一
蛍光灯に照らされた食卓に、箸が立てられたままの茶碗が置かれていた。隣には半分残された味噌汁。中村誠一は立ち上がる父の背中を見つめながら、まだ朝食が終わっていないことへの言及を待った。しかし父は制服のネクタイを締めながら、いつものように黙ったまま玄関へと向かった。
「行ってきます」
返事をする者はいなかった。妹の由美は二度寝の真っ最中で、母は早朝のパート出勤。この休日の朝、家に存在しているのは誠一だけだった。食卓の茶碗を片付けながら、警察官である父の背中が、まるでパトカーのサイレンのように目に焼き付いて離れない。
台所のシンクには前夜からの食器が溜まっている。水道管の奥から聞こえる振動音が、公営住宅の古さを主張していた。ゴム手袋越しに触れる水は生ぬるく、何をするにも中途半端な温度。ちょうど誠一の体温と同じような気がした。
スマートフォンの画面が暗いままだ。料金未納で使えなくなって一週間。LINEもTwitterも、今頃は知らない世界の話が流れているに違いない。手持ちの現金は千円札が一枚。コンビニのバイトは三日前に辞めた。正確には辞めさせられた。商品の補充ミスが重なり、店長から「君には向いていないと思う」と言われた。前のファストフード店でも似たようなことを。
ポケットの中の千円札が、まるで罪悪感のように重かった。
誠一は茶碗を乱暴に戸棚に押し込んだ。食器の擦れる音が、耳障りな軋みを上げる。
「うるせぇな」
隣室からかすかに聞こえる妹の寝息に、思わず声を荒げていた。由美は真面目に高校に通っている。父も母も、由美のことを話題にするときは声が柔らかい。
玄関に置かれた父の古い革靴を見つめる。昨夜も遅くまで磨いていた。休日出勤の朝も、靴の手入れは欠かさない。その几帳面さが、どうしようもなく誠一の息苦しさを強めた。
私立の高校を中退してから、まともに父と言葉を交わしていない。会話と呼べるものは、毎月決まってある「小遣いは出せない」という父の言葉と、それに対する誠一の沈黙だけ。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の埃を照らしていた。誠一は窓を開け、団地の廊下に出る。錆びた手すりに腕をかけ、下の駐車場を見下ろした。知らない車が増えている。以前は近所の顔と車を全て覚えていたのに。
スマートフォンを取り出し、画面に映る自分の顔を見つめる。暗い画面に映る表情が、まるで他人のように見えた。
「よう」
突然の声に振り返ると、同じ階の角部屋に住む田中がいた。誠一より二つ年上で、たまに声をかけてくる程度の関係だ。しかし最近、妙に親しげな態度を取るようになっていた。
「バイト、辞めたって?」
田中は誠一の答えを待たず、ズボンのポケットから煙草の箱を取り出した。
「こっち来いよ。話があるんだ」
廊下の向こうから、近所のおばあさんがゴミ出し帰りの足を引きずっている。田中は彼女の姿を確認すると、さらに声を落とした。
「いい話、見つけたんだよ」
誠一は暗くなったスマートフォンを再びポケットにしまい、田中の後を追った。チームの存在は知っていた。田中もそのメンバーだと噂では聞いていた。しかし、こんなに近くにある事とは思わなかった。
公営住宅の影が、二人の姿を飲み込んでいく。朝の光は、まだ冷たいままだった。




