カタフュギエン・クローネ
静寂が、塔の芯を貫いていた。
アストレオノクスの最奥にひそやかに佇む「継承の間」——王位の交代にのみ開かれるはずのその扉が、いま、わずかに揺れている。
カシエルはその前に立っていた。
深い黒衣の裾を風が撫でる。天穹に咲く星の気配は、かつて自分が纏っていたものよりも、遥かに遠く薄れている。
だが、それでいい。
——正統な王であるはずの男が、今や空席を作った。
星々が語るなら、これは“僥倖”と呼ばれるものだ。
「王の座が空白になるなど、何百年ぶりのことか」
声は、塔の石壁に吸い込まれた。返答はない。だがその代わりに、閉ざされたはずの結界が、まるで“呼応”するように波打った。
綻び——あの異物の痕跡だ。
見たことのない運命の裂け目。神の織物のほつれ。あれを感知した瞬間から、カシエルはすべてを悟っていた。
「神がほころぶ? 否……神ではない、異邦から来た誰か。いや、“何か”だな」
細く笑って、彼は一歩、結界の中へ踏み込む。
重層的に重ねられた封印陣が、綻びの呼吸に誘われるように、わずかに緩む。王ではない彼が、いまここに入れるなど、本来ならば有り得ない。
だがその“有り得なさ”を導いたのは、奏真。
カシエルは彼の名を知らない。ただ、未知なる歪みを作り出した「欠片」の存在を鋭く嗅ぎ取っていた。
やがて、間の中央——石台の上に、それはあった。
小さな、けれど極めて複雑な意匠の施された“鍵”。
星の軌跡と暦の螺旋、天文機械の歯車のような線が銀糸で精緻に織り込まれ、まるで宇宙の中心を象るかのように輝いている。
王の資格を得るには、星読の継承が必要だ。
だがこの鍵さえあれば、強制的に“座”を上書きできる。
力を、奪える。
「やはり……“王”という座は、掴む者のためにある」
カシエルの指が鍵に触れた瞬間、空間が震えた。
継承の間の結界が反転し、力の回路が切り替わる。
まるで、ドゥレイの名が帳から掻き消されるように。
星読の王を継ぐ資格。
それに繋がれた、星々の記憶、神話の系譜、予兆の全て。
それらを奪い、ねじ曲げ、新たな始まりを刻む準備が整った。
「これでようやく、俺の夜が明ける」
カシエルは振り返らない。
かつて追放された者が、ついに王を継ぐ時が来た。
そして同時に、世界の織物に、誰も知らぬ糸がまた一本——歪に重ねられようとしていた。
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