第92話 煙管と櫛
女将の目は座っていた。
クモモドキの足を払ったと同時に座長に飛びついて扉から外に転がり出た。
「あんた、捕まってる者は生きてると思うかい?」
座長である旦那を助け起こしながら女将が聞く。
「仁平の指が動いてた。逃げろだとよ。」
忍び連中の一人が手先で信号を送っていたのだ。生きている可能性がある。
「あの化け物を納屋から引き離したいねぇ。」
女将は襷を旦那の足に巻いて止血する。
「ああ、でも近づけば、あの糸で絡め取られるのが落ちだ。だから逃げろって言ってんだよ。」
「悔しいねぇ。納得できないよ。」
「お互い、出来損ないの忍びだなぁ。おい。」
「ああ、皆と苦労する内に、家族になっちまったよ。」
二人は、この時戦う覚悟を決めたのだろう。
クモモドキが扉の前に姿を現した。見るからにおぞましい。
「おいでなすったよ。」
のこのこと・・・夫婦はむかっ腹が立った。
座長が懐に右手を突っ込み煙管を取り出す。
「俺もな、伊達に忍びの頭目を張ってる訳じゃねえんだぜ。」
火を点けた訳でもないのに、もう煙管から煙が出ている。
「惚れた女の一人や二人、家族の十人や二十人、守れるくらいの甲斐性は持ち合わせてらぁ!」
ポンと灰を落とす。瞬きの間にもうもうと煙が立ち上り夫婦二人の姿はその中に消えた。
咄嗟にクモモドキはクモの口から、絡め取りの糸を吐き出すが要領を得ない。
辺りを見回す間に、クモモドキの周りは煙だらけだ。八つの目が赤く煙の中に線を引く。
「俺のはぁな、灰の神楽ってんだ。一番格下のメイ宝だがよぅ。」
座長の声はどこからしているか分からない。木霊のように反響する。この技を使って彼は生き延びてきたのだ。忍びとして。
「昔から逃げ足だけは早くてよう。理由はこれだっ。」
煙草の匂いがしたかと思うと灰が落ちる微かな音がして爆炎がクモモドキを襲う。
その刹那にクモモドキの右側の目には針のようなものが刺さっていた。
「残り半分。」辰の声がする。
「煙と爆炎で煙に撒いちまうんで、ついたあだ名が、煙巻の雷蔵さ!へへっ!」
またもや、爆炎が舞う。
「目は潰した。」辰の声がする。
二人はこうやって、敵を葬って生きてきた。
阿吽の呼吸とはこういうものか?言わなくても分かるのである。
クモモドキは顔を下げ、全ての足を地面に刺した。
「お前さんは知らねえだろうがよ。俺ぁ普段こんなに喋んねえだよ。」
その通りだ。普段の彼からしたら、これは生き残るための陽動だ。
煙が晴れた。女郎グモの女の上半身の口から放たれた糸が座長こと雷蔵の右手に絡まっている。
「クモモドキよぅ。お前、途中から俺の血の匂いを追ってたろ?地面に刺した足は振動を追ってたな?」
石のクモが糸を締め上げたのか、雷蔵は灰の神楽を地に落とした。
「でもよ。それは分かってんだよ。百も承知だ!」
刹那、クモ女の首は斬り落とされた。
川原の石を地面に投げたような鈍い音。
煙の中から飛び降りた影。
その影はこう言った。
「私のはね、黒艶の心恋ってんだ。ああ、覚えなくていいよ。私のもメイ宝だから。」
右手に旦那の刀、左手に歯の欠けた漆黒の櫛をもつ、お辰は結った髪がほどけている。
「アンタの目を潰すのに歯を飛ばしちまったからねぇ。これ、また生えるのに一晩かかるのよ。」
困ったわぁと嘆く女将。
やれ、これで終わってくれればいいけどと夫婦は思った。
「旦那さん、女将さん!」
振り向くとサヤとムミョウ丸がいる。爆発音を聞きつけたのだ。
「来るんじゃねぇ!」
「来るんじゃないよ!」
二人の親代わりは同時に叫んでいた。
あっと、気を取られた瞬間、夫婦は糸に絡めとられた。
生きていやがった。やはり本体は下か!夫婦は転がりながら悔やんだ。
「逃げろ!」
そう叫ぶ口にも糸が巻き付く。




