2.テオドール
質実剛健を形にしたような飾り気のない執務室で、テオドールはいずれ来るであろうマルガレーテン帝国の侵攻に対抗する策を考えて続けていた。
10年前、先帝の病死により即位した皇帝マティアスは、ここ数年、覇権主義を隠さなくなってきていた。先帝の遺産である豊かな経済力を惜しみなく軍事費に投入し、露骨に軍備増強を図っている。
周りの国々は戦々恐々としている。正面からぶつかれば強大な軍事大国相手に勝ち目はない。
東の小国であるパウネスク王国も例外ではなかった。
よくある対策として婚姻政策があるが、現在のパウネスク王国には適当な年齢の王族がいない。もしいたとしても、婚姻政策を採った他国の現状を見る限り、しないよりはマシという程度の効果しかなさそうだ。
先年、南の王国がかなり強引な手法で併合された。帝国は合意の上での併合というが、王族や上位貴族は全員処断されており、事実上の王国滅亡に近い。
皇帝マティアスの欲望の在り方は明確だ。賢帝と称された父親に勝りたいのだ。その為に、先帝とは異なる分野での栄光を望んでいる。
「迷惑な話だ……」
思わず漏れたつぶやきに、副官のミハイが反応した。
「皇帝のことですか?」
病気を患った父親が退いた後も、変わらず辺境領を支えてくれている経験豊富な軍事部門の長だ。テオドールの頭の中などお見通しなのだろう。
頷きだけ返すと、それを見たミハイは陽気に笑った。
「眉間のしわが消えなくなりますよ」
からかうように言うが、テオドールの悩みを一番理解しているのはミハイだ。
何しろ全てを解決する良策など、ないのだから。
テオドールが父親の後を継いだ頃から、情勢の雲行きは一気に怪しくなった。帝国は周辺国に些細なことで難癖をつけはじめ、わずかな瑕疵でも見逃さなかった。
パウネスク国王は、できる限り無難に対処してきたが、それもいつまで続けられるだろうか。
近頃では、国境付近で帝国軍の軍事訓練が行われるなど、本格的にきな臭さが漂い始めた。露骨な示威行為だ。
テオドールは髪を無造作にかき上げると、背もたれに体重を預け、再び思案に沈みかけた。
その時、執務室の扉がノックされ、家令が赤い花を1輪活けた花瓶を持って入ってきた。そして机上のいつもの場所に置いた。
殺風景な執務室の唯一の彩りだ。
「ありがとう」
主人の言葉に、家令はいつも通りの丁寧なしぐさで一礼した後、既に処理済みの領地経営に関する書類を回収し退室して行った。幸い今のところ領地経営は順調に進んでおり、今年の税収も問題ないだろう。領内の揉め事も大事になる前に家令がうまく取り計らってくれている。
皆、未曾有の国難を前に思案中のテオドールをできる限り邪魔しないよう気を遣ってくれるのだ。
困難を極めるだろうが、やらなくてはならない。
辺境伯であるテオドールには、辺境領と領民だけではなく、パウネスク王国全体に対して責任がある。守る、という責任が。
瑞々しい赤い花をひとしきり見つめた後、ミハイに声をかけた。
「エミルを呼んでくれ」
入室したエミルにテオドールは命じた。
「できるだけ早く王都へ向かい、王城に勤めよ。職は手配してある」
辺境伯の補佐を順当に務めつつあった3歳違いの聡い弟は、強情な目をして答えた。
「……兄上は私をここから追い出すのですか」
「私に何かあった時、跡を継ぐ者が必要だ」
エミルの視線はより強くなったが、さえぎるようにテオドールは続けた。
「死ぬつもりはない。だが、何らかの責任を取らされる事態になることは十分あり得る。その時、お前がここにいれば連帯責任を問われる可能性があるんだ。王城で勤めていれば、少なくとも私の行動に関わっていないのは確かなんだから、それから逃れられるだろう?」
「しかし」
「滅亡の道を行くわけにはいかないんだ。取れる手はできるだけ取っておきたい」
エミルの握りしめた手を見つめながら、テオドールは言葉を紡ぐ。
「エミル、お前なら私の跡を安心して託せる。私のために、王都へ行ってほしい」
テオドールは立ち上がりエミルの前に立つと静かに頭を下げた。
「たのむ」
エミルの王都への出立を見届けると、テオドールは内密かつ急速に手はずを整えはじめた。
ミハイにも、自らの考えを説明した。帝国軍に勝利するのは不可能だが、侵攻を止めることはできるかもしれない、と。
とてつもない理不尽と、途方もない残酷な恐怖で、相手の戦意を削ぐことはできるかもしれない、と。
もちろん、その方法を使わずに済むのなら、それが一番いい。
ミハイは最初反対した。その方法は、テオドールにあまりに過酷な決断と、そそぐことのできない汚名を負わせるからだ。しかし、弱小国が超大国の侵略に対抗できる、誰も傷つかない策がどこにあるというのだろう。
最終的に、ミハイは同意した。苦々しくもテオドールの覚悟を受け入れざるをえなかった。
テオドールは密偵がもたらす帝国軍の動きを慎重かつ事細かに確認しながら、様々な根回しをおこない、ミハイと共にマルガレーテン帝国の侵攻への対策を講じた。
周到に準備を整えながら、心のどこかで、この準備が使われることなく無駄に終わることを祈っていた。
マルガレーテン帝国の侵攻は突如はじまった。
密偵からの情報などからある程度予測していた時期ではあったが、唐突の感は免れなかった。
地の利を最大限に利用した奇襲作戦で、帝国軍をどうにかこうにか退却させることに成功し、兵士たちは一時の安堵を得たが、テオドールの顔は晴れなかった。
今使えるパウネスク王国軍の全力を以ってあたったにも関わらず、この程度の戦果か。
考え抜いたこの奇襲作戦も、もう使えない。
次は、ない。
振り返って、ミハイに命じた。
「作戦を実行する」
覚悟は決めていた。ただ、ミハイに連帯責任を負わせてしまうことが申し訳なかった。
和平交渉が始まると、王都にいるエミルはすぐにでも領地へ戻りたがったが、テオドールは押しとどめた。時期を逃さず和平交渉に持ち込んだ英明なパウネスク王なら、きっとエミルを悪いようにはしないと確信できたからだ。
来たるべき時に備えて、テオドールは最後の準備を始めた。
従軍した者たちに俸給を支払い、ミハイの妻子には多めの慰労金を渡し、ミハイには一時休暇を与えた。引継ぎの段取りをし、身辺を整理した。いずれ行動を制限されるだろう前に、しておきたいことは多かった。
側近たちに妻を迎えるよう事あるごとに勧められていたが、こうなると結婚していなくて良かったと思えた。きっと相手を不幸にしてしまう。
尾ひれが付いた残虐伯の噂話がテオドールにも届くようになったが、聞き流して噂が流れるに任せた。
そうして、マルガレーテン帝国に引き渡される日がやってきた。
和平交渉に不満はない。もっと多くの要求を飲まされるのではと危惧していた。2人だけで済むなら上出来だ。
皇帝マティアスの形ばかりの尋問に淡々と答えながら、テオドールはどこか安堵していた。
……周囲に広がりつつある困惑のざわめきに気づくまでは。