アノニマ・ファイスマ
塔を背にしてから、どれほど歩いただろう。
夜は深まり、風は草原の上を優しく撫でていく。遠くに見える星々は、まるで地上の灯を導くかのように、一定の間隔で瞬いていた。
アレセアと僕は、ほとんど言葉を交わさずに歩き続けていた。けれど、その沈黙は重くなかった。不思議と、隣に並ぶ彼女の足音が、迷いを打ち消してくれるように感じられた。
「――もうすぐだよ」
アレセアが言った。声は静かで、しかし確かな明るさを帯びていた。
やがて、視界の先にぼんやりとした明かりが浮かび上がった。火の粉のようなそれは、いくつも地面に灯っており、まるで宙に浮かぶ星が地に落ちてきたかのようだった。
「村、なのか?」
僕の問いに、アレセアは少しだけ微笑んだ。
「うん。でも、名前はないの。このあたりじゃ“村”としか呼ばれない」
「……名前がない?」
「元々は放棄された集落だったらしいよ。地図にも載ってないし、正式な記録も残ってない。けれど、いつの間にか、人が少しずつ戻ってきたんだって」
不思議な話だった。でも、この世界に来てからというもの、そういった「境界が曖昧なもの」にいくつも出会っている気がする。だから不思議と、すんなりと受け入れられた。
村は小さかった。十軒ほどの家屋が、ゆるやかな丘の斜面に沿って点在していた。外壁の土は風に削られており、灯りもか細い。それでも、人の営みの匂いが確かにそこにあった。
アレセアは村の入口で立ち止まり、少しだけ振り返った。
「案内するよ。……あまり歓迎される場所じゃないかもしれないけど、大丈夫」
「君がいれば、それで十分だ」
思わず出た言葉だった。けれどアレセアは驚いたように目を瞬かせたあと、小さく笑った。
「変わってるね、奏真は。……でも、ありがとう」
僕たちは村の中へと足を踏み入れた。
夜の帳のなかで、家々の灯りはまるで火の精のように静かに揺れていた。人々の姿は見えなかったが、その気配は感じられた。窓の奥に影が動く。犬の遠吠え。木戸のきしむ音。
いずれも生活の音だった。ほんの小さな村の、名もなき営み。
「ここ、私がよく立ち寄る場所なんだ」
アレセアが示したのは、小さな木造の家だった。扉には古びた装飾が彫られており、誰かが長年手入れを続けてきたことを感じさせた。
彼女が軽く扉を叩くと、しばらくして中から年老いた女性が顔を覗かせた。
「おや、また来たのかい。……今度は誰だい、その子は」
「少し道に迷ってたの。……泊めてあげたいんだけど、いい?」
老婆は奏真をしばらく見つめたあと、目を細めて頷いた。
「星読族の言うことなら、聞かない理由もないさ。入りな」
「ありがとう、ミィナ」
アレセアの声には、どこか懐かしさのようなものが滲んでいた。
家の中は暖かかった。囲炉裏には火がくべられ、粗末ではあるが清潔な布団が二組敷かれていた。
ようやく腰を下ろしたとき、全身の力が抜けたような気がした。
「ここには、よく来るのか?」
僕の問いに、アレセアは小さく頷いた。
「この村は、いろんな人が訪れて、そして通り過ぎていく。誰にも縛られずに、でもどこかで寄り添える。……そんな場所なんだよ」
僕はその言葉の意味を、すぐには掴めなかった。ただ、彼女の横顔には、どこか遠い記憶を見つめるような静けさがあった。
村の灯りは夜の風に揺れていた。
名前を持たない村。その名もなき灯影の中で、僕はようやくひと息をついていた。
そして、その静けさの中に、微かに心の綻びが滲み始めていた。
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