1.プロローグ
完全武装の屈強な騎士4人に囲まれて謁見の広間に現れた男は、品の良いごく普通の青年貴族に見えた。
パウネスク王国国境を守護する辺境伯として、ある程度の剣術訓練等を積んでいるはずだが、その斜め後ろを歩く見るからにたくましい体躯を持つ副官に比べると華奢にさえ感じられる。
広間に集まったマルガレーテン帝国の貴族たちの視線を一身に集めながら、焦りも恐怖もにじませることのない落ち着いた様子の辺境伯は、見る者たちに武官より文官の印象を強く抱かせた。
だが、この男こそが、マルガレーテン帝国の兵士たちを恐怖の底に叩き落とした悪夢の残虐伯爵なのだ。
玉座からかなり離れた場所で騎士たちに歩みを止められると、ウェクスラー辺境伯テオドールと副官ミハイは立ったまま静かに皇帝を見つめた。
皇帝の傍には帯剣した護衛が複数控えており、丸腰の2人を迎えるには警戒し過ぎにも思える。しかも、この2人は和平交渉の末、正式にパウネスク王国からマルガレーテン帝国に引き渡された。今更、無謀で無意味な攻撃に転じるはずもないのだ。
数段高い位置にある玉座から、皇帝マティアスは声をかけた。
「お前が、ウェクスラー辺境伯か」
「はい」
穏やかだがよく通る声が、短く答えた。
「お前が、我が兵士たちを街道沿いに吊るしたのか」
「はい、そのとおりです」
謁見の間が小さくざわめく。
噂に聞く『残虐伯』を一目見ようと集まった物見高い帝国貴族たちは、皇帝の御前だからと発言を控えてはいるものの、想像していたおどろおどろしさとのあまりの相違に困惑していた。
27歳だというウェクスラー辺境伯は、どう見てもおとなしげな普通の青年にしか見えなかった。
半年前、マルガレーテン帝国は突如パウネスク王国に侵攻した。一応の宣戦布告はしたが、申し訳程度でしかなかった。
経済振興で帝国を富ませ、賢帝とも称された偉大なる先帝のあとを継いだ皇帝マティアスは、強引ともとれる手法で領土の拡大を計っていた。
先帝の功績を地道に引き継ぐだけの平凡な統治者ではなく、それとは異なる名声を望んだのだ。
帝国の東側に位置する小国パウネスクは簡単に落ちるはずだった。国力の差は歴然としていたし、兵士の数も軍の装備も帝国が圧倒していたはずだった。
それが油断を招いたのか。
パウネスク王国側の地に利を活かした奇襲作戦に、初戦はあえなく敗退した。
それでも雪辱を果たすのは簡単なはずだった。突然の奇襲に慌てふためいただけで、まだ小競り合い程度にしか戦っていないのだ。
乱れた軍勢を整え、再びパウネスク王国へ侵攻を開始し、街道を進み始めると、帝国軍は悪夢のような光景を見ることとなった。
街道沿いの樹木に、いくつもの遺体がぶら下がっていた。
全員、マルガレーテン帝国の軍装を身に着けていた。先の戦いで死んだ騎士や兵士たちだ。
しかもまともな遺体がほとんど無い。いずれも四肢のどれかが欠損していたり、体のどこかが不自然に大きく傷ついている。
帝国領には戻れなかったがまだ生きていた者もいたはずで、捕虜になっているだろうと思われていた者たちも例外なく吊るされていた。
危険を承知の上で参戦しているとは言え、生きて故郷に帰りたいと思っている者が大半だ。なのに、この戦争ではただ殺されるだけでなく、殺されてなおこれほどの辱めを受けるのか。
皇帝に忠誠を誓い従軍した貴族の子弟たちも怯えたが、一般庶民から集められた下級兵士たちの、忠誠心の薄い戦意を挫くには充分すぎる悪夢だった。
動揺が広がり行軍が滞る中、ウェクスラー辺境伯率いるパウネスク王国軍に急襲された。数は多いがまとまりを完全に欠いた帝国軍は、2度目の退却を余儀なくされた。
そこから数日置いて、パウネスク王国は和平交渉を申し出た。
マルガレーテン帝国は国内での数回の議論の末、それを受け入れた。
皇帝は受け入れを渋っていたのだが、派兵していた兵士たちにことごとく2度目の従軍を拒まれ、貴族たちが明言は避けながらも婉曲的な、しかし確固たる反対の姿勢をとる実情に、不本意ながら折れた。
突然の宣戦布告と侵攻という、マルガレーテン帝国側に大きな非のある事態だったが、国力の圧倒的格差をちらつかせながら交渉を進め、残虐行為の責任者の身柄と引き換えに、ようやく完全な停戦協定を結んだのだった。
謁見の間には、噂に聞く残虐伯を一目見ようと多くの貴族たちが詰めかけていた。
当初は情報の制限を図ったのだが人の口に戸は立てられず、悪夢のような出来事は広く知れ渡ってしまっていた。噂が巡るうちに話はどんどん脚色され仰々しくなり、近頃はウェクスラー辺境伯には大きな角が生えていることにもなっていた。
怖いもの見たさで興味本位に集まったのは貴族たちだけではなく、王族たちも同様だ。
玉座に近い特等席には何人もの王族がおり、皇帝マティアスが形式的に行うウェクスラー辺境伯への尋問に、興味深げに耳を傾けている。
引き渡しがなされた時点で、既に2人の処置は決まっている。あの行為の責任を取らせるのだ。他の選択肢は初めからない。
形ばかりの意味のない空疎な尋問は、ここに集まった王侯貴族の好奇心を満たすための茶番でしかないのだ。
その様子を興味津々の体で見ていた貴族のひとりが、不意に気付いた。
皇帝のほど近くに座する女性が、広間の真ん中に立つウェクスラー辺境伯テオドールを頬を染めて見つめていることに。美しい唇は、今にも感嘆のため息が漏れ出でそうに薄く開いていることに。
いつもなら、その美しい顔に社交辞令的な表情を静かに浮かべるだけの、玲瓏な姫君の露骨な感情の表出に、周りの人々も少しずつ気が付き始めた。
さざ波のようにざわめきが広がりつつあることに気づきもせず、16歳になったばかりの第7皇女アーデルハイドは、ウェクスラー辺境伯だけを見つめていた。
決定していたはずのシナリオが、大幅に変更される予兆だった。