クラスタグリュス・アステロファゴス
村が沈黙していた。
風は止み、木々は震えず、鳥の声もなかった。天にあったはずの星々は影さえなく、空はただ黒一色の帳となり、遠くの山の輪郭さえ失われていた。
ドゥレイ・カンザリオは、かつて王たる証を掲げた右手を見つめていた。
そこには何の光も宿っていない。かつて無数の星の音を読み取り、分岐を見通し、未来を歌い紡いだその手は、今やひとつの星すら捉えられず、力の残滓だけが指先で微かに燻っていた。
彼は理解していた。
自らが継承していた深淵詠みの座は、もはや己のものでなくなったと。
王の鍵が奪われ、星魂詠唱の中枢が他者に奪い取られたその瞬間から。
そして、奪った者は―――今、村の空にいる。
地を踏む音はなかった。
ただ“それ”は浮かび、降りてくる。星のようにではない。星を喰うものとして。
「……カシエル」
名を呼んだ声は誰にも届かず、自らの胸奥に沈んでいった。
その姿はもはや、星読族の輪郭を成していなかった。
長身にしてしなやかだった肢体は、異様に引き延ばされ、薄く、影のように。
星衣の意匠はすでに消え失せ、代わりに浮かぶは渦巻く天文円環――だがそれは、天の秩序ではなく破壊された運行図だった。
カシエルは色を持たない。
光でも闇でもなく、“反転”した理そのもの。
あらゆる星を喰らい、暦を捻じ曲げ、運命の結び目すら断ち切る。
その眼に浮かぶのは、かつて深淵を見つめた知の煌きではない。
ただ空虚。終わりを望む空虚。
「……何故だ」
ドゥレイの問いに、応えはなかった。
代わりに、彼の前に広がる村が、ひとつ、またひとつと崩れていく。
星魂詠唱――否、かつてそれと呼ばれた術式の亜形。
星の欠片すら不要。構文さえ消え失せ、ただ“発動”する。
建物は音もなく崩れ、地はひび割れ、逃げる者の影が焼け落ちる。
ドゥレイは地を蹴った。
残された魔術の記憶――深淵詠みの構文を構築し、星図の一片を呼び起こす。
「フリュオ・ネクタリウス――」
詠唱の断片が走り、星の欠片を指先で砕く。
だが、その魔力は触れるより早く吸い込まれた。
異形は、星の残滓すらも喰らう。
次の瞬間、ドゥレイは吹き飛ばされていた。
大気が波打ち、軌道のない暴力が彼の胸を裂いた。
咳き込む血の中に、見慣れた結晶が砕けて散っていた。
倒れながら、ドゥレイは知る。
――これこそが、唯一神エリオヌスが織り上げていた「未来」のひとつ。
もし自身が誰かに王位を継承したなら、その相手が“正しく怪異化する”ように、神が仕込んだ綻びの補償――いや、“遊び”。
けれど奏真は、それを縫わなかった。
だからこそ、まだ王座を渡してもいないこの瞬間に、
正しくない未来が、誤って現れた。
「……それでも」
ふらつきながら立ち上がる。
息をするたびに、肺が焼けるようだ。それでも。
「まだ……私は……王だ……!」
星の欠片をもう一つ砕く。
だが砕いたそばから、闇がそれを貪る。
星の輝きはもう戻らない。
そしてカシエルが、ただ手を伸ばしてきた。
すべてを否定する掌で、再び理を裂こうとしていた。
それでも、ドゥレイ・カンザリオは立っていた。
力なき王として。
過ちを知り、それでも目を逸らさぬ、深淵を見つめる者として。
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