八
マンションのエントランスで、誠一は老婦人を待っていた。普段より高額な引き出しになるため、付き添いを装うことになっている。白髪の女性が、不安げな様子で近づいてきた。
「お孫さんの、高橋と申します」
誠一は丁寧に頭を下げた。この二ヶ月で、この手の演技には慣れていた。老婦人の顔に、安堵の表情が広がる。それを見た瞬間、誠一は胃の辺りに重いものを感じた。
銀行までの道すがら、老婦人は孫の話を続けた。アメリカ留学の費用のことを。奨学金が急に必要になったことを。誠一は適度に相槌を打ちながら、自分の声が遠くで響くのを聞いていた。
ATMの操作を手伝い、老婦人が引き出した現金を封筒に入れる。女性の手が震えているのが分かった。きっと、貯金の大部分に違いない。そう思った瞬間、誠一は吐き気を覚えた。
「大丈夫ですよ」
自分の声が、どこか別の場所から聞こえてくる。老婦人に礼を言われ、背中を見送りながら、誠一はスマートフォンbを取り出した。暗号化されたアプリに、完了の合図を送る。
「お疲れさん」
メッセージの返信と共に、報酬額が表示された。以前の三倍。画面の数字を見つめながら、誠一は駅に向かって歩き始めた。雨が降り出していた。
組織の階層が、少しずつ見えてきていた。電話で高齢者を騙す連中。受け取り役の自分たち。その上にいる管理者たち。そして、さらにその上。誠一の新しい役割は、受け取り役の采配も含むようになっていた。
帰りの電車で、スマートフォンの画面を開く。オンラインショッピングサイトには、新作のスニーカーが並んでいる。高級ブランドの服。かつては手の届かなかったものが、今は簡単に手に入る。その感覚に、妙な虚しさを感じていた。
母から、入金の通知が届く。仕送りを続けていることで、家庭内の空気は確実に変わっていた。父との会話は相変わらず少ないが、あからさまな非難の目は消えていた。経済的な安定が、全てを覆い隠してくれる。
マンションの最上階の事務所。ワイシャツの袖をまくった男が、新しい指示を出していた。「もっと上があるんだ」という言葉に、誠一は黙ってうなずいた。もう、自分で判断することを放棄していた。
夜の団地で、誠一は空を見上げた。星は見えない。ただ、ビルの明かりだけが、闇の中で点滅している。新しいスマートフォンが震える。また新しい指示。また新しい役割。その振動が、しっかりと自分を縛り付けているのを感じた。
部屋に戻り、誠一は財布の中身を確認する。高額紙幣の束。クレジットカード。かつて憧れていたものが、今は当たり前のように存在している。その「当たり前」の重みが、誠一の心を少しずつ潰していくのが分かった。
暗号化アプリが新しい通知を表示する。明日も、また誰かの人生を狂わせることになる。その認識が、痛みとして胸に広がる。しかし、その痛みすらも、次第に麻痺していくのを感じていた。
夜が更けていく。団地の窓の明かりが、一つ、また一つと消えていく。誠一は暗闇の中で、自分の引き返せない場所にいることを、はっきりと理解していた。