アウロラ・フロンティエ
夜の色はなお深く、村の空には星の残光がかすかに滲んでいた。
僕は、戸口の向こうに立つ人物を見た瞬間、言葉を失った。
星の静謐を纏うような姿。深い蒼衣。目の奥に夜の底を宿した男——彼の名は知らない。でも、わかっていた。この世界で、特別な位置に立つ人なのだと。
彼の視線が、まっすぐ僕に向けられる。
「君が、異邦の者か」
問いかけに、僕は返す言葉を見つけられなかった。代わりに、アレセアが一歩前に出た。
「……ドゥレイ殿。神殿の夜、星の階で巫女として立っていた私を、覚えておいででしょうか」
彼のまなざしがわずかに和らいだ。
「覚えている。夜に星を掲げていた少女だ」
「今の私は“徒”です。誰にも仕えてはいません。ただ、この人の傍にいる」
その言葉に、彼は目を細めた。そして、再び僕を見る。
「君は何を見た?」
それは問いではなかった。ほとんど確信に近いものを帯びていた。
僕は、逃げることができなかった。
「……ほつれていました。空間の奥……何かが、破れそうで……」
「あの綻びを、どうした?」
沈黙が流れる。僕は少しだけ、目を伏せた。
「何も、してません。……怖くて。触れたら、何かが壊れる気がして」
その瞬間、アレセアの指が僕の手をそっと握った。あたたかくて、震えを止めるような力だった。
ドゥレイは目を閉じ、しばし呼吸を整えるように静かに立ち尽くした。
「……それでいい。むやみに触れてはならなかった。だが……」
彼の声が、ほんのわずか揺れた。
「その綻びは、君にしか見えないものだ。そして、それは確かに“存在してはならないもの”だった」
僕は何も言えなかった。ただ、彼の言葉の底にある微かな怒りのようなものを感じ取っていた。
そのころ、遥か南。
かつて封印された塔の前に、ひとつの影が佇んでいた。
その手には、小さな“鍵”が握られている。
それは、星々の軌道と暦の断章を象った意匠。銀糸のような装飾が螺旋状に絡み合い、中心には天球儀が精密に彫られている。輪を描く星環には予言詩の文が刻まれ、円周には暦の星図が連なっていた。
まさに、時を開き、未来を問う者のための鍵。
封印は解かれてはいない。けれど、“王を継ぐための扉”の前に、その鍵は確かに存在していた。
そして、その前に立つ者もまた、確かにそこにいた。
——カシエル。
その存在は動き出した。
ドゥレイが不在となった今、境界を護る最後の均衡が崩れかけていた。
誰かが綻びを縫わなかったことで、いま、ひとつの運命が“解かれ始めている”。
夜はまだ、明けていない。
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