ルメニス・アポレイア
光は、導きのように漂っていた。
それはあまりに滑らかで、あまりに無音だったから、途中から「浮かんでいる」とか「進んでいる」といった感覚すら失っていた。ただ、気づくとこちらの前方にいて、また少し先へと進んでいく。それを追うしかなかった。
歩いていたはずなのに、気づけば走っていた。走っていたはずなのに、いつのまにか、立ち止まっていた。
そして、見上げるような構造物が、夜に立っていた。
塔だった。そう、塔――。
でもその言葉を使うのもためらわれるほど、形はあいまいで、現実味がなかった。
幾本もの、樹とも柱ともつかない巨大な影が束ねられて、空に向かって編み上がっている。透けているようでいて、確かにそこにある。光が反射することもなければ、影を落とすこともない。けれど、触れればきっと感触はあるのだろうという存在感があった。
そしてその麓に、さっきまで追っていた光が、ぽつりと留まっていた。
「……ここが、終点……?」
つぶやいた言葉は、自分のものなのに、誰かの声のようだった。
身体が拒否していた。
これ以上近づいてはならない、と。
理屈ではない。ただ、そこに立ちすくむしかなかった。
見上げるたび、胸の奥が冷たくなる。鼓動が速くなるのではなく、逆に、ひどく沈んでいく。高揚ではなく、沈降。まるで心が地に引きずられていくような、そんな錯覚。
(なぜ……入れない)
目の前に光があるのに。
「誰か」がいる可能性があるのに。
ここまで歩いてきたのに。
なのに――一歩が、出ない。
地面が裂けているわけではなかった。扉が閉じているわけでもない。
ただ、塔の入り口らしきアーチの向こうには、黒い空洞のようなものが広がっていて、そこから風すら感じられなかった。
生きている気配がなかった。
「……っ」
喉が渇いていた。口の中が砂のようで、でも飲み込む水もない。
掌に汗がにじんでいる。こんな世界に来て、初めて「自分の身体」を感じた気がした。
生きている証拠。それは、恐怖だった。
足が退く。けれど、その場に座り込むこともできなかった。塔から視線を外せないまま、時間だけが過ぎていく。星々の明滅すら止まったような、異様な静寂。
(……誰か……)
そのとき、微かな音がした。塔の内側からではない。風でもない。
――音だった。地面を踏みしめる、何者かの足音。
僕は振り返った。
誰かが、こちらに向かってきていた。遠くから、ゆっくりと。
輪郭はまだ見えない。けれど、確かに誰かが、こちらに近づいている。
塔よりも、その足音の方が、僕の心に火を灯した。
(……ようやく……)
誰かが来た――
それだけで、胸にこみあげるものがあった。
助けかもしれない。敵かもしれない。それさえも、今はどうでもよかった。
「――!」
呼びかけようとした瞬間、塔の上部が、微かに光った。
さっきまでなかったはずの、淡い蒼白の輝きが、ゆらりと生まれていた。まるでそれが、誰かの接近を察知したかのように。
同時に、僕の内側にも何かが灯った。
冷えきっていた身体の奥に、火がともったような、逆流するような感覚。
塔が、呼んでいる?
違う。
僕が、呼ばれている。
その瞬間、背後の足音が止まった。
反射的に振り返ると、そこには、ひとりの人物が立っていた。
顔は、影になって見えない。
けれど、その姿からは、確かな意思のようなものが漂っていた。
声は、なかった。
けれど、何かを語りかけているような――そんな気配。
塔、光、影の人物――。
この世界が、ゆっくりと「動き出している」ことを、僕は知った。
そして、まだ足は動かなかった。
動いてはいけない気がした。
ここで一歩を誤れば、もう戻れない気がした。
だから僕は、その場に立ったまま、目の前の「何か」を、見つめていた。
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