第86話 椀と娘
十年前、歷弩の国 松栄山城下 燃えるサヤの屋敷
火の回りが早い。
このままでは、サヤも煙に巻かれてしまう。お藤は辺りを見回す。
家族はここで、いつも楽しく笑っていた。
炎に包まれていても、大事な場所。
あの、汚らわしいクモのいた奥の襖を閉め、奥様を苦しくないように寝かせてさしあげた。
心配なことは他にアダケモノがいて奥様に悪さをしないかということ。
お藤は一瞬、迷う。人として、そして恩のあるこの方にそのようなことは耐えられない。
しかし、やはり奥様の願われることは、サヤ様を無事生かすことだろう。
サヤ様に火傷ひとつ負わさず逃がさなければ。
お藤は、サヤの手を握り、退出することを決心する。
その時だ、襖の影に虎の影が揺れ、奥様の横に寝そべった。
聖獣と目が合う。
サヤも同じ方を見つめている。
同時だった。二人は膝を折り、平伏し炎の虎に願う。
「どうかよろしくお願いいたします。」
聖獣様が側についていてくださるなら、母親の尊厳は保たれよう。
後ろの襖が燃え落ちた。
「早く行きなさい。」
どこからか女性の声がする。
お藤は頭を上げ、しっかりとサヤの手を握ると部屋を飛び出た。
「なんだこれは、火が出ておるぞ!消せ!消せぇい!」
「屋敷の奥方を探せぇ!」
「懐剣はどこじゃ!失くしたら洒落にならんぞ!」
侍達の声がする。新手か?酒を飲んでいてアダケモノに食われていない者が目覚めたか?
勝手知ったる屋敷だ。お藤はとりあえず台所に身を隠した。
男達の声は表の方からする。人数は分からない。手薄な逃げ道を取るならばもと来た裏の戸板を外して逃げる方が良いだろう。しかし寝所に続く裏は、もうだいぶ火の手が回っている。
お藤は台所にあったお椀を手に取る。
甕から水をすくいサヤに飲ませる。火に巻かれた上にあんなことがあったのだ。
のども乾いていよう。
「・・・美味しい。生き返るよう。」
サヤが心からそう言っているのが分かった。そしてそのお椀を大事そうに胸元に抱いた。
お藤が小さな妹に姉がするように頬を両掌に包んで囁く。
「この藤がこの椀の水のように、サヤ様を癒し守りましょう。火傷、ケガなど一切負わせませぬ。」
小さなサヤは、この血の繋がらぬ姉のような存在を見上げて言う。
「藤は大事なウチの家族だから。」
藤は心が満たされた気がした。
「冷たいですが、我慢してくださいましね。」
頭からサヤに水をかける。着物の袖口などは重くなり過ぎないように少し絞った。
そして手ぬぐいを水につけて固く絞ると
「これで、お口とお鼻を覆うのです。決して熱い空気を吸い込んではなりませぬ。」
そして自分も同じ支度をする。
お藤は頭の中で、事の状況を整理していた。
あの廊下で倒れていた侍の身なりからして、役人ではない。もっと上級の武士のものだ。
今、那岐の国との戦で、国元では国家老様が留守居役として差配されていると聞く。このような出で立ちの者を送るとなると、まず相手はこのぐらいの人物を送る力のある人物として考えることが必要だろう。
ならば、戦が不首尾に終わって、件の人物が権力を握った最悪の状態を念頭に置いて考えると、もしこの国を逃れ出られたとしても、強力な追手が来るに違いない。
それに、なぜこんなにも妖の類が屋敷に簡単に忍び込んでいる?何かとてつもなく大きな存在がもっと後ろに潜んでいるのではないか。得体の知れない恐怖が足をすくう。
そして、身の潔白だが、奥様は炎の懐剣が謀反の証拠とされた・・・と言われた。つまりは姫様をかどわかした罪は旦那様とサヤ様に着せられたままだ。いかようにも難癖はつけられ捻り殺されるであろう。
やはり、逃げねばならない。・・・一刻でも早く。
「サヤ様。そのお刀は、妖の蔓延るこの屋敷から逃れたら、決して人には見せてはなりませぬ。」
そう言い含めると、お藤はサヤの手をとった。
「さぁ、行きましょう。」
「うん。」
お藤は心配であった。
裏の小道に出るには、ここからではあの庭に面する廊下を通らなければならない。
さっきは何もしてこなかったが、火が回っている。
近づくことにならなければいいが。




