リクナ・アンティスキア
夜が深まるにつれ、名もなき村の空は黒絹のごとく張り詰めていた。
奏真は、粗く織られた敷き布の上で身を起こしたまま、静かに寝息を立てるアレセアの背を見つめていた。
藍染の織物に身体を預けていたはずが、今はもう、そこに横たわる気にもなれない。
まだ、一日が終わっていない気がしていた。
胸の奥に残る感触――それは、あの瞬間、糸を手繰ったときのものだった。
この世界の理も、秩序も知らない。けれどあのとき、奏真は本能的に理解した。
——それは、あってはならないものだった。
空間に揺らめいた、裂けかけた運命の糸。
何かの末端が無理に引き裂かれたような、異様な“ほつれ”。
見てはいけない、触れてはいけない。けれど、触れてしまった。
あれを繕ったことが何を意味するのか、理屈では分からない。
ただ、そうしてしまった自分が、この世界の中で異物であることを――言葉にならぬ確信として、深く、知っていた。
「……僕は……帰りたいだけなのに」
知らぬ世界で、知らぬ力を授かり、知らぬ糸を縫った。
運命の織物に、自分が関わってしまったという感覚が、夜の静けさにじわじわと広がっていく。
そのとき、微かに寝返る気配がした。
アレセアが身体を起こし、ぼんやりとした目でこちらを見ている。
すぐに彼の顔つきに気づいたのだろう、目がすうっと細くなった。
「……奏真? どうしたの……そんな顔」
言葉に困り、奏真は視線を逸らす。
だがアレセアは、小さく息をつき、織物を足元で巻き直しながら彼の隣に腰を下ろした。
「ねえ、何があったの?」
問いに、迷いがあった。けれど、隠しきれることではなかった。
「……糸が、見えたんだ」
アレセアの瞳が、瞬時に真剣な色を帯びた。
けれど、動揺ではなかった。ただ深い静けさを湛えていた。
「どんな糸?」
「……裂けてて。今にも千切れそうで……でも、放っておけなかった」
言葉を重ねるたび、胸が締めつけられるようだった。
恐怖ではない。理解されないであろうことへの確信。それでも語らなければならない気がした。
「何かを壊したのか、それとも……繕ったのか、自分でも分からない。ただ――あれに触れたことで、僕はもう元の場所に戻れない気がしてる」
アレセアはしばらく黙っていた。
そして、星の宿るその瞳を静かに向けて言った。
「星読族のわたしでも、“運命の糸”なんて見たことないわ」
「それが見えたってだけで、あなたが……どれだけ“在ってはならないこと”に触れたか、なんとなく分かる」
「じゃあ……怖くないの?」
「怖いわ。でも、それ以上に……あなたが怖がってるのが分かるから」
その言葉は、慰めではなかった。ただ、静かにそばに寄り添うものだった。
答えにならない問いが、ほんのわずかにだけ、柔らかくほどけていく。
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