ネフスミオ・クレヴァシス
夜は、静かに天穹圏の大地に沈みつつあった。星の光が幾筋も空に溶け込み、まるで天の織機が織りなす銀糸のように世界を包み込んでいる。
名を持たぬ村――地図にも記されず、言葉にも刻まれぬこの場所で、僕は今、見知らぬ人々の温もりに包まれていた。
ミィナという老女の家。土の香りと乾いた薬草の匂いが混じるこの家には、どこか懐かしい空気が漂っていた。
小さな囲炉裏に揺れる火を見つめながら、僕は今日一日の出来事を反芻する。
異世界に現れ、空を裂く塔を見上げ、アレセアと出会い、名もなき村に辿り着いた――まるで、すべてが夢の中の出来事のように思える。
それでも、僕は確かにここにいる。
「ここに泊まるの、初めてじゃろうに。まあ、遠慮はいらんよ。寝床は奥、好きに使うといい」
ミィナの言葉に僕は小さく頷くと、畳のような質感の床に敷かれた布に身を預けた。アレセアは隣室で休んでいるようだった。扉越しに微かに聞こえる衣擦れの音が、彼女もまだ目を閉じていないことを教えてくれる。
眠れない。
元の世界に帰りたい――そんな思いが胸の奥で疼き続けている。
それでも、どこかで自分の中の何かが変わり始めていることに気づいていた。見知らぬ言葉を理解し、この世界の空気に馴染み始めている自分。
その変化が、恐ろしくもあった。
ふと、指先が布の端に触れる。その瞬間だった。
視界の隅に、細く、ほとんど見えない糸が浮かんだ。
闇の中、ほんの微かな光を帯びて揺れている。まるで、世界の織物からはみ出した一本のほつれのように。
これは……何だ?
伸ばした指が、その糸に触れた。
触れた瞬間、糸が静かに巻き戻った。
まるで、逆撚られていくかのように――時間と因果の流れを逆さに辿るように――。
次の瞬間、視界が揺れた。
誰かの記憶。誰かの言葉。もう存在しないはずの「選ばれなかった運命」の断片が、走馬灯のように流れ込んできた。
けれど、それは明確な「過去」でも「未来」でもなかった。ただ、織物の裏地に隠された、もう一つの可能性。その隙間を、僕は今、垣間見ていた。
息を呑み、手を引っ込める。
糸は消えた。まるで、最初から存在しなかったかのように。
「……っ、奏真……?」
傍で見ていたアレセアが、不意に名を呼んだ。
彼女の視線は僕の手の先――けれど、そこには何もなかったはずだった。
唐突な動きと、明らかに変化した僕の顔色に、彼女は僅かに身を寄せる。
「今、何を……見ていたの?」
その問いに、僕は答えられなかった。
名を持たぬ力。見えるはずのない「綻び」に触れ、縫い直すような感覚。
だが、それを誰かに伝えることはできない気がした。この糸は、おそらく僕にしか見えない。
それが、この世界における「運命」の一端だと、直感が告げていた。
***
遥か天穹の王都、アストレオノクス。
そこは天上の光を浴び、星読族〈アステル〉の叡智と信仰が集う都。
深淵詠みの称号を継ぐ王、ドゥレイ・カンザリオは、夜の執務室にて星々の軌跡を見つめていた。
大理石の床に散らばる星図と巻物。背後には、束ねられた無数の預言の記録。だが今、彼が見つめるのはそのいずれにも記されていない「欠損」だった。
「……在るべき糸が、見えない。いや、綻びか……?」
星読の儀において、彼は初めて読み解けない裂け目に出会った。予兆なき揺らぎ。秩序の織機からはみ出す一筋の、名もなき糸。
ドゥレイは、瞼を閉じて深く息を吐いた。
彼は唯一神エリオヌスを信仰していた。世界の運命は神の機織であり、その織り目を読むのが自らの使命だと信じてきた。
だが、今、その織物に予兆なき「ほつれ」が走った。
それは神の意志ですらないかもしれない。
「……何者かが、運命に触れた。しかも、それを制御できる……?」
ありえない。伝承には、そんな力は存在しない。
だからこそ、ドゥレイ・カンザリオだけが、その異常に気づいた。
そして、星図に微かに揺れる光点が一つ――未記録の地、天穹圏の辺境に灯った。
「まさか、こんな場所に……」
王は決断する。自身の直感が告げる場所へ、直ちに向かわねばならないと。
星読族の王にして、深淵を覗く者が、いま静かに立ち上がる。
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