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クローモ・ファトゥム ― 色なき運命へ  作者: 霧雨桜花
第一章 : アストラの綻火
4/12

ノクト・プラネセイア

 いつの間にか、そこにいた。

 始まりも終わりもなく、導きも予兆もなく、ただ意識が立ち上がったときには、その場に立っていた。そうとしか言えなかった。


 


 足元に、草が生えていた。けれど、それを草と呼んでよいのか迷う奇妙な質感だった。土のぬくもりも、湿り気もない。冷えているわけでもない。ただそこにあるとしか言いようのない、無機質な色と形。その上に、自分の足は確かに立っていた。滑りも、揺れも、痛みもなかった。逆にそれが不気味で、不自然で、不確かだった。


 


 見上げると、空に星があった。正確に言えば、それは星に似た何かだった。

 点ではない。線でもない。瞬きもしなければ、流れもしない。ただそこに、無数の光の粒子が、宙に滲んでいた。

 それが空かどうかも怪しかった。ただ、それ以外に言いようがなかった。


 


 思考は研ぎ澄まされているのに、現実感だけが遅れていた。どこか夢の中にいるようで、それでいて夢のような浮遊感や幻想性もない。現実以上に現実的で、ただし現実とはどこか違う。

 その「違い」がどこにあるのかを考える前に、ある衝動が胸を打った。


 


 ――誰か、いないか。


 


 それは感情ではなく、本能だった。

 説明も、動機も、理屈もなく。ただこの場所に独りで居ることが、絶対的な「危機」であるという感覚だけが、脊髄に染みていた。


 


 そうして僕は、歩き始めた。


 


 方向はなかった。ただ「進む」ことだけを選んだ。

 それが逃避なのか、探索なのか、自殺なのかさえも判然としなかった。ただ、立ち止まり続けることが、何かを崩壊させる気がしてならなかった。


 


 しばらく歩くと、足元の草が微かに形を変えていた。

 もしかすると、それは風のせいかもしれない。けれど、その風すら、音を持たない。葉は揺れているのに、擦れ合う音も、踏みしめる音も、何もない。

 視覚だけが、唯一の現実だった。


 


 静かすぎる。

 この静けさは、自然のそれではない。

 世界が呼吸をやめたような、何かが途絶した後のような、そんな重さを持っていた。


 


「……誰か」


 


 声は、思った以上にかすれていた。

 けれど、その声をかき消すものは何もなかった。何もない場所だからこそ、声だけが、まるで異物のように響いた。


 


 誰もいない。気配もない。獣の影すら、風の戯れすら、感じられない。

 けれど、それでも歩くしかなかった。そうしないと、取り返しのつかない何かに、取り込まれる気がして。


 


 やがて、小さな窪みのような場所に差し掛かった。

 そこだけ草が倒れていた。あるいは、何かが通った痕跡かもしれなかった。もしくは、ただの風の流れの結果かもしれない。

 だが僕は、それを「人の痕跡」だと決めた。


 


 意味がなくてもいい。確信がなくてもいい。

 それでも、「誰かがいた」という可能性は、今の自分にとって、それだけで灯火だった。


 


 さらに歩く。少しだけ早足になる。

 身体はまだ重くない。息切れもしない。だが、それもどこか奇妙だった。

 疲れていないのに、焦りだけが、胸を焼いた。


 


 森のようで森でない木々が、形を歪めていた。幹は伸び、枝は天に向かって捩れていた。まるで星の光を吸い込もうとする触手のようだった。

 その影の下を抜けるたび、少しずつ、何かが身体から剥がれていくような気がした。

 名前も、思い出も、感情も、まだ持っていたはずなのに、それが自分のものであるという実感だけが、遠ざかっていった。


 


 それでも、立ち止まることはできなかった。

 生きる、という言葉はあまりに抽象的すぎる。

 ただ、「消えてはいけない」という叫びだけが、自分の形を保たせていた。


 


 やがて――闇の彼方に、光が揺れていた。


 


 それは灯りだった。火ではない。電灯でもない。

 淡い青に近い銀の光。それが、空中に浮かんでいた。


 


 僕は、それに向かって走り出した。


 


 迷いはなかった。罠かもしれない、幻かもしれない。けれど、そんなことはどうでもよかった。

 そこに何かがある。それだけで、足は勝手に動いた。


 


 光は、ゆっくりと移動していた。まるでこちらを導くように。

 あるいは試すように。

 それに気づいたときには、もう戻れなかった。


 


 光を追い、草原を抜け、丘を越え、森の奥へと踏み込んでいく。

 空の星々が、静かに瞬いていた。

 いや――瞬いていたのではない。呼吸をしていた。まるでこの世界そのものが、どこかの鼓動と同調しているように。


 


 だが、それを感じ取っているのは、きっと僕だけではない。


 


 この世界のどこかで、誰かがこの夜を見ている。

 そう信じられるほどには、僕はまだ壊れていなかった。


 


 そして、そう信じたとき、風が――音を持ち始めた。


 


 それは、始まりの兆しだった。

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