第四十六話「酒蔵」
重厚な鉄扉が、ゆっくりと押し開かれた。油の焼けた匂いと木の香りが混ざり合った空気が、ひやりとした地下の空間から流れ出す。
「ようこそ——俺の“とっておき”へ」
ドランクが胸を張る。その光景に、一同は自然と足を止めた。
そこは、想像していた数倍広く、まるでひとつの独立した街区のような巨大な酒蔵だった。壁一面には無数のパイプが張り巡らされ、低く一定のリズムでポンプ音が響いている。
「……すげぇ……」
コールが目を丸くした。
「順番に見せてやるよ。まずは——ウイスキーだ」
ドランクは足音を響かせながら先頭を歩く。
◆ ◆ ◆
■ウイスキー醸造所
巨大な蒸留釜が三基、黄金に輝く腹を膨らませて並んでいる。照明が反射して眩しいほどに鋼が輝く。
蒸気が白く立ちのぼり、アルコールの甘く刺す香りが空間に満ちていた。
「ここで麦芽を乾燥させて砕く……」
ドランクは機械の腕で鉄製のレバーを軽々と持ち上げる。
「糖化して、発酵して、蒸留して……火加減、湿度、ぜんぶ細かい調整が要る。人間だった頃は地獄のように忙しかったが……」
彼は一瞬、胸の奥に沈む記憶をたぐり寄せるように黙り——
次の瞬間には、どこか誇らしげに微笑んだ。
「今は楽だ。身体が機械だし、工程も全部覚えてるからな」
釜の中を青白い炎が照らし、金属の影が揺れた。
「この熱と香り……今では感じることもねぇがよ。ウイスキーってのは寝かせてなんぼだ。長ければ長いほど、コクは深くなる……」
ドランクは蒸留ラインをなでるように眺めた。
「今飲めなくても構わねぇ。いつか人間に戻れた時のためにな……絶対、作るのをやめたりしねぇ」
その声は少し震えていた。
セレナがそっとまぶたを細め、ショウは無言で拳を握る。
「……ドランクさん、すごいです」
ショウが小さく呟いた。
ドランクはぶっきらぼうに顎を動かしただけだったが、照明が彼の目を照らし、その奥の温かさが一瞬だけ透けた。
「次だ。ついてこい」
◆ ◆ ◆
■ワイン樽の熟成庫
木の扉を抜けた瞬間、空気が一変した。
ひんやりと乾いた風。
わずかに酸味を含む、深い深い果実の香り。
巨大な熟成庫いっぱいに、樽が整然と並んでいる。
一つずつが、まるで眠る巨人の背中のように丸く、太く、木目が美しい。
「ワインはな……時間との勝負だ」
ドランクは樽にそっと触れた。その手つきは、子に触れる父親のようだった。
「この樽の中じゃ……果実の香りも、木の香りも、季節の移ろいも、ぜんぶが混ざって熟していく」
「すげぇ……なんか神聖だな」
コールがつい声を漏らす。
「うん……きれい……」
セレナはほほを染めたように呟く。
「いつ人間に戻れるかもわからないのにどうしてずっと作り続けられるんですか?」
シンが素朴に聞いた。
ドランクは、ふ、と笑った。
「……少し違うな」
「?」
「未来のために続けてきたんだ。
いつか人間に戻れた時に腕が落ちてたんじゃあ話にならねぇ
人間に戻って終わりじゃねぇのさ、その後も絶対に俺は酒を作り続ける」
樽の並ぶ静寂の中、彼の言葉はあまりにも優しく響いた。
「それに、ワインはな……」
ドランクは鼻先を近付ける。
「寝かせるほど深まる。俺が戻る日が遅れようが、関係ねぇ。むしろ——」
子どものように無邪気な声で、
「さらに美味くなるんだよ」
その笑顔があまりにも自然で、一同は息を呑んだ。
「さて……最後だ」
◆ ◆ ◆
■日本酒の仕込み部屋
次の部屋は、一転して白を基調とした無機質な空間だった。
清潔な床、光を反射するステンレスのタンク。
しかし広がる空気は驚くほど柔らかい。
「ここでは米と水だけで勝負する。純粋で……繊細な奴だ」
ドランクはタンクのひとつの蓋を開ける。
ふわりと立ちのぼる、甘く淡い香り。
「これが“麹”だ。命を育てる匂いだよ」
ショウは吸い込んだ香りに驚き、
「……お米って、こんな匂いになるんですね……」とつぶやく。
「日本酒は特に手がかかる。温度管理が命でな。ほんの一度違えば、味が変わっちまう」
「難しそうだ……」
シンが目を丸くする。
「だが、面白ぇんだよ」
ドランクの声は生き生きとしていた。
「このタンクの中に、人間だった時からの“俺の技”が全部詰まってる。飲めねぇ身体でもな……作る時は心だけは人間に戻れるんだ」
静かに、しかし確かに胸に刺さる声だった。
「……絶対に、作るのをやめねぇ。
いつか“戻れた俺”が、最初に口にする酒は——
ここで育った一本でって決めてるからな」
その言葉に、誰も続ける言葉を持てなかった。
けれど、一同の胸の中に自然と温かい何かが灯る。
ドランクは静かに振り返り、子どものように笑った。
「——なぁ。想像してみろよ。
何十年も熟成させた酒だぜ?
飲めるようになった時には……とんでもねぇ旨さだぞ?」
目を輝かせながら言うその姿は、酒場長ではなく、夢を見る職人そのものだった。
「さて……お前らに見せたかったのは、これで全部だ。
どうだ……俺の宝物は?」
その言葉に、六人は胸の奥から湧き上がる感情を抑えきれなかった。
「……すげぇよ、ドランク。ほんとに……すげぇ」
コールが拳を握って言った。
ドランクは照れくさそうに鼻を鳴らした。
「フッ。そうだろうよ」
――酒蔵には、ゆっくりとやさしい機械音が響き続けていた。
酒蔵から戻った一行は再び酒場へ入った。
先ほどまでの喧騒は落ち着き、テーブルに残るジョッキがかすかに油を滴らせているだけだった。
まだ数人の人機が残っており、ドランクたちを見ると目を輝かせた。
「どうだった!? 酒場長の“とっておき”はよ!」
ショウは胸の奥にたまっていた感動をこらえきれず、一歩前に進み出た。
「……すごかったです!! 本当に……全部が綺麗で、すごく、すごく……!」
両手を握りしめて言うショウを、周囲の人機たちは嬉しそうに見守った。
「だろうよォ! あそこは俺らの誇りだ!」
「酒場長に案内してもらうなんて、一生に一度あるかどうかだぜ!」
「……お前が喜んだなら、それで十分だ」
ドランクは照れたように肩をすくめた。
その時——
「……ふぁ……」
ショウが大きなあくびをした。
気づけばもう深夜。
外の窓からは月光の筋が差し、酒場に静かな影を描いている。
「眠気がきたわね、ショウ」
セレナが優しく笑う。
「寝かせてやれ。二階に部屋を用意してある」
ドランクが階段を指さした。
「アンバーも一緒でいいからな。あそこのベッドは頑丈に作っといた」
ドランクが冗談めかして言うと、
アンバーは「クゥン」と鼻を鳴らし、ショウの横に寄り添う。
「……ドランクさん、皆さん……おやすみなさい」
「おう、ゆっくり休め」
「おやすみショウ」
「気をつけて登れよ!」
ショウはアンバーに寄り添われながら階段をのぼり、
やがて二階の部屋に入り、柔らかな布団に身を沈めた。
アンバーがショウの腕に頭をのせると、少年は安心したようにゆっくりと眠りに落ちた。
◆ ◆ ◆
階下では、ドランクがジョッキに油を注ぎ、シン、コール、デヘン、コメットそしてその膝の上に乗るセレナの前に腰をおろした。
「……しかし驚いたな」
ドランクがぽつりと言った。
「生身の人間なんて……暴走以来見なかったぜ。伝説みてぇなもんだった」
デヘンが腕を組む。
「わかります……僕も最初は幻かと思った」
シンが静かに答えた。
「けどよぉ」
コールがジョッキを持ち上げる。
「ショウを見てると……“まだ終わっちゃいねぇんだ”って思えるんだよな」
ドランクは深くうなずいた。
「……あぁ。人類に、希望がある。そんな気がした」
「……だからこそだ。守らねぇとな」
ドランクはゆっくり立ち上がり、酒場の中央に視線を向けた。
「俺は酒造りを続ける。今日見せた酒蔵も、もっと良くしてやる。
人間だった頃の俺が胸張れるようにな。
だがそれとは別に——」
彼の声は硬くなり、瞳が鋼の光を宿した。
「ショウは、命に代えても守る。あいつは……未来だ。」
全員がその言葉に黙ってうなずいた。
「機械軍がどう動こうが、どんな怪物が来ようが……この街に来たからには、ただで帰すわけにはいかねぇ」
デヘンが拳を打ち合わせる。
「ショウがいる限り、この世界は終わっちゃいねぇ。俺たちはその盾になる」
コールは落ち着いた声で宣言する。
「当たり前だよ……ショウは僕たちが守る……!」
シンも続いた。
静かな酒場に、強い決意の音が宿る。
「よし」
ドランクが高くジョッキを掲げた。
「ショウの未来に。俺たちの誓いに。——乾杯だ」
「「「乾杯!!」」」
夜更けの酒場にジョッキの音が響き、
その音はまるで——小さな灯火が確かに燃え続けている証のようだった。
仲間たちがそれぞれ静かに階段をのぼり、二階の部屋へ向かっていった。
人機は眠らない。だが休息は必要だ。
酒場の明かりが少し落とされ、夜の静けさが戻った。
その中で、ただ一人ドランクだけが酒場に残った。
ジョッキには、もう一滴のオイルも残っていない。
「……ふぅ」
ドランクはカウンターの奥へと歩き、
木製の小さな鍵束を手に取る。
その鍵には刻まれていた。
《BEER ROOM》——。
彼は扉を前に立ち止まり、深く息を吸った。
「ビールか……」
そこには誰もいないのに、ドランクは小さく呟いた。
ビールは特別だった。
ウィスキーのように何十年も寝かせることはできない。
ワインのように熟成で化ける酒でもない。
日本酒のように低温でじっくり保つ酒でもない。
——だからこそ、
造った瞬間から“寿命”が始まる酒だ。
人間が絶えて久しい世界では、
それはあまりに残酷な事実だった。
「……試飲もできねぇ身体でビールを造るなんざ、酒職人の矜持に反するんだよ……」
ドランクは長い指で鍵を握りしめる。
ビールは“味を確かめながら仕上げる酒”だ。
味見をせずに造るのは、命をかけた無謀のようなものだった。
そして何より——造っても飲む者がいない。
だから、彼は造らなかった。
どれだけ望んでも。
「無駄にはしたくなかったんだ……あの黄金色の、若ぇ命みてぇな酒をよ」
苦く、甘く、香り高い。
数日で最も輝き、そしてその輝きを失っていく酒。
まるで、あの日失った命のようで——。
ドランクは目を閉じ、左胸に手を当てた。
しかし今日、確かに見た。
生身の少年——ショウ。
あの小さな息遣い。
あの小さな笑顔。
生命がそこにあるという、奇跡。
「……数年……いや、きっともっと早ぇ」
彼は小さく笑った。
「ビールを飲む“人間”が、ここに戻ってくる」
そう確信できた。
胸の奥から湧き上がる熱は、酒ではない。
希望だった。
ドランクはそっと鍵を差し込み、ゆっくりと扉を押し開けた。
中には、長い間封印されていた麦芽の袋、ホップの瓶、仕込み釜。
どれも磨かれ、いつでも動き出せるように整えられていた。
「……待たせたな」
誰に言うでもなく呟き、
ドランクは袖を捲り上げた。
「今日からまた始める。
ショウが飲む未来のために——この酒場長ドランクが、ビールを造る。」
静寂の中、仕込み釜にそっと火が灯される。
長い年月を経て、今日。
樹都アルボリアの夜に、再び新しい酒の音が響きはじめた。




