる案も浮かぶさ。まず今日は飯食って早く寝ろ」
「はい!」
ショウが嬉しそうにテントへ戻っていく。
その背中を見送りながら、コールはぽつりと呟いた。
「……まあ、弟のささやかな望みを叶えるのも兄の仕事……だよな…兄貴たち?」
冷たい夜気の中でコールの背は少しだけ大きく見えた。
◆◆◆
夜のテントは――混沌そのものだった。
「ママっ! 今日という今日は一緒に寝ないんだからねっ!」
「あらあら、ツンデレ?ってやつかしら〜?」
「ちっがうわよっ! アタシはショウと寝るの!! 今回は譲れないわっ!」
「異性と添い寝なんてまだ早いわ〜」
「止める権利はないわよ! アタシはもう一人前なんだからっ!!」
「成長は嬉しいけど、早すぎるのは考えものよね〜……えいっ!」
「ちょっ!? 何すんのよ!!」
気付けばセレナは、コメット特製の糸であっという間に拘束されていた。
「なんなのよこれ!? 全然解けないんだけど!!」
「蛾の女の子にプレゼントされた糸を強化しておいたのよ〜。セレナのた・め・に!」
「何してくれとんじゃ蛾の分際でぇ!!」
「便利だわ〜、もし生きてたら仲間にしたのに〜」
「攻撃をプレゼントと解釈してる……ふ、二人ともとりあえずっーー」
「絶対イヤ!! ていうか解いてよ!!」
「ダメよ〜。こんな最高の抱き枕、逃す手はないわ〜」
「離せぇぇええ!!」
テントがギシギシと悲鳴を上げる。
「いや、待って潰れる潰れる! セレナ、一回落ち着いて!!」
「落ち着けるわけないでしょ!!
ウガァァアアッ!!!」
「……はぁ、テント、もうひとつ立てたいな……」
◆◆◆
その騒動に巻き込まれて眠れなかったショウは、そっと外へ出て南端の見張りへ向かった。
「はあ、お嬢のお傍に控えていたいでござる……交代とか……」
「デヘンさん、見張り任せっきりですみません」
「ショウ殿! 眠れなかったでござるか?」
「……はい…せっかく見張ってくれてるのに、ごめんなさい……。」
ショウが申し訳なさそうに腰を下ろす。
「ショウ殿が謝る必要など何もないでござるよ。ただ……コメット殿とシン殿には交代してほしいと……思わなくもないでござるが……」
「言えばいいじゃないですか」
「いえいえ! あのお二人に意見なぞできませぬ! 何より大切な人の傍に居たい一心でありますから……拙者もよくわかるでござるよ………」
デヘンは夜空を見上げ、ため息を洩らした。
ショウも言葉が出ず、沈黙が落ちる。
「……見るでござる。今日は空が……いや、空も地面も絶景でござるよ?」
「え……?」
ショウが顔を上げると――息を呑んだ。
星々の光が沼全体に降り注ぎ、黒い水面に鏡のように映り込む。
天も地もなく、上下すら分からない。
まるで星々の海に浮かんでいるような光景だった。
「すごく……綺麗……ですね」
「でござるな。拙者が人間だった頃なら、一生見ることのなかった景色でござる……レミリアにも見せてやりたいでござるなぁ……」
「……いつかレミリアちゃんが見つかったら、またここに来ましょう?」
「それは、いい考えでござるな!」
デヘンの声が少しだけ明るくなる。
「何ならここにウッドデッキ付きのコテージを建ててレミリアと暮らしたいでござる」
「いいですね! 建てるときは言ってください、ぼくも手伝います!」
「心強いでござるな……必ず頼むでござる」
穏やかな時間が流れたあと、デヘンがふと真面目な声になる。
「……二つほど、聞きたいのでござるが」
「? ぼくでよければ」
「お嬢のこと……セレナ殿は、自身が未成人の子供ではなく、コメット殿の幼児退行が元となった存在であることを……知っているので?」
ショウは少しの間、迷った。
「……いいえ。本当のことを伝えたら混乱すると思って、“人形のセナに込もったセレナの思い出が蘇った”と伝えています。……これでも混乱はしてましたが、すぐにいつものセレナに戻りました」
「そうでござったか……。もう、本当の事はずっと伝えないつもりでいるでござるか?」
「いいえ。いつかは……と思っています」
「急ぐことではござらん。タイミングが来ればいずれ、でござるよ」
「……そうですね」
「お嬢がパニックになったときは、拙者も全力で止めるでござる!」
「……たぶん数秒ですよね?」
「数秒でござる!」
二人は思わず笑い合った。
談笑が途切れたころ――ショウが尋ねる。
「そういえば、もうひとつの聞きたいことって……?」
「それなのですが……酒樽の保管庫で聞いた音声の件でござる。イリスという人物。あれを……罠だとは?」
「……可能性はあります。でも、ぼくと同じ人を見つける手がかりかもしれない。罠を警戒して諦める気は……ないんです」
「……そうでござるか。ショウ殿、拙者実は――」
「おーいショウ、ここにいたんだ! 夜も遅い、なるべく休もう!セレナは…無抵抗(?)になったからもう大丈夫だよ」
シンが迎えに来る。
「あ、ごめん! すぐ戻るよ。デヘンさん、ごめんなさい……ぼくの気持ちはそんな感じです。おやすみなさい」
「……ええ、お休みでござる……」
シンの元へ駆けていくショウを見送りながら、デヘンは胸の中に言いかけた言葉を押し込み、静かに呟いた。
『……研究所では発信元までは分からなかったでござるが、聖街なら……うむ、やはり拙者の口からではなくご自身で直接聞いて判断して頂こう……とにかくショウ殿は守り通すでござる。たとえ――お嬢を守れなくとも……』
満天の星が反射する沼地で、焚き火のように小さな決意が燃え始めていた。
◆◆◆
休息の岩から遠く離れた暗がり。
ひとつの影が、静かに岩上の一行を見つめていた。
襲うでもなく、恨むでもなく、憎むでもない。
ただ――深淵の底から、何かを確かめるように。
影は沈黙のまま、沼に立ち尽くしていた。




