九
待ち合わせた喫茶店で、田中の表情が硬かった。注文したコーヒーに口をつけることもなく、ただスマートフォンを見つめている。誠一は何か起きたことを悟った。
「手違いがあったらしい」
田中の声は、いつもより低く沈んでいた。別のチームの若い出し子が、警察に追われているという。金を持ったまま、姿を消したらしい。
「上が動いている」
その言葉の意味を、誠一は考えないようにした。窓の外では、人々が普段通りに行き交っている。その日常の風景が、妙に遠くに感じられた。
新宿のオフィスに呼び出されたのは、その二日後だった。エレベーターを降りると、見知らぬ男たちの姿があった。スーツ姿だが、どこか異質な雰囲気を漂わせている。袖をまくった男が、誠一に椅子を示した。
「昇進の話なんだが」
男の後ろの窓からは、夕暮れの街が見えた。高層ビルの谷間に沈む太陽が、ガラス窓を赤く染めている。誠一は自分の膝を見つめたまま、話を聞いていた。
より多くの人員を管理する立場。より多くの報酬。より多くの責任。言葉の端々に、逃げ場がないことが示唆されていた。
「警察官の息子なのは、かえって都合がいい」
その言葉に、誠一は思わず顔を上げた。男の目が笑っていない。部屋の空気が、急に重くなった。
新しい指示は、その日のうちに届いた。より具体的な役割。より詳細な手順。暗号化されたアプリの中で、組織図が更新されていく。誠一の立場は、確実に上がっていた。
深夜の団地で、誠一は父の帰りを待っていた。ベランダに立ち、警察署からの帰路を見つめる。制服姿が、街灯に照らされて近づいてくる。かつて感じていた重圧は、今や別の感情に変わっていた。
父が家に入る気配がする。誠一は自室のドアを静かに閉めた。机の上には、新しい指示を記したスマートフォン。引き出しの中には、これまでより多い報酬の札束。その重みは、もう違和感すら感じさせない。
暗闇の中で、誠一は天井を見上げていた。組織の中で、自分の立場が上がるということは、同時により深く沈んでいくことでもある。その認識が、冷たい確信として胸に広がった。
新しいスマートフォンが震える。明日の指示。いつもより多い人数の配置。いつもより多い金額の取り扱い。それらの数字の背後に、取り返しのつかない何かが見えるような気がした。
団地の夜は静かだった。誰かが洗濯物を取り込む音。誰かが帰ってくる足音。それらの日常的な物音が、誠一にはもう遠い世界の出来事のように感じられた。
引き出しの中の札束が、闇の中で存在を主張している。その重みは、もう恐れるものではなくなっていた。恐ろしいのは、その重みに慣れてしまった自分自身だった。