クローモの祈り火
目を開けた。そこに、世界はなかった。
いや、“あった”のかもしれない。ただし、常識の外側に。
空は灰のように濁っていて、足元には床も地面もない。
ただ空間だけが、黙って広がっている。無音で、無彩色で、無意味に。
(……夢、じゃない……)
胸の奥が、どくりと重く脈打った。
それは恐怖でも、焦燥でもなかった。
もっと曖昧で、もっと生々しい、「異物感」。
何かが、自分の内側に“いる”。
それも、たった今、どこかから押し込まれたような――。
(……なにか、おかしい)
思考が絡まる。これは現実じゃない。けど、ただの夢でもない。
確かなのは、自分が“どこかに連れてこられた”ということだけだ。
突然、脳裏に誰かの声が微かに残響する。
――「さあ、行ってらっしゃい」
思い出せない。誰の声かも、どんな意図かも。
ただ、言葉に含まれていたのはあまりにも無邪気な愉快さ。
まるで、駒を一つ、盤上に投げただけのような軽さだった。
(……勝手に……ふざけんな)
握り締めた拳が震えていた。恐怖ではなく、怒りでもなく。
ただ――不条理に対する、普通の人間としての当然の反応だった。
自分はただ、平凡に、退屈な日常の続きを過ごしていたはずだ。
けれどその延長線上に、こんな現実はなかった。
(……どこかの神様の、気まぐれか?)
そんな言葉がふと浮かび、滑稽さに思わず鼻で笑う。
でも、それ以上に笑えないのは――
自分の内側で、何かが“生まれている”感覚だった。
名も知らぬそれは、確かに自分の中に入り込んで、根を下ろしつつある。
まるで、なにかを待っているように。
でも、そんな都合のいい“力”なんて、信じない。
ただの凡人の、自衛本能。
ここでは、何を信じるべきかさえ、まだ見えていない。
それでも――
(それでも……)
立ち止まっていれば、何も始まらない。
踏み出すことでしか、理解にはたどり着けない。
奏真は一歩を踏み出した。
“祈り”などではなく、“願い”ですらなく。
ただ生きるために選んだ第一歩。
色を持たぬ炎が、視界の端で揺らめいた。
それは名もなき導き――あるいは、物語の点火。
彼はまだ知らない。
その内に宿った“異物”こそが、神すらも欺く織糸であることを。