第1章
アラームが鳴る七秒前に、俺の意識はいつも浮上する。
体内に染みついた体内時計なのか、それともこのダンジョンの魔力が無意識に干渉しているのか。
答えなんて知りようもないし、正直どうでもいい。
重たい瞼をこじ開けると、見慣れた天井がそこにあった。
岩をくり抜いて作っただけの、無骨で殺風景な天井。
ベッドも、祖父の代から使われている年代物で、ギシリと不機嫌な音を立てる。
俺、カイは、そのベッドからゆっくりと身を起こした。
ベッドの脇に置いたマグカップを手に取り、部屋の隅にある小さなキッチンコーナーへ向かう。
と言っても、魔力でお湯を沸かすポットと、シンクがあるだけの簡素なものだが。
棚から瓶を取り出し、茶色い粉をマグカップに二杯。
そこにポットから熱い湯を注げば、インスタントコーヒーの安っぽい、だが少しだけ心が落ち着く香りがふわりと立ち上った。
この「感応性迷宮」の最下層に位置する俺の私室兼、世界の命運を左右する(らしい)職場には、窓がない。
朝も夜も、この魔晶石が放つ淡い光だけが頼りだ。
だから、このコーヒーの香りが、俺にとって唯一の「朝の儀式」だった。
熱い液体を一口すすり、喉の奥を軽く焼く苦みで意識を覚醒させる。
「……さて、と」
独り言が、しんと静まり返った部屋にやけに大きく響いた。
マグカップを片手に、俺は自室の奥にある、重厚な黒曜石の扉に手をかける。
ひんやりとした石の感触が、手のひらから伝わってくる。
これから始まる「仕事」の合図だ。
扉を開けると、空気が変わった。
そこは、ドーム状の巨大な空間。
俺の私室とは比べ物にならないほど天井は高く、壁には無数の魔術回路が青白い光の脈流となって走っている。
玉座の間。部屋の中央には、黒水晶を削り出して作られた禍々しくも美しい玉座が鎮座し、その目の前には、この部屋の主役である巨大な操作盤が鎮座していた。
そして、壁一面。
まるでプラネタリウムのように、ダンジョン内部の構造が立体マップとして投影されている。
無数の光点が、マップのあちこちで蠢いていた。
「……今日もご新規さんか」
俺は玉座にどかりと腰を下ろす。
見た目は立派だが、座り心地は最悪だ。
コンソールにコーヒーを置き、立体マップに意識を集中させる。
すると、マップ上のひとつの光点が、俺の意思に感応してズームアップされた。
`侵入者情報:`
`名前:リリア`
`種族:人間`
`職業:剣士(レベル3)`
`装備:皮の鎧、鉄の剣`
`特記事項:なし`
「はいはい、特記事項なしね」
俺は慣れた手つきでコンソールを操作する。
侵入者のレベルに合わせて、起動するトラップを選ぶ。
これも、祖父が遺した忌まわしき「管理人マニュアル」に書いてある通りだ。
レベル3なら、第一階層のトラップレベルは2が推奨、と。
「んじゃ、まあ、定番のやつで」
コンソールのリストから「スライムトラップ・レベル2」を選択し、起動スイッチに指を置く。
一瞬だけ躊躇う。
……なんてことは、もう何年も前に通り過ぎた。
今はもう、歯磨きと同じレベルの完全なルーティンワークだ。
ぽちっ、と。
軽いクリック音と共に、スイッチが赤く点灯する。
玉座の正面にあるメインモニターの映像が、指定したポイントに切り替わる。
薄暗い石造りの通路を、女剣士が慎重に進んでいる。
ポニーテールにした栗色の髪、勝ち気そうな瞳。
着込んだ皮鎧は体のラインにぴったりとフィットしていて、その下にある胸や腰の柔らかな膨らみを隠しきれていない。
まあ、すぐに意味なくなるんだけどな。
彼女が、床に描かれたうっすらとした魔法陣を踏んだ瞬間だった。
天井から、ピンク色の半透明な液体が、ぬるり、と彼女の頭上に落下する。
「きゃあっ!?」
短い悲鳴。だが、それはすぐに、くぐもった甘い声へと変わっていく。
「な、なにこれ……あっ、んんっ……!」
スライムは意思を持つかのように彼女の全身を這い回り、あっという間にその体を包み込んでいく。
抵抗しようと振るわれる鉄の剣も、粘液に絡め取られて虚しく床に落ちた。
カラン、という乾いた音がやけにリアルだ。
皮の鎧は、スライムが持つ特殊な溶解酵素によって、じわじわと形を失っていく。
まずは胸当てから。
守りを失った豊かな双丘が、ぷるんと重力に震える。
ピンク色の先端が、スライムに弄ばれるたびに硬く尖っていく様が、モニターにはっきりと映し出されていた。
「あ、だめぇ……そ、そこは……いやっ、んくぅっ……!」
手足は拘束され、腰がびくん、びくんといやらしく痙攣する。
涙目で快感に耐える顔は、最初の勝ち気な表情とは別人のように扇情的だ。
俺は、その映像をただ無感情に見つめながら、コンソールのボリューム調整に手を伸ばし、つまみをゼロに回した。
――ミュート。
これでよし。
あの声は、どうにも集中力を削ぐ。
モニターの中で、声にならない喘ぎを漏らしながら体をくねらせる女剣士。
その姿から視線を外し、俺はダンジョンのエネルギーゲージに目をやる。
彼女が感じている興奮や快感が、良質な「励起魔素」に変換され、ゲージがゆっくりと上昇していく。
うん、今日のノルマはこれで達成だな。
「仕事は仕事、っと」
俺は呟き、すっかりぬるくなったコーヒーを飲み干した。
後味の悪い苦みが、口の中に広がる。
この、世界の果てにある玉座で、俺はまた、昨日と何も変わらない一日を始めるのだった。