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3.アーデルハイド

父の即位式は多くの国から君主を招き、国内からもほとんどの貴族が列席する中、盛大に挙行された。6歳のアーデルハイドも兄姉たちと共に、数日に渡って続く式典に参加していた。


この度の新皇帝即位により皇太子妃から皇后となった母は、12人の子を産んだ。国の安定のため、子をつくることが至上命題だった中、十分に義務を果たしたと言える。その12番目の最後の子として、第7皇女アーデルハイドは産まれた。

生まれてすぐに乳母が付き、母親の世話を受けたことはなく、母や父に会うことも数日に一度程度だった。愛情に欠けていると感じたことはない。兄姉たちも同様の生育環境であり、それが皇帝直系の一族として当たり前だった。


即位に伴い挙行される様々な儀式や歓迎会で予定は過密だが、父の即位により皇太子になった長兄のヴェルナー以外の子供たちには隙間時間が発生し、少々暇だった。

式典準備に人員を取られ、使用人たちは皇子皇女の世話に手が回らず、放置される時間が増えていた。


暇を持て余したアーデルハイドが自室を抜け出し、城内の回廊をそぞろ歩いていた時、先にある中庭に数人の人影を見つけた。柱の陰に隠れて漏れ聞こえる話を聞いていると、それはどうやらパウネスク王国の随行団らしかった。


年かさの男性が、まだ若い男性に何やら話しかけている。帝城の沿革を説明していたのだが、まだ幼いアーデルハイドには何を言っているのかまでは理解できなかった。

年かさの男性の慈愛に満ちたまなざしと、しきりに周囲を見渡す若い男性の好奇心に満ちあふれた言動を、周りの人たちは微笑ましげに見守っていた。遠目にも若い男性の瞳がきらめいて見えたくらい、興味深げな様子だった。

「ウェクスラー辺境伯様、お待たせいたしました。」

迎えが来たのか、随行団の人々は表情を整えると案内人に従い中庭を離れていった。


侍女に見咎められることなく散策から自室に戻ると、アーデルハイドは何食わぬ顔で式典に参加した。教えられたとおりの礼儀正しい立ち居振る舞いができていたと、少しだけ満足感を覚えたことを覚えている。

中庭で見かけた少し変わった出来事は、皇帝の即位式をいう滅多にない非日常の中の数多の出来事の小さな事象として、いずれ記憶の奥底に薄れて沈んでいくはずだった。




しかし、アーデルハイドは、謁見の間に残虐伯として立つこの男性が、あの時のきらきらした瞳の持ち主だと、気づいてしまった。




「陛下、どうか彼との婚姻をお許しください」

玲瓏な美貌を静かに下げ、アーデルハイドは父親に対する私的な懇願ではなく、皇帝陛下の対する公的な請願として、その望みを口にした。

通常ならば到底聞き届けられる願いではないが、皇帝には負い目があった。


アーデルハイドには婚約者がいた。7歳の時に決まったもので、相手は南の小国の王子だった。幼い頃に一度顔を合わせただけだが、時々手紙を交わしていた。

皇族の結婚相手は、他国の王族か自国の高位貴族と慣例で決まっている。アーデルハイド自身も、その政略結婚に疑問を抱いたことはない。

手紙のやり取りだけではあったが、それなりに和やかな関係を築いていると思っていた。きっと成人する頃にはかの国へ嫁ぐのだろうと、ぼんやりと考えていた。帝国の皇女として恥ずかしい評価を受けないよう、それに向けて努力もしていた。

ところが、先年、その国自体がなくなった。当然、婚約は白紙になった。

兄姉たちは全員縁付いたのに、アーデルハイドだけ、処遇が宙に浮いた状態になったのだ。

父は、しばらくは社交を控え、心穏やかに暮らすようにと、手厚い庇護を約束した。

アーデルハイドはその約束を盾に取り、礼儀正しく父に迫ったのだ。


「皇帝陛下、私の最初で最後の、ただひとつのわがままです。どうかお聞き届けください」

一度顔を上げ、父帝を真っ直ぐに見つめると、先ほどより深く頭を下げた。

「伏してお願い申し上げます」


帝国に引き渡された2人は戦争犯罪人として裁かれることが決まっている。彼らが帝国軍におこなった悪行を思えば、極刑しかあり得ないと皇帝も臣下も考えていた。

しかし一部だが、他国とは言え高位貴族の極刑に異を唱える者もいるにはいた。

皇帝は、優柔不断にも散々悩み、側近に相談を重ねたうえで反対に遭ったにも関わらず、最終的に言い訳じみた理由をこじつけて、末娘のわがままを許した。

側近たちは皇帝の独断専行を嘆きつつも、許容するしかなかった。


テオドールにとっては、謁見の広間での尋問以降、何も知らされないまま戸惑いしかない時間が過ぎていき、やがてマルガレーテン帝国の西の端に建つ砦のような城に移されることになった。

ここから先は、小さな城を囲む壁の外に出ることを生涯禁じられ、アーデルハイドと共に暮らすのだ。


周囲を高い壁に囲まれ、集落から少し離れた場所に建つその城は、驚くほどの静寂に包まれている。

アーデルハイドの心変わりを期待した親族の強い意向で正式な婚姻は先送りされたが、事実上の夫婦としての生活が始まった。




「上手になりましたね」

皇女のために居心地よく(しつら)えられた居間で、テオドールが広げたハンカチの刺繍を見たアーデルハイドは感心した。

「貴女の教え方がうまいのですよ」

「目が揃っていますし、こまやかです。贈り物にしても何の問題もない品質ですわ」

受け取った刺繡は色合いが柔らかで、ステッチも丁寧だ。彼の性質を表しているようにも思える。

「とても綺麗です、初心者の作には見えません」

「差し上げますよ」

「よろしいのですか?」

「先生へのささやかなお礼です」

テオドールはハンカチを丁寧にたたみ直すと、穏やかに微笑みながらアーデルハイドへ手渡した。

「ありがとうございます。大切にしますね」

小さく笑い声を漏らしながら、テオドールは答えた。

「次はもっと大きな図案にしましょう。貴女の好きなすずらんを入れて」


幽閉は、当初の予定から鑑みれば驚くほどの減刑だ。

だが、西の最果ての城での幽閉は、世間の情報から隔絶され、知識を得る書籍を禁じられ、するべき職務も何もなく、ただただ息をするだけの日々が連綿と続く。

一方で、皇女の配偶者でもあるテオドールの生活水準は、罪人ではあり得ないほどに高い。

過ぎ行く膨大な時間をテオドールは持て余していたが、アーデルハイドは城内でできることとして、刺繡を薦めた。貴婦人の教養であり、男性が積極的にするものではないが、暇つぶしにはなるのではないかと考えたのだ。

意外なことにテオドールはとても指先が器用で、すぐに基本のステッチを習得した。しかもアーデルハイドにとって、素直で真面目な教え甲斐がある生徒だった。


生活に少し慣れ始めると、刺繍以外にも、料理や絵画、楽器、造園等にも興味を持ったようで、使用人たちに話しかけることもあった。

特段、親しげな態度で声をかけるわけではないのだが、見るからに穏和そうなテオドールの様子に拍子抜けするようだ。

初めは彼と距離を置いていた件の噂を知る使用人たちも徐々に警戒感を緩め、皇女に対するものと変わらないごく普通の対応をするようになっていった。


「姫様、そろそろお時間です」

侍女のイータはアーデルハイドが幼い頃からついているため、今でも姫様呼びをする。

一度だけ奥様呼びを勧めたが、慣れた呼称が言いやすいと言い張ったため、そのままになってしまった。

イータの言葉に頷くと、テオドールに改めて向き合った。

「では、旦那様、行ってまいります」

この度、西に来てから初めて、社交のために帝都へ戻ることになった。手紙だけでなく、定期的に元気な顔を見せることがこの婚姻に際しての取り決めでもあるのだ。

「気を付けて。それと、楽しんで来てください」

夫の穏やかさはいつも変わらない。

「お土産を楽しみにしていてくださいませ」

小さな約束を交わすと、アーデルハイドはイータと共に帝都へ出立した。


帝都に着いた後、最初に面会したのは長兄であり皇太子でもあるヴェルナーだった。

「元気そうだな」

「おかげをもちまして、無事帝城に到着いたしました」

アーデルハイドがまずしなくてはならないことは、テオドールの現状報告である。

彼は夫であると同時に虜囚でもあるのだ。これを怠ると、叛意ありと見なされかねない。

静穏な生活の様子をありのままに、かつ具体的に報告していると、ヴェルナーは眉をひそめた。

「刺繡をしている、だと?」

「ええ、これは夫が私にくださった夫の作品です。上手いものでしょう?」

「これを……」

ヴェルナーは一瞬言い淀んだ。テオドールをなんと呼称するべきか悩んだのだろう。お前の夫とは言い難く、呼び捨てもしづらく、かつての爵位で呼ぶわけにもいかない。

アーデルハイドは気づかないふりをして夫の刺繍の腕を褒め、西の城での平穏な日々を語った。

「私も夫に負けぬよう、日々刺繡の腕を磨いております」

ヴェルナーは、アーデルハイドがよどみなく語る具体的な内容の報告を、とりあえずは事実として受け入れたようだった。

「後ほど、刺繍糸と布を贈ろう」

兄の言葉に、アーデルハイドは慎ましやかに膝を屈めて礼をした。


城内のかつての自室の戻りしばらくすると、イータも戻ってきた。聞き取り調査を受けてきたのだろうが、何食わぬ顔でいつも通りテキパキと仕事をこなしている。

2人の聴取内容に特段の相違はなかったのだろう。帝城滞在中に追加の聴取がおこなわれることはなかった。

組まれていた予定を順調にこなし終え、アーデルハイドが西の城へ戻る頃には肌寒い風が吹き始める季節になっていた。




初めての冬を越すために帝都から持ち帰った荷物の整理を侍女に任せて、夫との久しぶりのティータイムを楽しむことになった。

居間にティーセットを準備し、アーデルハイド自ら紅茶を淹れる。

「姉上がくださった紅茶なのですが、お口に合いますか?」

「ええ、とてもよい香りがしますね」

「姉もこの香りが気に入っているそうです。他にも色々な茶葉をいただきましたから、楽しみになさってくださいね」

テオドールは妻の旅の疲れをねぎらい、妻が語る帝都での出来事に穏やかに耳を傾けている。


「刺繡糸を、ですか?」

「少し珍しい色の糸もあるので、後で一緒に見てみましょう。布も良いものが揃っています」

「それは、次は何を刺そうか考えてしまいますね」

和やかに会話を交わしながら、テオドールが静かに聞き役に徹し、自分からは何も訊こうとしないことに気づいていた。

十分すぎるほどに自らの立場を理解しているのだ。


幽閉が決まった時も、アーデルハイドとの婚姻が決まった時も、驚きと困惑は示したが一切の反論はしなかった。パウネスク王国の貴族としての品位を保ちつつも、至極従順だった。

何かを疑われた時、わずかでも叛意があると思われた時、苦境に立つのはテオドールだけではない。祖国パウネスク王国も巻き添えになるのだ。

何らかの情報を得ようとしていると疑われることさえ、注意深く避けようとしている。

侍女を含め、使用人たちはごく普通に接してくれているが、彼らは監視役も兼ねている。

ここにテオドールの味方はいない。


アーデルハイドは、帝都での楽しかった事ばかりを話した。社交の場で耳にした噂も情報も、意味がありそうな話はできる限り口にしないようにした。

虜囚に利する情報を与えないことは皇族としての責務であり、常時監視の目に囲まれている彼を守る手段でもある。


いつか、副官が処刑されたこと、弟が辺境伯を継いだこと、皇帝が他の国に食指を伸ばしていることを伝えられる日が来ればいい。きっと、事実を知りたいと願う人だと思うから。例え、それがどのような事実であろうとも。

時折、遥か遠くを見ている感情を含まない瞳が、初めて垣間見たあの時のきらめきを取り戻すとは思っていない。

彼がここから生きて出られる日は、きっと来ない。


それでも、自分が愛せる人と共に生きる道を望んだ。

決して本意ではないはずのアーデルハイドとの夫婦生活に、彼は思いやりを持って誠実に向き合ってくれている。


高い壁に囲われたその中で、一方的に奪われることのない、自らの意思で守ることができる幸福な時間を得たことに、アーデルハイドは喜びを感じていた。


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