二
団地の八階の角部屋は、案外片付いていた。誠一は意外な思いで室内を見回した。八時十五分。デジタル時計の数字が、妙に鮮明に目に入る。
「座れよ」
田中は誠一をソファに座らせ、自分は床に腰を下ろした。テーブルの上にはノートパソコンが開かれている。画面は暗いままだ。
「誠一、お前、電話出るの得意か?」
唐突な質問に首を傾げる間もなく、廊下を歩く足音が聞こえた。日曜の朝のこの時間、ラジオ体操だ。高齢の住人たちが、団地の中庭に集まり始める。
「得意って、どういう...」
「例えばさ」田中は声を落とし、「年寄りと話すとか」
中庭からラジオ体操の音楽が流れ始めた。一階の佐藤さんの声が、いつものように皆を先導している。その音が、妙に現実感を際立たせた。
田中はパソコンの電源を入れながら説明を始めた。電話オペレーターの仕事。日給二万円。簡単な事務作業。誠一は、その言葉の不自然さを感じ取れなかった。
ラジオ体操が終わり、団地は再び静けさを取り戻していた。
「やってみるか?」
千円札の重さを思い出す。スマートフォンの料金も、結局母に払ってもらうことになるのだろう。
「試しでいいなら」
田中の表情が、わずかにほころんだ。
団地の掃除当番の人たちが、箒を持って歩き始める。五階の山田さんが、いつものように大きな声で誰かと話している。
「じゃ、ちょっと待ってろ」
田中は電話をかけ始めた。誠一には聞こえないよう、ベランダに出て話している。田中は、住所をメモに書きとめ、十分ほどで戻ってきた。
「これから行ってみるか」
時計は九時四十五分を指していた。
タクシーは十時きっかりに、最寄り駅から少し離れた雑居ビルの前で止まった。暗い階段を三階まで上がると、「株式会社FS企画」というドアがあった。
応対した男は、想像していたよりずっと普通のサラリーマンに見えた。背広姿で、黒縁の眼鏡をかけている。机の上には履歴書の束が積まれていた。
「今日は見学だけでいいですよ」
男は誠一を奥の部屋に案内した。四畳ほどの狭い空間に、三台のデスクが並んでいる。電話機とパソコン。エアコンの冷気が、やけに強く感じられた。
「見てるだけでいいから」
デスクに座らされた誠一の前で、別の男が電話での会話を始めた。抑揚のある、明るい声。内容は息子を装って母親に電話をかけているようだったが、聞き取れない部分も多い。
正午になろうとするころ、田中が「今日はここまで」と声をかけてきた。外に出ると、春の日差しが意外なほど強く感じられた。
「どうだ?簡単そうだろ?」
誠一は曖昧に頷いた。確かに、見ていた限りでは難しい仕事には見えなかった。電話で話すだけ。パソコンに記録を入れるだけ。
「ただ、最初は向いてない人もいるからな」田中は歩きながら言った。「そういう時は、違う仕事もあるんだ」
交差点の信号が変わるのを待ちながら、誠一はスマートフォンの重みを感じていた。料金を払えば、また世界とつながれる。父に頼らなくても、自分で何とかできる。
信号が青に変わった。正午の太陽が、二人の影を歪めながら伸ばしていく。横断歩道の白線が、まっすぐ過ぎるように思えた。