第1話 少年と若様
これより、本編を始めます。どうか最後まで、皆様に楽しんでいただけますように。
小さな泡と大きな泡、まるで手を取り合うようにくるくると螺旋を描きながら上昇し、青と白が入り交ざった水面の煌めきの中に溶けて溺れてゆく。
少年はかつてもこのような流れに身を任せ、水底からゆっくりと水面を眺めていた気がする。
もしかすると、もっと広大な場所で、もっと長い時間を、深い深い水の底から、あるいは自分自身がたゆたう一つの泡となって漂っていたのかもしれない。
バカなことを。だが懐かしい気もする。
「ふう」と一息つき、流れが穏やかな川辺にたどり着いた少年は、丸くて平らな石を枕にして大の字になった。
手足は冷たいが、頭の下の石は太陽に温められて心地よい。
目を閉じているとせせらぎと虫たちの声が耳に届く。
ツクツクボウシの声も混じっている。
少年は寝転んだまま水をすくい、額から流れ落とす。
陽に温められた顔と首筋に、水の冷たさと陽の暖かさが交互に流れお互い競うように、心地よさをもたらす。
「なぁんかええことしとるのぉ」と声がした。
影が横切ったかと感じたが、顔を上げる間もなく、人が横になっているにも関わらず、遠慮なくというか、関係なくというか、わざとというかザブザブと川に入っていく大きな男の裸の背中が見えた。
水しぶきを上げながら、
「ひぃやぁぁぁ あっつい時はこれが一番じゃあぁぁ!のう?」
少年は身を起こし、頭を垂れた。
「これは、若様。気づかずご無礼を」と謝る。
「ええんじゃ!ゆっくり寝とけ。あーひゃっこいのーたまらんのぉー」
若様と呼ばれた青年はそう言って冷たい川に、水に頭を突っ込んでしまった。
そして「ぶばぁぁぁっ」勢いよく上体を反らせるとそのまま川のせせらぎに座り込み
「稽古帰りか?ユウジ」と少年に問いかける。
「はい。」少年は答えた。
「それならこりゃたまらんのう!ひゃっひゃっ!」
首筋に水をかけながら、座ったまま飛び跳ねている。
「ロクロウ、そちも入れぇ気持ちええぞ」
若様は方手でひらひら招きながら岸で膝をついて刀を抱いている侍に話かける。
「いえ、私はここに。」
「ほうか、ならばこれじゃ」
すると、手ぬぐいを川の水につけて固く絞りロクロウと呼ばれた青年に投げた。
彼は抱いた刀を揺らすことなくそれを受け取ると
「ありがとうございます。若、馬達の脚を冷やしたいのですが」
「おお、頼むぞ。下流の方でな。」
ロクロウがうなづくと、下男が馬の手綱をとって川下へ歩き始めた。
「いや、暑いのう。このままじゃぁ夜も寝れんぞ。」
「朝夕は多少涼しくなりますれば・・・」とロクロウ は答えた。
「いや、暑い暑い。昔はまだまだ涼しかったぞ。なあ?」
若様はユウジという少年に向かって、同意を求めているようだった。
「確かに、毎年だんだんと暑くなってきていると思います。」
「そうじゃろ。ユウジ、我はク海のせいじゃと思うとる。」
「・・と申されますと?」
思わずユウジは若様に問い返してしまった。
「近頃の戦でク海近くで人が死にすぎた。ク海もせり上がろうて。海面上昇というやつじゃ」
「しかし、ク海がこの頃暑くなってきていることと関係あるのですか?」
ユウジがよく分からずそう訊くと、若様は少し間をあけて言った。
「理由はよくわからん。だがク海の海面のすぐ下でさえ、今でもここよりずいぶん涼しいのだ。・・・・我らが子どもの頃のようにな。ひとつ言えることは、ク海は我ら人間を追い出し、弄び、そして殺そうとしているということだ。」
ク海について伝わるのは、約八十年前に発生したとも言われているこの世界の現象で、目に見えない流動的物質(気体に近い)が低い土地に溜まり、その境界面において海と陸地のようになってしまったものだ。
ク海の海面下では自然に悪影響はなく日光が遮られたり空気がなくなることもない。動植物も普通に生きている。
ただひとつ、ク海の海面下では特に人間だけが心身に支障をきたすため生活できない。落下などで深部に至った者で生還者はほとんどいない。
そしてク海の海面が上昇する条件のひとつに、死んだ人間の魂を吸収することが可能性として考えられている。
・・・つまりは人間だけを拒絶しているのだ。そして殺めながら縄張りを拡大する。
「若、そのくらいで。」
ロクロウが微笑む。
「おう、そうじゃな。気分が台無しになる。」
若様は舌を軽く出して笑った。
「それより、ユウジ」
「はっ」
「そちんとこの婆様。役目を解いて家に帰すぞ。」
若様はにんまりと頬の肉を持ちあげる。
「えっ?」
ユウジは頭のてっぺんから声が抜けてしまった。
「何を驚いている?」
ユウジの祖母は、この若様の乳母であったユウジの母と共にもともと若様のそば回りの世話をしていた。
祖父、父、兄そして母が他界してしまっているので、ユウジが元服して家を継ぐまでの間、約六年前から城で特別な役目を担い、その給金で家計を支えていた。
特別な役目のため、年に一度の宿下がり以外、何年も家に帰れていない。
「帰ってくるのですか?何か粗相でも?」
「いや、そうではない。そちの家の女手をもう何年もこっちで取ってしもうとるし。」
母を亡くし、祖母と姉が仕事に出て、家にはユウジ一人が残されていた。
「えぇ、はい。ああ・・いえ・・使用人がおりますれば、女手は足りておるのですが・・・」
祖父の代からの下男夫婦が身の回りの世話をしてくれるので助かっている。
「聞けばな。三年前から婆様のともに出仕しているそちの姉のナツキが、もう充分にお役目を引き継げるようになったそうでな。自分は帰って、家のことをしっかりしたいんだと。」
加えて、三年前からしっかり者の姉もそのお役目を手伝うために出ているものだから、ユウジは家でかなり自由に過ごしていた。
「祖母がそう申しておりますので?」
「そうそう。そちの家にはいろいろと苦労をかけたからな。それにもう年じゃ。」
「いつでござりましょう?」
ここが肝心だとユウジは思った。
「へっ?」
「帰ってくるのは、いつでござりましょうか?」
あの元気な婆様に年は関係ないとユウジは思っている。
「まぁ、明日にも内示が出るらしいし、十日もすれば帰られるだろう。」
「あぁぁ十日後ですか・・・いや、婆様のことだからもっと早くなる。これはいかん・・・」
ユウジは婆様には頭が上がらない。
「まぁ、今日のように、川で遊んでずぶ濡れで帰るようにはいかんだろうなぁ」
若様の目がいたずら小僧のようにキラキラと光っている。
「若様、私はこれにて」
ユウジは急いで頭を下げ、立ち去ろうとした。
「まぁ待て、そもそもそちは、宝引に行くんじゃないのか?」
妙な間があった。当初の目的は頭から吹っ飛んでいたらしい。
「・・・へっ、ああ、そのつもりでした。」
「我も顔を出すところじゃ。汗臭い体を清めたかったのはそちも同じじゃろうが?」
そう、川向うの寺で催される宝引に行くため、水を浴び、着替えも用意してある。
「若様も宝引に参加されるのですか?」
「まぁ立場上、検分役じゃ。我が家の役に立つ宝を引く者がおるかもしれんからな。まぁ最近は隣国との戦続きでまともに参加できとらんから、久方振りのええ機会じゃ。供をせよ。」
若様は勢いよく立ち上がった。